第三艦隊(だいさんかんたい)は、大日本帝国海軍の部隊の一つ。常設だった第一艦隊・第二艦隊と違い、必要に応じて編制・解散される特設艦隊であったため、日露戦争から太平洋戦争までの間に六代にわたって編制と解散を繰り返した。1903年12月の臨戦編制において、大本営直轄で警備・哨戒を担当するために老朽艦を集めて編制した。1904年3月より連合艦隊に編入された。艦隊行動を想定していない寄せ集め部隊のため「滑稽艦隊」と揶揄されたが、陸軍部隊の金州上陸支援、来航するバルチック艦隊探知のためのインドシナ捜索、そして日本海海戦当日の発見から敵情報告と、日本の勝利に大きく貢献している。樺太作戦の上陸支援の際には再編された。1905年12月の連合艦隊解散式と同時に解散した。1903年12月28日 新編時の編制1905年12月より、本土に第一・第二艦隊を常設する一方、中国大陸には邦人保護を名目とした「南清艦隊」を編制して派遣した。この南清艦隊を改名したのが二代目の第三艦隊である。のちの海外派遣部隊と同様に司令部を置かず、指揮官は司令官であり、参謀も2名のため参謀長も定められていない。辛亥革命発生にともなって河川砲艦を大幅に増強された。第一次世界大戦が勃発すると、中華民国政府は中立を宣言したため、航洋力のある巡洋艦は本邦に退去、航洋力がない河川砲艦は上海に集合のうえ武装解除され、第三艦隊は解散した。1908年12月24日 南清艦隊より改称時の編制新高、対馬、和泉、隅田、伏見第一次世界大戦に対応した臨戦編制において、南方に進出した第二艦隊の留守部隊として編制した。したがって世界大戦の前半には目立つ動きはなかったが、1917年にロシア革命が起きると、ソビエト連邦の制圧のため沿海州方面での主力部隊となる。陸軍のシベリア出兵に対応して船団護衛を担当した。また、尼港事件勃発時に救援部隊の派遣に失敗している。また、三笠がこの艦隊の一員として進出した際に座礁事故を起こしている。第一次世界大戦の終結、シベリア出兵の中止、ワシントン軍縮会議にともなう旧式戦艦の廃棄などのために解散した。1915年12月25日 新編時の編制1932年1月28日に第一次上海事変が勃発したため、現地に駐留していた第一遣外艦隊・第二遣外艦隊に増援部隊を派遣し、この3つの部隊を統括する四代目の第三艦隊を編制した。この増援部隊に「上海特別陸戦隊」が含まれる。2個遣外艦隊は翌年まで戦隊への組み換えを行わなかったため、第三艦隊の中に2個艦隊が存在する状態が約1年3ヶ月続いた。1933年5月に遣外艦隊を第10・第11戦隊に組み替えて、通常の艦隊編制となった。主力の旧第一遣外艦隊と同様に、河川砲艦を主体とする揚子江流域を監視した。1937年7月に日華事変が勃発し、第三艦隊の統率能力を上回る大量の増援部隊が加わったため、10月には増援部隊で第四艦隊を新編し、第三艦隊と併せて統率する支那方面艦隊が編制された。第三艦隊司令部は支那方面艦隊司令部が兼任した。1939年11月15日より、支那方面艦隊隷下の3個艦隊は「~遣支艦隊」へ改名することになり、第三艦隊は「第一遣支艦隊」へ改名すると同時に、司令部の兼任も解除された。なお、第一遣支艦隊は1943年8月20日をもって揚子江方面特別根拠地隊へと降格した。新編から改称まで7年9ヶ月、歴代第三艦隊では最も長い期間存在した。1932年2月2日 新編時の編制フィリピン攻略部隊として編制した。陸海軍協定でルソン島攻略を陸軍が、ミンダナオ島を海軍が攻略することになり、パラオ諸島で開戦を待った。ラモン湾の上陸支援、レガスピー攻略作戦に従事し、フィリピン占領後は蘭印攻略に向かう。陸海軍協定では、海軍が占領、陸軍が駐留を分担することになり、第三艦隊はジャワ島とボルネオ島の攻略に兵力を捻出した。蘭印占領をもって第一段作戦が完了。攻略に特化した編制から駐留に特化した編制へ変更されることになり、1年と経たぬうちに第二南遣艦隊へ改称した。第二南遣艦隊はインドネシア各地に陸戦部隊を駐留させたが、大規模な戦闘を経験せぬまま本土との航路が途絶し、末期には遊兵となって終戦を迎えた。太平洋戦争を経験した三代の「第三艦隊」の中で、終戦まで艦隊としての地位を維持した唯一の部隊である。ミッドウェー海戦で壊滅した第一航空艦隊の後継部隊として、ミッドウェー海戦に参加しなかった翔鶴・瑞鶴を中心に再建した機動部隊である。連合艦隊、第一航空艦隊司令部で打ち合わせた第一航空艦隊参謀源田実中佐によって6月12日に提出された空母部隊再建案が基礎になっている。ミッドウェー海戦の戦訓、航空主兵への切り替えが取り入れられた。建制化、警戒兵力増加、航空戦隊再編の三項目が挙げられた。警戒戦力は駆逐艦、巡洋艦の増加で弾幕強化し、航空戦隊再編は航空主兵に切り替えることに焦点を置いた。大型空母2隻に攻撃隊を搭載し小型空母1隻に自衛戦力を搭載する3隻編成とした。戦闘機、爆撃機を増やし攻撃機を減らして目標を空母においた制空権獲得の航空決戦の方針とした。これをもとにさらに検討が加えられ7月14日の戦時編成改訂で第三艦隊として新編された。壊滅した第一航空艦隊の長官南雲忠一中将と参謀長草鹿龍之介少将は第三艦隊の指揮官としてそのまま機動部隊の指揮を執ることになった。第三艦隊は空母六隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳と飛鷹、隼鷹、龍驤の2組)と戦艦2隻、巡洋艦4隻、長良を旗艦とする駆逐艦16隻の合計29隻の大艦隊の予定であった。当初より高速戦艦(金剛型戦艦)を組み入れ、遠征のたびに臨時召集していた航続距離の長い駆逐艦を取り揃え、今までにない総合力を備えた艦隊となっている。以後、新たに改造を終えて就役した空母を加え、一貫して空母機動部隊であり、大艦巨砲主義の終焉により海軍の戦力としては中核をなした。しかし編成・戦術上は、根強い大艦巨砲至上主義により、あくまでも第一艦隊あっての存在とされ続けた。南太平洋海戦の勝利を最後に衰退を余儀なくされる。1944年2月に戦艦中心の第一艦隊が廃されたこともあり、翌3月に第二艦隊と連合して第一機動艦隊を編制し、第三艦隊司令部が機動艦隊司令部を兼ねた。マリアナ沖海戦で旗艦大鳳や大量の艦上機と搭乗員を失い、その後練成した航空機も台湾沖航空戦で消耗し、レイテ沖海戦では艦上機をほとんど搭載しない「囮艦隊」として参加した。全空母を失いながらもアメリカ機動部隊の誘引に成功したが、第二艦隊はレイテ島突入を断念した。レイテ沖海戦後、残存する空母は第1航空戦隊に集められて連合艦隊付属(後に第二艦隊へ編入)となり、第4航空戦隊の航空戦艦伊勢・日向は第二艦隊に編入されて、第三艦隊は廃止された。その後、第4航空戦隊は北号作戦を完遂し、全行動を終了した。
出典:wikipedia
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