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慕容泓

慕容 泓(ぼよう おう、生年不詳 - 燕興元年(384年))は、五胡十六国時代の西燕の創始者。前燕の第2代皇帝慕容儁の子で、慕容暐の弟である。燕王あるいは燕帝を自称していないが、独自の元号を立てて自立しており、実質的な西燕の建国者とされている。前燕では359年に済北王に封じられていた。建熙11年(370年)に前秦の攻撃を受けた兄の慕容暐が降伏して前燕が滅びると、前秦の下で慕容泓を始めとする多くの鮮卑慕容部族が関中へと移住した。建元19年(383年)に前秦が淝水の戦いで敗退、国内の各部族での影響力が弱まると、翌建元20年(384年)に叔父の慕容垂が河北で叛乱を起こした。前秦から北地長史に任じられていた慕容泓はこの報を聞くや、即座に関東の鮮卑部族を集結させて前秦の強永を破って都督陝西諸軍事、大将軍、雍州牧、済北王を自称し、慕容垂を呉王と表奉した。当初は前燕の故地に戻り、慕容垂への帰順を考えたが、苻叡が討伐に向かっていることを聞くとその地を棄てて西の故地に戻りたがった。しかし苻叡は姚萇の西進させようという反対を聞かずに慕容泓を攻撃した。慕容泓は苻叡を撃破すると西進した。弟の慕容沖も前秦から独立していたが、敗走して慕容泓と合流した。慕容泓は長安の前秦皇帝苻堅に、兄の慕容暐を送れば関中を去って前秦を侵さないことを約束した。苻堅は慕容暐を召し出して追及したが慕容暐が忠誠を誓ったために助命した。さらに慕容垂、慕容泓、慕容沖に降伏を促す手紙を書かせた。しかし慕容暐は同時に密かに慕容泓に使者を遣わした。その使者が言うには、大業を建てることに勉め、苻堅が慕容暐を処刑したら皇帝を名乗るように、ということであった。慕容暐が死んで慕容泓が長安に進み、燕興と改元することで実質的に西燕が成立した。西燕が成立して間もなく、慕容泓が法に厳しく、慕容沖の方が徳望があると信じて擁立しようとした高蓋などにより殺害された。死後、慕容沖によって粛宗の廟号と烈文皇帝の諡号が追尊された。

出典:wikipedia

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