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福島正則

福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。永禄4年(1561年)、桶屋を営んだ福島正信(正光)の長男として尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で生まれる。また星野成政の子で福島正信の養子になったともいわれる。母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。始めの禄高は200石であった。天正10年(1582年)の山崎の戦いでは、勝龍寺城を攻撃するなどして軍功をあげ、300石を加増されて500石となった。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石)。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは、父・正信とともに、後備えとして兵300を率いて従軍したらしい。正則は本陣から美濃に撤退する際に敵と戦い、褒美として胴肩衣(襦袢)を賜った。その後、根来寺攻めや、四国征伐にも従い、天正15年(1587年)の九州平定の後、9月5日に伊予国今治11万石の大名に封ぜられた。小田原征伐では、織田信雄の軍として、蜂須賀家政・細川忠興・蒲生氏郷などとともに韮山城を攻撃、包囲した。文禄元年(1592年)からの文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略にあたった。年末には京畿道竹山の守備についた。この後、正則はいったん日本に帰国し、文禄3年(1594年)1月に再び朝鮮に渡った。講和交渉の進展により南部布陣が決まったため、正則は巨済島の松真浦城や場門浦城の守備、補給などの兵站活動を担当した。10月、朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時(場門浦海戦)には正則自ら軍船に乗って指揮を執り、敵船を焼き討ちするなどの反撃でこれを撃退した。文禄4年(1595年)7月、秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるという大事件が起こった。この際、正則は日本におり、秀次に切腹の命令を伝えている。同年、尾張国清洲に24万石の所領を与えられた。慶長3(1598年)に、羽柴名字が確認される。続く慶長の役には参加しなかった正則であったが、秀吉は慶長4年(1599年)に朝鮮半島に大軍勢を派遣して大規模な軍事行動を計画しており、その軍勢の大将として石田三成と増田長盛とともに抜擢されていた。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、この計画は実施されることなく日本軍は大陸から撤兵した。正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。また、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させた。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだった。慶長5年(1600年)の会津征伐には6,000人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定する。清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行った。宇喜多勢の前衛8,000を率いた明石全登に、福島勢は一時退却を余儀なくされたが、なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。やがて小早川秀秋の背信を機に、西軍の戦線は次々に崩壊した。宇喜多勢は、開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅した。正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩)。慶長6年(1601年)3月に芸備に入封した正則は、早くも領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った。範囲=家臣への知行割も事実上の給米制とし、検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするなどの善政を敷き、また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復させた。慶長7年(1602年)、本姓が豊臣姓であることが確認される。慶長8年(1603年)、安芸最西端の地に巨大な亀居城の築城を始める。この城は毛利領最東端の岩国城に対する城で、さらに山陽道の交通を遮断する能力も備えていた。慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。慶長13年(1608年)に秀頼が病を患うと、正則は見舞に大坂城へ駆けつけている。慶長16年(1611年)3月に家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた。なお正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた。この会見直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出る。しかしそれも許されず、大坂の陣では秀頼に加勢を求められても正則は拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まった。また一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わった。幕府には従軍も許されず、冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役を命じられたが、嫡男の福島忠勝が兵を率いて幕府軍に加わった。しかし戦後、正則の弟の福島高晴は豊臣家に内通したとして、幕府より改易を命じられた。家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後のことでもあり、幕府からは正式な許可が出ていなかった。福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。これにより「破却が不十分である」と咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍・徳川秀忠の命により、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封・転封される。移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した。元和6年(1620年)に忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上した。寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去した。享年64。高井野での生活はわずか5年間であったが領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した。幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収された。福島家は取り潰されたが、幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とした。福島正利が嗣子なく没した後は一旦断絶したが、福島忠勝の孫・正勝が家を再興し、代々御書院番などを務めた。なお「左衛門大夫」という官職は実際には存在しない。現在残されている正則を左衛門大夫に任じる旨の口宣案の由来・真贋は不明である。本来「左衛門大夫」とは「(六位相当の)左衛門尉を辞して、それと引き換えに従五位下に昇進した、現在は散位(無官)の人」を指す言葉である。「現在従五位下であって左衛門尉でもある人」は「大夫尉」「大夫判官」と呼んで区別する。正則の時代にはすでにそのような慣習は忘れられて「左京大夫」などの実在の官職との混同が起きていたのする見方がある。「左衛門大夫」は「さえもんたいふ」であるが「左京大夫」は「さきょうのだいぶ」であり、この点でも区別がある。また、同様の例として池田輝政の「三郎左衛門尉」(単に「ある人物の三男で、本人は左衛門尉の官職にある人」という意味。「三郎」は官職名ですらない)があり、正則も輝政も侍従任命後も従来の名乗りを用い続けている事例を挙げて、武士としての官途名と豊臣政権において武家官位として補任される官位が別物として扱われるようになったからとする説もある。また、通常豊臣譜代の諸将は「諸大夫成」(従五位下叙位)として扱われていたが、正則と青木重吉だけは「公家成」(侍従任官)とされて、浅野長政・加藤清正・石田三成らよりも一段上とされていた。これは正則と重吉が秀吉の母方の縁者であることから、豊臣氏の「准一門」とされて他の譜代家臣とは別格扱いされたからだとされている。

出典:wikipedia

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