横浜市の歴史(よこはましのれきし)は、神奈川県横浜市の市域における歴史;自治体史。横浜市域は3万年前に陸化し、立川ロームの堆積が始まった。2万2000年前までには市内に人間が現れ、旭区の矢指谷遺跡、都筑区の北川貝塚など、およそ25ヶ所の後期旧石器時代の遺跡が発見されている。市域で発見された縄文時代の遺跡は、都筑区の花見山遺跡など、市内各所に残る。中期までの弥生遺跡は少ない。中期後半以降は、都筑区の大塚・歳勝土遺跡など、方形周溝墓を伴う環濠集落が現れる。磯子区の三殿台遺跡は、縄文時代・弥生時代・古墳時代にわたる大規模な遺跡である。古墳の出現は、畿内に1世紀以上後れた4世紀の中期~後期とされる。この時期の遺跡としては、港北区の観音松古墳跡、青葉区の稲荷前古墳群などがある。市域の地名に関する最古の記録は、『日本書紀』に見られる。安閑天皇元年(534年)、武蔵国の笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)は大和朝廷と結び、上毛野君(かみつけぬのきみ)と組んだ小杵(おぎ)を破った。この結果、笠原直使主は大和朝廷から武蔵国造家であることを認知され、横渟(よこぬ)、橘花(たちばな。橘樹郡)、多氷(たひ)、倉樔(くらす。後に久良(くら)郡、さらに久良岐郡)の4ヶ所を屯倉として献上したと記される。7世紀後半までに、市域には、武蔵国橘樹郡、久良岐郡、都筑郡、相模国鎌倉郡が置かれた。橘樹郡は川崎市のほぼ全域と横浜市の北東部、久良岐郡は横浜市の中南東部、都筑郡は横浜市の北西部、相模国鎌倉郡は横浜市の南西部と鎌倉市をその領域とする。都筑区の長者原遺跡は8世紀に成立した都築郡衙跡とされ、郡庁舎・正倉の遺構などが発見されている。また、この遺跡は国道246号(旧大山街道)に面しており、この道が古東海道であったと考えられている。なお、都筑郡の名が見える最古の記録は、『万葉集』である。万葉集には、都筑・橘樹の防人とその妻らの歌が収められている。927年(延長5年)には、杉山神社が、式内社とされた。杉山神社は、全国でも横浜市と川崎市、特に鶴見川流域にのみ散在鎮座し、数十社が現存する。このうちどの杉山神社を当時の杉山神社と特定するか、定説はない。杉山神社の論社には、緑区西八朔町の杉山神社、都筑区茅ヶ崎町の杉山神社、都筑区中川町の杉山神社、港北区新吉田町の杉山神社、および鶴見区鶴見中央の鶴見神社などがある。奈良時代以降は人口も増え生産力を高めた。平安時代には各所の開発も進み、三浦氏の一族平子氏、榛谷氏、稲毛氏など有力な豪族がいた。今に残る弘明寺などの寺院は、この有力豪族らにより建立されたものと考えられる。江戸時代、市域の大部分は幕府直轄領または旗本知行地となり、2国4郡にわたる215の村々から成っていた。人口はおよそ10万人、2万世帯と推定される。石高はおよそ8万石。市域には神奈川湊をはじめとして20以上の湊があり、廻船業が発達した。
出典:wikipedia
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