傅 俊(ふ しゅん、? - 31年)は、後漢の武将。字は子衛(しえい)、潁川郡襄城県(現在の河南省襄城県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第21位に序せられる(『後漢書』列伝12)。王莽の頃、劉秀が襄城を攻めた時に県の亭長としてこれを迎え、校尉を拝命した。このとき襄城の者は傅俊の母・弟らを殺した。昆陽の戦いで王莽配下の大司徒・王尋らを破り、偏将軍となった。また別働隊として鄧晨と共に京・密などを陥落させた。劉秀は傅俊に家族を葬らせるため、故郷へ帰した。劉秀が河北攻略を始めると傅俊は賓客十数人とともに邯鄲で合流した。建武1年(25年) 、劉秀の即位時に侍中となった。また、陰麗華を貴人として洛陽に迎える使者として立てられた。建武2年(26年)、昆陽侯に封ぜられた。建武3年(27年)、積弩将軍を拝命した。征南大将軍・岑彭とともに、新末後漢初の群雄の1人、黎丘郷の秦豊を破り、また揚州に派遣されてこれを平定した。建武7年(31年)、逝去し、威侯と諡された。
出典:wikipedia
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