世間(せけん)とは、仏教用語であり、出世間(しゅっせけん)とあわせてこの世を二分して見る言葉である。移り変り、破壊を免れない迷いの世界という意味である。さらに、日本ではこの用語は一般名化して、「この世」「世の中」「社会」のことを表す用語として使われている。転じて歴史学者の阿部謹也は、日本社会が“Society”の訳語としての「社会」に当てはまらない性質があるとして、旧来の「世間」の呼称を採用し、西欧的「社会」との比較研究としての「世間論」を展開した。また、「世間」と書いて「よのなか」と読むこともある。世間の原語であるサンスクリット語のローカ「loka」は、「砕く」という意味の動詞「luj」から派生して「滅すべきもの」の意味である。このローカに界 (dhaatu) を加えて、ローカ・ダートゥ (loka-dhaatu) といい、世間界の意味である。ダートゥは一般に構成要素の意味であるが、ここでは範囲とか領域と解釈すべきである。このローカ・ダートゥは、「世界」といわれ、サンスクリット語では「クシェートラ」(kSetra) ともいわれる。この場合は、所有するという意味のクシ (kSi) から派生してクシェートラとなるから、所有地・領地の意味の国土である。世間(ローカ)からラウキカ (laukika)、すなわち「世俗」の語がつくられた。ローカ自身には別に悪い意味はないが、迷いの世界として世間を意味する場合が多い。この場合、世間の「世」とは「遷流」(せんる)の意味で移り変わること、「破壊」の意味で壊れること、「覆真」(ふしん)の意味で真実を覆っていることなどと解釈される。また「間」は「間隔」の意味で、ものが個々別々に差別化されてみられることと解釈される。このように世間とは、本来一味平等であるものに区別を作って、それにこだわって生活しているから、真実がおおわれ、無常であり、破滅すべきものと説かれる。このように一般に世間といわれている使い方とは違って、仏教では、深い人間的反省が込められている。このような壊れてゆく世界に対して、仏や菩薩のような世界は、出世間 (loka-uttara) といわれ、世間をこえた境界といわれる。この意味で、仏教でいう世間は、単に物質的なものではなく、精神的な境界の意味が、その根本的な立場である。上記の通り、仏は世間から出でた存在であることから、仏の教え(すなわち仏法)を、出世間法、あるいは如来法(にょらいぼう)などという。これに対して、移ろいゆく世界(世間)の法則に流れしたがうことを世間法(せけんぼう、略して世法 - せほう)という。なお、大乗仏教が後世にさらに発展すると、この娑婆における苦の多い現実世界の中で仏法を活かすということから、世法を完全否定せず、世間の法則を肯定的に捉えるようになった。またこれは、世間法即如来法(世法即仏法)と対立する2つの概念を不二法門として説かれるようになった。三種世間ともいい、移ろいゆくこの世の現象世界、つまり世間を3種類に分類したもの。これらの境界が、いわゆる物質的なものを含めて、環境一般をも意味するようになると、以下の三世間が説かれる。大智度論では、以下の名称で説かれている。華厳経疏では、以下の3種類を立てるが、3つめは大智度論とは異なる。なお、サーンキヤ学派では、以下の3種類を立てる。この迷いの世界や悟りの世界について、インド古来の須弥山世界説がもちこまれて解釈がなされるようになると、元来、精神的存在であったものが、物質的存在と解釈されるようになり、欲界・色界・無色界の三界を立て、また、地獄などの六道をたてることになる。さらに、この三界を迷の世界であるとして、ところで、仏教もこの世界を物質的世界として説くが、本意は精神的なものが中心である。よって三界説も、欲界から色界へ、色界から無色界へと、人びとの精神生活の純化の段階を示したものと受け取られる。これら詳細については、三界の項を参照。なお、大乗仏教では、この三界を離れ、さらにその上に声聞、縁覚や菩薩、そして仏国土や浄土があると位置付ける。また天台宗などでは、迷悟両界をあわせて十界があるとする。世間・世の中を意味する言葉として『万葉集』では「うつせみ(現身)」「よのなか(世間)」の用例が見られ、「世間」の用例は45首(作者・年代が確定可能なものは35首)が見られる。世間とは、自分と利害関係がある相手、もしくは将来的に利害関係が発生する可能性がある相手を指す。1から5の条件を全て満たしている場合、それを世間と称し、人に価値と規範を強制する安定した空間となる。1つでも条件を外していれば、それを空気と呼び、人に価値と規範を強制するのには、不安定である。社会は、socialの訳語であり、1878年前後に考案された。個人は、individualの訳語であり、1888年前後に考案された。西洋流の法治国家を樹立するために、必要な訳語であった。それ以前の日本には、社会個人はなく、あるのは世間と人であった。社会・個人という概念は、キリスト教の世界観に立脚している。西洋で神と向かい合うのは、個人であり、個人に価値と規範を強制するのは、神であった。日本で人に価値と規範を強制するのは、世間であった。価値と規範を受け入れた人には、世間は保護を与えた。しかし、1980年代前半までは、子役志願の子供に「君のクラスはどういうクラス?」という質問が成り立ったのだが、1980年代後半のバブル期前後から成り立たなくなったとする。代わりに「君のグループは、どういうグループ?」と聞かなければならなくなったという。従来、子供にとっての世間とは、クラスだったわけだが、それが崩壊している、21世紀に入ってからは、クラスについて聞くのは、もっと意味のないものになった、と主張する。いじめの問題にしても、リーダーがおり、いじめの標的と目的を定めた従来型のいじめはなくなり、いじめの対象の輪番制もあるという。背景には、大人の世界の変化がある。高度経済成長期から一億総中流期にかけて、農村出身者の多くは、農村から都市に流入し、地域共同体は世間として人に価値と規範を強制する機能を失った。都市化である。都市に移住した農村出身者は、会社に就職し、会社に新たな世間を求めた。会社は、終身雇用と年功序列で、これに応えた。しかし、バブルが崩壊し、会社も世間として機能しなくなった。企業城下町は、企業が海外に移転し、空洞化した。能力主義とグローバル化である。1990年代半ばに、日本は米国流の新自由主義を導入した。しかし、アメリカ人が、自立した個人と考えるのは、誤りである。アメリカ人は、いざとなったらキリスト教の神にすがる。貧困層が、キリスト教原理主義に走りやすいのも、そのためである。貧富の差が大きいにもかかわらず、公的保険制度さえない米国では、保守的キリスト教会(いわゆる福音派)が、救貧運動に走り回る。日本人のほとんどはキリスト教徒ではないから、神にもすがれないし、今や世間にもすがれない。神も世間もない丸裸の人が、自分の身を守るために会得した手段が、「空気を読む」ことであった。相手・周囲の顔色を見て自分の言動の適否を決めることしか、できなくなっていた。関連する単語としてKY(空気が読めない)という単語も登場したが、一般の使用例の増加より一部マスメディア主導で流行語として確立した経緯があり、"空気を読む"のが正しい事を前提とした批判的な単語であるという点にも注意が必要。またこの単語以外にも対義的な用例として鈍感力という単語が用いられる事もあり、単純に空気を「読む」か「読まない」かに対して正当性を論じることは難しい側面がある。山本七平の『「空気」の研究』では『文芸春秋』(昭和58年8月号 吉田満監修『戦艦大和』)を引用しながら戦艦大和内での状況を紹介しつつ、"「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。"と言わしめている。
出典:wikipedia
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