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マーシャル・プラン

マーシャル・プラン(Marshall Plan)は、第二次世界大戦で被災した欧州諸国のために、アメリカ合衆国が推進した復興援助計画。通常は提唱者の国務長官ジョージ・マーシャルの名を冠してこのように呼ぶが、正式名称は欧州復興計画(おうしゅうふっこうけいかく、European Recovery Program, ERP)。1947年6月5日、ハーヴァード大学の学位授与式に臨席したマーシャルは記念講演の中で、米国が欧州に対して大規模な復興援助を供与する用意がある旨を表明した。これに応じた西欧16か国は、復興4か年計画と援助所要額をまとめた報告書を共同で作成して米国の援助を仰ぐと共に、援助受け入れ機関として欧州経済協力機構 (OEEC) を設置した。一方、米国は援助政策の根拠法たる「1948年対外援助法」を制定し、実施機関として経済協力局 (ECA) を設置した。援助は旧敵国(枢軸国)にも供与され、イタリアやオーストリアが原参加国に名を連ねたほか、米英仏3か国の占領下にあったドイツ西部も援助対象として認められた。マーシャル・プランは西欧諸国の戦後復興に一定の貢献をし、また米国企業には巨大な欧州市場を提供した。ソ連及び東欧諸国が計画に参加しなかったため、欧州の東西分断が加速したが、その一方で西欧諸国間の統合への動きは進展した。米国は無償贈与を中心に100億ドルを超える援助を供与したが、後半期には軍事援助に重点が移り、相互安全保障法に基づく援助に吸収された。マーシャル・プランは一般に、米国史上屈指の成功を収めた対外政策と見做され、マーシャルは計画を推進した功績によってノーベル平和賞を受賞した。しかし、経済史の分野ではその経済効果を疑問視する見解が出され、議論を呼んでいる。外交史的見地からは、従来は反共政策としての側面が強調される傾向にあったが、新たな視点からの研究成果も現れている。一方、中華民国にもアメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画をしていたが、蒋介石がアメリカの内戦回避の意向を無視し、共産党への軍事攻勢を行っており、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明し、結果として計画は破綻した。1947年2月21日、金曜日の午後遅く、駐米英国大使を務めるの一等書記官M・H・サイチェルが国務省を訪れた。大使から覚書(Aide-Mémoire)を託された書記官は、応対した国務次官ディーン・アチソンに対し、国務長官ジョージ・マーシャルとの面会を求めた。しかし、当のマーシャルはプリンストン大学創立200年祭で記念講演を行うため、国務省を発ったばかりであった。覚書は緊急の検討を要したが、国務長官宛の正式文書を他の者が受け取ることはできないため、応急処置として覚書の写しを国務省近東・アフリカ局長ロイ・ウェズリー・ヘンダーソンに手渡し、正本は後日マーシャルに渡すことにした。サイチェルは覚書を2通携えていた。1通目はギリシャに関するもので、イギリスが3月31日を限りにギリシャに対する援助を打ち切らざるを得ないとして、年間6000万乃至7000万ポンド(当時の為替レートは、1ポンド=4.03ドル)の肩代わりをアメリカに求めた。もう1通はトルコに関するもので、軍の近代化と経済発展の両立が困難であること、トルコの戦略的・軍事的位置について英米連合参謀本部()で協議する用意があることや、トルコ軍拡充のための財政援助をアメリカが行うよう期待することが記されていた。大戦後のギリシャ・トルコ両国は、以下のような情勢下にあった。ギリシャでは第二次世界大戦中、共産党系の民族解放戦線(Ethnikon Apelefyherotikon Metpon, EAM)とその軍事組織であるギリシャ人民解放軍(Elinikos Laikos Apeleftherotikos Stratos, ELAS)が枢軸国に対するレジスタンス運動を展開していたが、1944年のドイツ軍撤退後、カイロのパパンドレウ亡命政府が首都アテネ入りを果たすと、同政府の中心である右派・王党派勢力とEAMとの間で衝突が起こった(ギリシャ内戦)。イギリスは王党派を援助してきたが、これに対して内外から批判が挙がった。加えて、1946年から翌年にかけての冬は実に66年ぶりの厳冬となったため、国内では深刻な燃料危機が発生した。イギリスは大戦で経済が疲弊した上、巨額の対米借款を抱えており、援助政策の再考を迫られていた。経済情勢も深刻で、工業生産は戦前の40%程度に留まっていた。1946年末に訪米したギリシャ首相コンスタンディノス・ツァルダリスはギリシャ経済の窮状を説明し、今後5年間に12億4600万ドルの援助が必要であると訴えた。一方トルコでは、ボスポラス・ダーダネルス両海峡の管理を巡る問題が発生した。両海峡は1936年11月以来モントルー条約に則って管理されてきたが、1946年中に改訂することがポツダム会談で合意されていた。これを受けて1946年8月7日、ソ連はトルコに覚書を送付し、黒海沿岸諸国の軍艦の自由航行やソ連の軍事基地建設を前提とするソ連・トルコの海峡共同防衛などを提案した。トルコはこれに反発、米英もトルコに同調した。2月24日(月曜日)の早朝、覚書は正式にマーシャルに手渡された。同日、国務省内にはヘンダーソンを長とする「ギリシャ・トルコ援助検討特別委員会」が設置され、「長文電報」でソ連通としての知名度を高めていたジョージ・F・ケナン もこれに参加した。特別委は翌25日、「対ギリシャ・トルコ緊急援助に関する国務省の立場と勧告」をアチソンに提出した。報告書は、安易にソ連との妥協を行わないとの言質をイギリスから取ることを条件に、援助肩代わりの要請を受け入れることを勧告した。さらに2月26日、国務省・陸軍省・海軍省の3省長官会議が開催された。陸軍長官ロバート・ポーター・パターソンと海軍長官ジェームズ・フォレスタルは、同様の事態は南朝鮮や中国など他の諸地域でも発生しているため、これらの地域への援助も必要であると考えた。しかし議会で多数を占める共和党が財政支出の削減を強く求めていることに配慮し、対象をギリシャ・トルコに限定した国務省の勧告に基本的に賛同した。会議後マーシャルは、ギリシャ・トルコ援助案を大統領ハリー・S・トルーマンに伝達し、了承を得た。トルーマンは、アーサー・ヴァンデンバーグら有力議員8名を招き、対ギリシャ・トルコ援助への協力を事前に取り付けた。同年3月12日、上下両院合同会議の場においてトルーマンは特別教書を発表した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。トルーマンは、イギリスが対ギリシャ・トルコ援助打ち切りを通告したことに触れ、ギリシャ及びトルコの現状について説き起こした。この教書の中でトルーマンは、世界のほぼ全ての国々が否応なく「2つの生活様式」、即ち自由主義と全体主義の選択を迫られているという二元論的な外交理念を提示すると同時に、「武装した少数者や外部からの圧力による征服の試みに抵抗している自由な諸国民を支持することこそ合衆国の政策でなければならないと信じる」と語った。そして、ギリシャやトルコが全体主義者の手に落ちればその影響は両国のみに留まらないと主張し、両国に対する経済的・軍事的援助として、1948年6月末までに4億ドルの支出と民間人・軍人の派遣を認めるよう議会に要請した。4億ドルという額についてトルーマンは、アメリカが大戦中に支出した戦費(3,410億ドル)の0.1%強に過ぎないと語り、負担に充分耐え得ることを強調した。そして、自由世界を全体主義体制から守る責務を全うできる国家は今やアメリカをおいて他にないとして、上記の提案に賛同することを議会に求めたのである。この演説は、名指しこそ避けたものの、ソ連の影響力が地中海沿岸地域にまで及ぶことを警戒する内容となっていた。ギリシャ・トルコ危機という地域問題は、この演説によって世界規模の問題として捉えられ、その背後には米ソの対立という図式が潜んでいるとする認識が同時に示されたのである。この演説は広汎な支持の獲得に成功したという。しかし国務省からは、演説内容に対する驚きの声が上がった。反共的な主張の並んだ草稿に驚いたマーシャルは、事態を過大に言い過ぎているとの電報をトルーマンに宛てて送信した。また、ケナンは草稿を読んで「これはまずいな」と懸念した。ケナンは、ギリシャへの経済・技術援助には賛同しつつも、軍事援助には消極的であった。また、局地的問題を普遍化するかのような言辞にも反対した。この頃モスクワでは、米・英・ソ・仏の4か国の外相による会談が進行中であった。旧枢軸国のうち、イタリア、ハンガリー、ブルガリアなどとの講和は1946年11月のニューヨーク外相会談で決着し、翌年初頭に講和条約調印を実現した。残るドイツ・オーストリアとの講和問題を議題として開催されたのが、モスクワ外相会談である。4か国は、1947年3月10日から4月24日まで45日間にわたって議論を交わしたが、各国の利害が鋭く対立し、とりわけドイツの処理問題は困難を極めた。主な争点は以下の諸点である。対オーストリア講和問題も、一定の前進こそあったものの結論は先送りされた。こうして会談はみるべき成果のないまま、議題を次回に持ち越して閉幕した。会談に出席したマーシャルは、ドイツ処理問題におけるソ連の強硬姿勢の背後には「問題の長期化は欧州経済に悪影響を及ぼす。それはソ連にとって有利に働く」との意図があるとみた。その確信は、国務長官特別補佐官チャールズ・ボーレン () を伴ってヨシフ・スターリンを表敬訪問した際に、いよいよ強固なものとなった。ドイツ問題の早期解決を訴えるマーシャルに対し、スターリンは無関心であるかのような回答を返した。曰く、「我々は、次回には合意に至るであろう。その時でなければその次には」。モスクワからの帰途、マーシャルはボーレンに対し、西欧の完全崩壊を防止する手立てを考えねばならないと語った。1944年に財務長官(当時)ヘンリー・モーゲンソーが主唱したモーゲンソー・プランは、ドイツの軍需産業を徹底破壊して同国を農業国化するという、懲罰的なドイツ政策を志向したが、この案は国務省や陸軍省、さらには英国の猛反対を受けて影響力を失った。2年後の1946年9月に国務長官(当時)ジェームズ・バーンズがシュトゥットガルトで行った演説(「ドイツ政策の見直し」)では、ドイツは欧州の一部であって、ドイツの復興は欧州復興の一部をなすものであるとの認識の下、ドイツの経済的自立の重要性が謳われた。1947年3月18日にはフーヴァー使節団が、ドイツの工業力を基礎とした西欧復興を大統領に勧告する報告書を提出した。在独合衆国軍政当局 (Office of Military Government for Germany, United States, OMGUS) も、占領経費の削減という見地からドイツ復興を推進した。議会もこうした路線に賛意を示していた。しかし、「強いドイツ」の復活にはフランスの反発が大いに予想された。この難題を乗り切るために、欧州の共同復興という案が浮上したのである。トルーマン演説以来、議員らの間から400を超える質問が噴出した。これに答えるため、国務省は「ギリシャ・トルコ援助法案に関する質問と回答」と題する文書を作成し、議会に提出した。同文書は、ギリシャ・トルコ援助に類する援助を他の地域にまで拡大する予定は現時点ではないと回答していた。だがそれは、援助支出の増大を渋る議員らに対する便法に過ぎなかった。実際には、演説が行われた時点で既に、緊急の援助を必要とする国々を洗い出す作業は始められていたのである。6年間に及んだ大戦は、欧州全体に深刻な影響を及ぼしていた。1946年時点の鉱工業生産は英国が大戦前(1937年)の90%、フランスが同じく73%に留まり、敗戦国のドイツ(ソ連占領区域を除く)に至っては戦前の3分の1にまで落ち込んでいた。欧州全体を見ると、1947年時点の農業生産は1938年水準の83%、工業生産は88%であり、輸出はわずか59%に過ぎなかった。米国は1941年3月に武器貸与法を成立させ、大規模対外援助への道を開いた。戦災地域の救済のため1943年11月に設立された連合国救済復興機関 (UNRRA) に対しては、米国は活動資金(約36億6000万ドル)の大半を拠出してきたし、大戦終結後は英米金融協定に基づき37億5000万ドルを英国に貸し付けた。これらは暫定的な援助としてなされたものであり、国際通貨基金 (IMF) や国際復興開発銀行 (IBRD) を中心としたブレトン・ウッズ体制へ早期に移行できると期待されていた。しかし、これらの援助だけでは欧州復興は覚束ないとする悲観的認識が次第に広がった。戦後欧州の枠組みや欧州復興の道筋に関しては、先に述べたバーンズのシュトゥットガルト演説を始めとする、多くの青写真が提示されてきた。そして、対ギリシャ・トルコ援助打ち切りの通告からマーシャルによるハーヴァード演説までの15週間に、米国政府では対外援助のあり方について様々な検討がなされた。その結果、マーシャル・プランの基本理念の形成に貢献する、いくつかの案が示されたのである。3月5日、国務次官アチソンはパターソンとフォレスタルに対し、国・陸・海3省調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee, SWNCC:国家安全保障会議の前身で、1944年に設置された。3省の次官補級官僚を構成員とする)を通じて、緊急の援助を必要とする国の選定を行うよう提案した。これを受けて、トルーマン・ドクトリン発表の前日に当たる同月11日、第55回3省調整委員会が開催された。同委員会は対ギリシャ・トルコ援助の実施計画の検討を開始すると共に、委員会内に特別委員会を設置することを決定した。国務省内には、国務長官特別補佐官ウィリアム・エディ (William Alfred Eddy) を委員長として外国政府援助拡充委員会 (Committee on Extension of United States Aid to Foreign Governments) が設置された。4月21日、3省調整特別委員会は「合衆国による対外援助の政策・手続き・費用」と題する中間報告を提出した。報告書は、援助対象候補国の選定を世界的規模で行い、以下のリストを作成した。また、1947年の米国の輸出超過を75億ドルと推定し、政府の対外支出48億ドルでは諸外国のドル不足を解消できないとして、「危機的諸国の経済を地域的・世界的な貿易・生産体制に再統合すること」を経済政策の目標にすべしと主張した。既に援助が計画されていた諸地域を除くと、この報告書が主に欧州への援助を重視していたことが判る。対象の中には、東欧諸国(チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド)の名もあった。後述するように、これら3国はマーシャル・プラン発表当初、援助の受け入れに関心を示していた。その一方で、このリストにはドイツが援助対象として挙がっていない。また、緊急性の度合いという観点から援助対象を2種に分類し、政治的・軍事的危機を想定しているところにその特徴があった。特別委員会の一員であったジョーゼフ・ジョーンズは、この中間報告が「直接的かつ有力な貢献をした」と評価した。ただし、最終報告が提出されたのは10月3日であり、ハーヴァード演説への影響をみる上で考慮すべきは中間報告までである。この中間報告が演説に及ぼした影響は限定的であったとみるのが妥当であろう。なお、3省調整委員会から援助問題について意見を求められた統合参謀本部 (JCS) は、回答として指令文書「JCS 1769/1」を作成した。JCSは安全保障という観点から援助のあり方を考えており、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランドを援助対象から外すことを勧告すると共に、戦略的重要地域たる西欧の、殊にドイツの経済復興を重視した。こうした点を踏まえてJCSが示した援助の優先順位はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ギリシャ、トルコ……の順になっており、仏独協調の重要性が謳われていた。JCS 1769/1の見解は3省調整委員会に認められ、ハーヴァード演説の8日後、委員長モズリー (Philip Mosely) からマーシャルに伝えられた。モスクワ外相会談から帰国したマーシャルは4月28日、ラジオ放送による帰国演説で会談結果を報告した。マーシャルは、「医師らが熟考している間に患者は衰弱している」と述べ、欧州経済の今後について危機感を露にした。ラジオ演説の翌日の4月29日、マーシャルはケナンを招き、国務省内に政策企画本部 (Policy Planning Staff、PPS) を新設してケナンを本部長に据えることを伝えると共に、欧州再建問題の分析と行動指針の勧告を含む文書を作成するよう指示した。ケナンは5名の部下と共に、連日非公式の検討作業を繰り返した。5月15日に政策企画本部内で行われた討議では、対ギリシャ・トルコ援助が決定した今にあっては、最大かつ決定的な問題は西欧にあること、問題は政治的・経済的なものであって、軍事的なものでないことなどを確認した。これらの基本方針がアチソンに了承されたのを受け、政策企画本部は5月23日、組織として最初の報告書となる政策企画本部文書第1号「米国の西欧援助に関する政策―政策企画本部の見解」を提出した。表題からも明らかなように、この報告書は欧州の中でも「西欧」の経済復興を主眼としていた。報告書は4節8項目からなる。まず総論(第1節)において、報告書は欧州の危機の根源を共産主義の活動ではなく戦争の破壊的結果に求める姿勢を明確にした。即ち、米国は「欧州社会をしてあらゆる全体主義運動の餌食になりやすくしており、かつ、いまそこをロシア共産主義がつけ入りつつある経済的適応性のまずさに対する戦いを目ざさねばならない」(第2項)。このような状況認識に基づき、援助に際して考慮すべき問題を短期(第2節)と長期(第3節)の2種に分けて考察した。短期的問題とは、工業用燃料の生産・供給に対する不安である。これを解決する手段として報告書が提起したのが、豊富な埋蔵量を持つドイツ炭の生産能力を回復軌道に乗せ、欧州の消費地に供給するという構想である。これが実行されれば米国の問題解決能力を欧州に示すことができるとした。同時に、イタリアへの緊急援助(3億5000万ドル)をも提言している(第5項)。長期的問題とは、米国は西欧復興のために援助をいかなる形で供与すべきかという問題である。報告書は、この問題をさらに2分し、欧州の復興計画と米国による援助計画の2つについて検討した。前者については、計画の策定は欧州の側が主導する、欧州諸国の共同計画とする、計画策定作業には米国が関与する、国連機関を最大限に活用するなどの条件を列挙した(第6項)。後者については、3省調整特別委が政策企画本部と連携しつつ、米国の対外政策の研究を継続すること、米国の政策立案に際しては早期に英国と非公式かつ秘密裡に協議しておくことが必要であるとした(第7項)。なお、援助の実務を担当する国連機関として、報告書は欧州経済委員会 (Economic Commission for Europe, ECE) を候補に挙げた。ECEは国連経済社会理事会が下部組織として設置したばかりの機関で、米国、ソ連、国連加盟の欧州諸国で構成されていた。ソ連や東欧が参加する以上、ECEを実施機関とすれば議事進行に困難が伴うと予想されたため、「提示された条件の受諾を望まず自ら脱退するか、あるいは各国経済における排他的志向の放棄に合意するか」のいずれかをソ連の衛星諸国に選択させることをECE活用の条件とする案を示した。最後の第4節で報告書は、トルーマン・ドクトリンが2つの誤った印象を惹起しているとして、これらを払拭するよう求めた。その印象とは、第1に「世界問題に取り組む米国の態度は、共産主義の圧力に対する防衛的反応であり、また他の諸国の健全な経済状態を復興しようとする努力は、この反応の副産物に過ぎず、たとえ共産主義の脅威がなくとも、われわれが関心を持たねばならないような性質のものではない」という印象、第2に「トルーマン・ドクトリンは、共産主義者が成功を収める気配を見せている世界の地域に対して、経済的、軍事的援助を与える白紙委任手形である」という印象である(第8項)。国務省内では、援助の方針を決定するための首脳会議を5月28日に開催することが決定し、政策企画本部文書第1号がその材料として供されることとなった。しかし会議の前日になって新たな文書が提出され、首脳らの注目を集めた。執筆者は、初代経済担当国務次官ウィリアム・クレイトンである。クレイトンは、1947年4月8日から10月30日までジュネーヴで開催された第2回国連貿易雇用会議準備委員会 (Preparatory Committee of the United Nations Conference on Trade and Employment) の米国代表として出席していた。この委員会は、国際貿易機関 (International Trade Organization, ITO) 憲章の最終案の確定及び関税の相互引き下げ問題を議題として開催されていた。また、5月にはECEの創設会議が開催され、そこにもクレイトンが参加していた。クレイトンは、米国の関税を1945年水準の50%にまで引き下げる権限を手にして委員会に臨んだが、英国は経済危機を理由として特恵関税制度の廃止に強硬に反対した。5月に至ると、米国議会が国内の毛織物産業保護のため毛織物の輸入関税引き上げ案を可決したが、これが英国やオーストリアの反発を招き、会議は暗礁に乗り上げた。事態収拾のため5月19日に一時帰国したクレイトンは、約1か月にわたる欧州視察の結果をまとめ、5月27日に覚書「欧州の危機」を提出した。覚書は10項目の指摘事項からなる。クレイトンは欧州の危機の根源を大戦による経済の荒廃に求めると共に、それが生産に及ぼす影響(産業の国有化や急激な土地改革、通商関係の断絶、私企業の消滅など)に関してはこれまで充分考慮されてこなかったと指摘した(第1項)。さらにクレイトンは、以下のように主張した。政治情勢は経済情勢を反映しており、次々と生じる政治危機は重大な経済的困窮を示しているに他ならない。都市と農村との間で成立していた「近代的分業体制は、欧州ではほとんど崩壊してしまった」ため、自国通貨に対する信用回復が不可欠である(第2項)。欧州主要諸国の年間支払不足額は、英国が22.5億ドル、フランスが17.5億ドル、イタリアが5億ドル、ドイツ(英米統合占領区域)が5億ドル、合計で50億ドルに上るとみられる。英仏は「"今年の末までのみ"」金とドルの準備を取り崩して不足額を埋めることもできようが、イタリアはそれまでもたないであろう(第3項。強調は原文)。米国からの援助がなければ、「経済的・社会的・政治的崩壊が欧州を沈めてしまうであろう」。もしそうなれば、米国は余剰生産物のための市場を失うと共に、失業、恐慌などといった甚大な影響を蒙るであろう。「"このような事態が起こってはならない"」(第5項。強調は原文)。故に、「(ロシアから"ではなく")飢餓と混乱から欧州を救うために」米国民自身が若干の犠牲を差し出す必要がある(第7項。強調は原文)。その犠牲とは、石炭、食糧、綿花など余剰生産物を中心に、「3年間にわたり毎年60乃至70億ドル相当の物資を贈与する」ことである(第8項)。こうした援助は、英仏伊を中心として欧州の共同計画に基づいて供与されるべきであり、これに関連して欧州はベネルクス(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)関税同盟のような経済連合を組織する必要性がある(第9項)。最後にクレイトンは、「我々は別のタイプのUNRRAに陥るのを避けねばならない。"合衆国がこのショーを仕切らねばならない"」(第10項。強調は原文)と述べ、国際機関を通じての援助を否定した。5月28日、国務省の首脳会議が開催され、マーシャル長官以下、アチソン、クレイトン両次官、国務省顧問コーエン、国務長官特別補佐官ボーレン、経済問題担当国務次官補ソープ (Willard Long Thorp) 、政策企画本部長ケナンらが出席した。会議では、政策企画本部の報告書とクレイトンの覚書とについての検討が中心議題として取り上げられた。討議は主に以下の3点を巡って展開された。援助対象地域については、米国が欧州分裂の責めを負うべきではないという点では全員が一致していた。しかし、それが東欧諸国の参加の容認を意味するのか否かに関しては、ケナンとクレイトンはやや見解を異にしていた。ケナンは参加国を特定する表現はとらず、ソ連が好意的な気配を示せば参加を容認する用意があるとして、「我々の手で欧州に分割線を引く気はない」と語った。これに対しクレイトンは「西欧は東欧にとって不可欠であるが、逆は真ならず」と語り、無理に東欧を含める必要はないとの立場を明らかにした。そして、東欧の石炭や食糧は西欧の復興にとって重要であるが、ソ連が東欧を軍事的に支配しない限り、東欧は外貨獲得のためにそれらを西側に輸出せざるを得ないが故に、東欧を抜きにしてもその資源を活用できるとした。結局、「計画は、東欧諸国が自国経済の排他的に近いソヴィエト志向を放棄すれば参加できるような条件で立案されるべきである」との結論に至った。東欧にとって厳しい条件が付せられてはいるが、この時点では未だ欧州分裂は固定的には理解されていなかったことが判る。ただし、実施段階では東欧からの参加国は現れず、米国も無理に東欧諸国を引き入れようとした形跡もないことから、ソ連と事を構えてまで東欧を抱き込む意志はなかったと考えてよいであろう。計画の主導性については、ケナンは先に提出した報告書「PPS1」に則り、欧州に主導権を付与すべきであると主張したが、コーエンやソープは、欧州は各国の意見を調整する資質に欠けており、統一的計画を作成できるとは考え難いとして、米国が実質的な責任と主導権を掌握した上で計画を進めるべきであると強調した。クレイトンも、米国が一定の影響力を保持すべしとの考えであった。この件に関して、首脳会議がいかなる結論に達したのかは明らかではないが、その後の推移を見る限り、欧州の自主性を尊重しながらも動向を注意深く観察するといった折衷案が採用されたものと推察される。実施機関について、殊にECEを実施機関とすべきか否かについても意見が割れた。クレイトンは、ECEはソ連の妨害が懸念されるため「全く利用できない」と断じ、英仏伊及びベネルクスの計6か国による代表との予備的議論の場を持つよう提案した。これに対しては、国連機関を迂回すれば世論の反発を招き、計画が頓挫するおそれがあるため、最初だけでもECEに付託すべきであるとの反論が挙がった。これについても結論は詳らかにされていないが、ケナンが「ECEをヨーロッパ復興計画のセンターとして利用したいと希望していたわれわれは、ウィル・クレイトンがヨーロッパから帰国して、ECE第1回会議でのソビエト代表の行動について報告すると、深刻な挫折感を味わった」と回想していること、そしてECEが援助任務を担うことが遂になかったことを考慮すると、クレイトンの主張が通ったものとみられる。こうした紆余曲折の末、マーシャルは援助計画の発表に臨んだのである。ハーヴァード大学はマーシャルに対し、戦時中に彼が成した功績を顕彰して法学博士の名誉学位の授与を申し出ると共に、学位授与式の際に記念講演を行うようかねてより打診していた。これを受諾したマーシャルはボーレンに、ケナンやクレイトンの覚書を下敷きにして演説文を起草するよう命じた。6月2日に書き上げられた草稿は、アチソン、クレイトンによる内容確認とマーシャルによる若干の修正を経て、演説の場に持ち込まれた。6月5日、マーシャルは大学構内に建つメモリアル・チャーチの階段に登壇し、記念講演を行った。この講演でマーシャルは、欧州援助計画の構想を初めて公にした。「世界情勢が非常に深刻であることは言うまでもない」と切り出したマーシャルは、「問題が極めて複雑であるがために」一般国民にはこの深刻な事態の把握が困難になっているとして、まず援助を行う理由、即ち欧州の危機的状況について説明を始めた。マーシャルの演説の要旨は以下の通り。先の大戦は、「物理的な生命の損失や、都市、工場、鉱山、鉄道などの目に見える破壊」のみならず、欧州の経済構造全体を混乱に陥れた、ということがこの数か月の間に明らかになった。「長年の通商関係や民間の諸制度、銀行、保険会社、海運会社は、資本の喪失、国有化による吸収、または純然たる破壊によって消滅した」。また、通貨に対する信用が低下しており、農村は食糧を、都市は日用品をそれぞれ生産し、互いに交換し合うという近代的分業体制が崩壊の危機に瀕している。欧州各国の政府は、外貨を食糧や燃料の輸入に充てざるを得ず、それゆえ「復興のために緊急に必要とされる資金が消尽してしまう」。欧州が今後3、4年間に必要とする外国産(主に米国産)の食糧と必需品の量は支払い能力をはるかに上回っているので、「相当の追加援助がなければ欧州は非常に由々しき経済的、社会的、政治的破局に直面せざるを得ない」。この悪循環を打破し、今後の経済動向に対する自信を回復させることこそが問題解決のために必要である。そして通貨の価値と信頼性を回復させ、商品交換を促進させねばならない。「我々の政策は、特定の国家や主義に対してではなく、飢餓、貧困、絶望、混乱に対して向けられている。その目的は、自由な制度が存在し得る政治的、社会的な諸条件の出現を許容するような、活発な経済を世界に復活させることである」。復興援助は、危機が起こるたびに小出しになされる類のものであってはならない。「いかなる政府も、この復興事業に協力する気があるならば、米国政府の全面的な協力が得られることを保証しよう。いかなる政府も、他国の復興を妨害しようと画策するならば、我々の援助は期待できない」。米国は欧州復興のために可能な限りの支援をするが、計画の立案は欧州自身が率先して行うべきである。また、「計画は、欧州の全国家とは言わないまでも、相当数の国家の賛同を得た共同の計画でなければならない」。援助計画を成功させるためには、米国民の理解が必要である。「歴史が我が国に対して明確に課した重大な責務に、米国民が展望と自発性とをもって向き合うならば、先程述べた困難の数々は克服されるであろう」。マーシャルはこの短い演説の中で、米国が欧州から遠く離れているからといって、欧州の混乱を対岸の火事と捉えてはならない旨を述べ、援助に対する国民の理解を求めている。しかしその内容は極めて抽象的で、どの国に、どの程度の援助を、どの程度の期間供与するかは明らかではない。わずかに「今後3、4年間」に及ぶ大規模援助の必要性を示唆する箇所があるほかは、援助に関する具体的な数字は一切存在しない。3月に行われたトルーマン演説では、ギリシャ及びトルコへ4億ドルを援助する用意があるとしたが、マーシャル演説では漠然と「欧州」に援助を行うと述べたに過ぎず、金額に至っては全く言及していない。一見すると曖昧模糊とした内容ではあるものの、この演説からはいくつかの大きな特徴が読み取れる。マーシャル演説は、援助の目的を「自由な制度が存在し得る政治的、社会的な諸条件の出現を許容するような、活発な経済を世界に復活させること」と規定し、自由主義経済に基づく復興が理念の根底に存在することを匂わせている。しかし同時に、特定の国家や主義ではなく「飢餓、貧困、絶望、混乱」を打倒することを強調し、援助がソ連や共産主義を敵視するがゆえになされるわけではない、と解し得る表現となっている。さらに、援助の対象は「欧州」としており、東欧、ひいてはソ連をも含むかのような雰囲気を帯びていた。ただし、「他国の復興を妨害しようと画策する」政府を米国は認めないとする一文を挿入して、注意深く釘を刺している。計画作成に際しての欧州の主体性を尊重していたことも大きな特徴である。計画が失敗した場合に米国が責めを負わずに済むようにしたと捉えることもできるが、自力で復興作業を行うという明確な指針を欧州に与えるためとも考えられる。演説に具体的な数字が盛り込まれなかったのは、まず欧州の側が計画を立案し、然るのちに米国が実施の可能性を検討するとしたためであると解釈し得る。さらに、援助は各国が個別に受けるのではなく、「相当数の国家の賛同を得た共同の計画」に基づいて実施されるべきであることを説いている。ここには、欧州各国間の対立を和らげることが世界の安定に資するという考えや、あらかじめ援助の配分について調整させることで、各国による援助の奪い合いを避けるという考えが反映されている。また、内容こそ明示されていないものの、あくまで経済援助を実施しようとしていることが読み取れる。演説のおよそ半分は欧州経済が直面する問題の分析に充てられており、軍事顧問団の派遣や武器供与を提案したトルーマン演説とは大きく調子が異なるが、これは「武装した少数者や外部の圧力」ではなく「欧州の経済構造全体の混乱」を危機と捉える認識に由来していた。目的が変化したのに伴い、援助の方法も軌道修正が図られたといえる。ただし、マーシャル演説はトルーマン演説と完全に断絶した政策方針という訳では決してない。経済問題が重視されたのも、共産主義の浸透を防止するためには、軍事援助や反共思想の宣伝といった直接的な手段よりも、欧州経済の健全性回復を通じて共産化に対する抵抗力を涵養することの方がより有効であると判断されたからであることに留意しなければならない。前述の通り、演説の草案はケナンを長とする政策企画本部の報告書 (PPS1) 及びクレイトン覚書を基に作成されており、上に挙げた諸点にも、両者の見解が大いに反映されている。クレイトンは覚書の冒頭、欧州の現状について「我々は物質的荒廃については理解していたが、経済的混乱が生産に及ぼす影響を充分計算に入れることには失敗した」と書き、その影響として「産業の国有化」や「通商関係の断絶」などを例示した。そして、「近代的分業体制がほとんど崩壊した」欧州にとって、消費財の流通と現地通貨への信頼性回復が必要であり、米国からの援助がなければ「経済的・社会的・政治的崩壊が欧州を沈めてしまう」と説いている。これらの主張は、まさにマーシャル演説が援助を必要とする前提として挙げた諸点と符合する。また、「(ロシアから"ではなく")飢餓と混乱から欧州を救うために」援助が必要であるという指摘は、演説の「我々の政策は、特定の国家や主義に対してではなく、飢餓、貧困、絶望、混乱に対して向けられている」との表現と対応している。PPS1が欧州復興に関する長期的問題について触れたくだりでは、米国政府が「西欧を経済的に自立させるための計画を一方的に立案する」ことは「妥当でも有効でもあるまい。それは欧州の人々の仕事である」とし、「主導権は欧州から発揮されねばならない」こと、米国の役割は計画立案に対する友好的な支援と、作成された計画の支持とからなるべきであること、「計画は西欧のいくつかの諸国家によって合意された共同の計画でなければならない」ことなどを強調した。これらの主張は、ほぼそのままの形でマーシャル演説に反映された。ただし、PPS1が「西欧」とした部分は、演説では「欧州」となっている。PPS1には、復興計画は「恐らく全欧州(西欧のみならず)に向けた提案として」進められるであろうとの記述がみられること、また国務省首脳会議がソ連と距離を置くよう東欧に求める結論を出したことを考慮すると、マーシャル演説が「欧州」を援助対象としたのは建前に過ぎなかったと捉えることができる。マーシャルの演説内容はBBCのラジオ放送によって英国にもたらされた。ラジオを聞いた英国外相アーネスト・ベヴィンは、直ちに行動を開始した。ベヴィンは翌日、首相クレメント・アトリーと面会し、援助の受け入れについて協議した。この時点では、ハーヴァード演説が米国の国策としてなされた提案なのか否かすらも明確でなかったが、アトリーは援助受け入れを即断し、本件に関する事務をベヴィンに一任した。これを受け、ベヴィンは駐仏英国大使ダフ・クーパー () に電報を打ち、フランス外相ジョルジュ・ビドーとの会談の段取りを整えるよう命じた。英仏首脳会談は6月17日からパリで開催された。両国は共に、援助の詳細を決めるに当たって主導権を掌握し、自国の存在感を高めたいとの思惑を持ちながら会談に臨んだ。英国大使館で開催された初日の会談で、両国はマーシャルの提案を受け入れることで合意し、作業委員会を早急に設置することとした。同時にベヴィンは、国連組織を通じて援助を実施するように見せつつ、実際には国連を迂回することが必要だと主張、ビドーもこれに同意した。援助実施機関を国連組織とすれば、国連加盟国であるソ連が妨害工作を行うのではと懸念したためであった。2日目の会談は、場所をフランス外務省に移して行われた。この日の主要な議題は、ソ連に対する扱いをどうするかであった。フランス首相ポール・ラマディエとビドーは共に、議論を進めるためにはソ連との協議が必要であると語り、ベヴィンも反対しなかった。続けてビドーが、次回の会談をモスクワで行うことを提案したところ、ソ連の協力に懐疑的なベヴィンは「クレムリンから肘鉄を食らうためにモスクワに行くのはご免被りたい」と難色を示した。この結果、英仏はソ連をパリに招いて会談を行うことで合意した。しかし新聞発表の際には開催地を明かさず、英仏外相の連名でソ連に宛てて書簡を送り、ロンドンかパリかをソ連に選ばせることにした。同時にベヴィンは、ソ連が不参加もしくは日和見の態度を表明した場合、直ちに準備委員会の設立に着手することを提案した。ソ連は英仏の求めに応じ、外相ヴャチェスラフ・モロトフをパリへ派遣することが決定した。これを受けて、英仏ソの3か国による外相会談が6月27日からパリで開催された。会談前日にパリに到着したモロトフは、英仏がソ連のあずかり知らぬところでいかなる合意に到達しているのかとビドーに尋ねた。モロトフは会談初日にも、ハーヴァード演説以上の内容を英仏が入手しているのではないかと質問した。ベヴィンとビドーは、モロトフが知っている以上のことは何もないとして、疑念の払拭に努めた。だが、モロトフの疑惑は必ずしも故なきものではなかった。米国は外相会談直前、クレイトンをロンドンへ派遣し、アトリー、ベヴィンを始めとする与党労働党首脳と事前協議を行っていた。クレイトンは、対英援助は欧州の共同計画の中で扱われること、対ソ援助はソ連が大幅な政策転換をしない限り行われないであろうことを言明していた。続いてモロトフは、米国が用意している援助額は正確にはいくらなのか、この援助を米国議会が可決するか否かについて問うた。これに対しベヴィンは、「借り手である我々が、米国に対して条件を付すことはできない」「民主主義社会では、行政府は立法府に関与することはできない」と切り返した。その後、3者は以下の諸点を巡って議論を戦わせた。援助計画を大いに警戒していたソ連は、しかし東欧諸国が援助を切望している状況をも認識していた。ビドーによれば、モロトフの発言には曖昧なところがあったという。しかし3日目の会議の席上、スターリンからの指令と思しきメモがモロトフの元に届けられると、モロトフは共同計画に繰り返し反対の意を示した。最終日にモロトフは、この援助計画は欧州諸国に対する内政干渉であり、計画執行のために設置される委員会は各国を支配するための道具に過ぎないと指弾した。ベヴィンは、欧州各国に招請状を出すつもりであることを告げた。こうして3国外相会談は決裂した。英仏両国は、欧州側の受け入れ態勢の確立に向け動き出した。ソ連が計画を拒絶した理由として、以下の諸点が挙げられる。3国外相会談後、英仏両国は分割占領下のドイツとフランコ治下のスペイン、それにアンドラ、リヒテンシュタイン、モナコ、サン・マリノといった小国家群を除く欧州22か国に対し、欧州復興会議への招請状を発した。東欧からはチェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランドが参加を希望した。ソ連は東欧諸国に対し、この会議に参加した上でアメリカの意図を批判し、可能な限り多くの諸国を翻意させる戦術を採るよう指示したが、西欧諸国との関係が深かったチェコスロヴァキアは、7月7日の閣議でマーシャル・プランの受け入れを決定した。ソ連は先の方針を撤回し、受諾会議への参加をしないよう東欧諸国に訓令した。同時に、ソ連はチェコスロヴァキア首脳との会談を要求した。チェコスロヴァキアの首相ゴットヴァルト (Klement Gottwald) と外相マサリク、内相ドルティナは急遽モスクワへ飛んだ。会談は7月10日の午前0時半という遅い時間に始まった。当初スターリンは、チェコスロヴァキアの置かれた状況に理解を示すかのような態度を見せ、ソ連が会議に参加する可能性をも示唆した。しかし話が進むにつれてその態度は硬化し、ゴットヴァルトに対して「あなたがたはソ連を孤立化させる企てに参画するのか」と詰問するに至った。ゴットヴァルトは、チェコスロヴァキアが原材料輸入の6 - 7割を西欧に依存している現状を挙げながら外貨不足について説明し、ソ連側の理解を求めた。これに対してスターリンは、傍らのモロトフに目をやりながら「あなたがたには十分あるでしょう」と笑ったという。会談はソ連側の思惑通りに進み、ゴットヴァルトらは当初の閣議決定を曲げることとなった。この会談を受けて、プラハでは10日午後1時から緊急会議が開かれた。国民党などは会議への参加を強硬に主張したが、ゴットヴァルトはモスクワから再三にわたって電話を入れ、早急に会議不参加の政府決定を下すよう指示した。午後8時、ゴットヴァルトの指示通り不参加の方針が正式に決まった。この結果、すでに欧州復興会議参加のために出発していた代表団は、パリに降り立った直後に帰国命令を受け、蜻蛉返りをせざるを得なかった。また、ソ連はハンガリーに対し、「ハンガリーが会議に出席した場合、ソ連はハンガリーへの賠償請求額を吊り上げる。また、ソ連領内に残るハンガリー人捕虜の送還を中止する」と通告した。同様にソ連の圧力を受けた東欧諸国や、国境を接するソ連と微妙な関係にあったフィンランドも参加しなかった。ソ連は、東欧各国との間に相互通商協定、通称「モロトフ・プラン」を締結して東欧との紐帯を強化し、米国や西欧に対抗した。なお、ユーゴスラヴィアはソ連と決別後の1949年以降、アメリカから援助を受けている。東欧諸国の不参加の結果、最終的に会議への参加を表明したのは、14か国となった(オーストリア、ベルギー、デンマーク、ギリシャ、アイスランド、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、スウェーデン、スイス、トルコ)。これら14か国に発起人の英仏両国を加えた16か国の参加の下、7月12日に第1回欧州復興会議がフランス外務省庁舎内の大会議場で開催された。ソ連や東欧諸国が参加しなかったことにより、欧州の東西分裂を強く印象付ける会議となった。同会議は、参加16か国をもって構成国とする欧州経済協力委員会 (Committee for European Economic Co-operation, CEEC) の設置を決議した。委員長には、英国の外交官オリヴァー・フランクス () が就任した。また、復興会議はCEECの任務や性格について、次のような決議をした。CEECは、9月1日までに報告書を策定することを期して、必要とする援助額の算定を開始した。米国とも頻繁に事前協議を行ったが、調整作業は難航した。米国は、ドイツの潜在的経済力を欧州復興のために活用することを考えていた。英米占領区域の統合を進めることで合意していた米英両国は、同区域内での通貨統合を実現した。7月12日には、前年3月に連合国ドイツ管理理事会が設定していた、「西部ドイツの工業水準の上限を1936年時点の70-75%に制限する」との規定を廃し、上限を100%に引き上げることで米英間の合意がなされていた。しかしフランスは、国内にドイツの軍事力強化を懸念する声が強く、また賠償に充てられる資金の削減を招く可能性があることから、保守・革新を問わず反対が予想されるとして、この合意案に強く反発した。米国は、8月22日から開催された米英仏3国会談で、ドイツの工業水準引き上げの代償としてフランスに発言権を付与することで妥協した。議論は、援助を必要とする額の算定を巡っても紛糾した。CEECは、西部ドイツや属領をも含めた全参加国の米大陸全体に対する貿易赤字は、1948年から1951年までの間に282億ドル、うち対米赤字は199億ドルになると試算した。しかしこれは米国側の予想をはるかに上回る額であった。ここに至って米国は、欧州の自主性尊重という建前を破り、計画策定作業に直接介入した。9月上旬、米国はCEEC参加各国に対し、共同で不足額を削減すること、またITO憲章の理念に違背する貿易障壁を打破し、かつ国内通貨を安定させる方策を盛り込むことを要求した。さらに英国には、ドイツの英米統合占領区域を確実に復興計画に含めるよう求めたのである。このため、OEECは復興計画の練り直しを余儀なくされた。結局、報告書は当初の期日である9月1日には間に合わず、9月22日に完成をみた。報告書は前文及び本文8章からなり、参加16か国と西部ドイツ、それに各国の植民地・保護領を対象とした4か年計画として策定された。その要旨は以下の通りである。欧州内の食糧・木材供給地域の壊滅、貿易の中断、財政の不均衡、東南アジアからの食料・工業用原料供給の不足などにより、欧州は疲弊している。これらが第二次大戦によってもたらされたのは明らかである。大戦は世界第2位の富を有する欧州に深刻な打撃を与え、巨額のドル不足を招いた(第1章)。故に、各国が自国産業を戦前の水準以上に回復させる一方で、域内での経済協力を推進して輸出競争力を拡大し、ドル不足を是正する必要がある。より具体的には、既存の物的・人的資源の活用、生産設備の近代化、インフレ抑制などの対策を講じることが重要である。これらの施策により国内の財政安定に努め、将来的には各国通貨の交換性回復を目指す。また、現在は域内の通商が制限されているが、生産回復などによって条件が整ったときには、これを遅滞なく撤廃し、多角的貿易体制を確立する。欧州関税同盟については、今後可能性を検討する。参加各国は輸入の45%を米州に依存していたが、東南アジアや東欧からの供給減少によって今後対米依存度が高まり、ドル不足を拡大させるおそれがある。これを改善させるためには、米国からの援助が必要である。特に、初年度の援助が決定的に重要な意味を持つ。9月22日、CEECの報告書は欧州復興委員会の全体会議に提出された。全体会議は報告書を承認し、国務省に送付した。米国との対立がみられた不足額の算定に関しては、4年間で224億4000万ドル(1948年80億4000万ドル、1949年63億5000万ドル、1950年46億5000万ドル、1951年34億ドル)と推計し、国際機関からの援助を除くと193億1000万ドルになるとした。なお、通貨の交換性回復に関しては、7月に英国が英米金融協定の規定に基づきポンドの交換性回復を宣言したが、多額の資本流出を招き、わずか1月余りで交換性の再凍結を余儀なくされた。対してベネルクス3国は10月に逸早く関税同盟を結成、翌年発効に漕ぎ着けた。一方米国側も、援助の規模について独自の調査をしていた。ハーヴァード演説から半月余りのちの6月22日、トルーマンは3つの大統領諮問委員会の設置を発表した。クルーグ委員会は、援助が行われた場合、国内の小麦や鉄鋼、石炭などの供給量が一時的に不足するが、5年間のうちに原状回復させることが可能であるとして、米国は巨額の援助に耐えられるとの見解を示した。ノース委員会も同様の結論に達し、対外援助は国債の新規発行や増税を伴うことなく遂行できるとした。ハリマン委員会は、欧米間の輸出入の不均衡を是正するためには、インフレのおそれがあろうとも援助が必須であると勧告すると共に、援助の条件として民主主義の保持を挙げたことに特徴があった。また、1948年から1951年の4年間に西欧がアメリカ大陸に対して負うであろう負債額を120億ドル乃至170億ドル、うち1948年分を70億ドル(各種の融資が行われる可能性を考慮した場合は57億5000万ドル)と見積もった。下院は、上記の3委員会とは別にクリスティアン・ハーターを長とする対外援助特別委員会、通称ハーター委員会を独自に設置し、2か月にわたって欧州を視察するなど調査活動を行った。他の議員団も欧州に渡っており、その中には若きリチャード・ニクソンの姿もあった。CEECが報告書を完成させたことにより、援助に関する焦点は、米国議会が承認する援助の金額や期間がどの程度となるかに移った。この頃、仏伊両国では国際収支が悪化し、外貨が年内にも底を突くとの観測が流れた。夏の旱魃のために穀物生産も激減し、駐米イタリア大使タルチアーニ (Arberto Tarchiani) はアチソンの後任の国務次官ロバート・ロヴェット () に対し、このままでは11月の輸入手当も行えなくなってしまうと窮状を説明した。これを受け、トルーマンは10月23日に特別議会を招集し、仏伊墺の3か国に対する緊急援助として、1948年3月末までに5億9700万ドル(仏:3億2800万ドル、伊:2億2700万ドル、墺:4200万ドル)を拠出するよう求めた。この緊急援助(中間援助法案)を巡り、議会では援助額の削減を求める意見が出され、激しい論戦が展開された。最終的に原案より7500万ドル減額すると共に、中国を加えた援助とすることで妥結した。調整案は12月15日に上下両院で可決、これにより法案は成立した。法案が首尾よく議会を通過した要因として、欧州で共産化の動きが加速したことが挙げられる。8月31日、ハンガリーで共産党が第3党から第1党に躍進した。また9月22日から27日にかけて、欧州9か国の共産・労働者党代表はポーランドのシュクラルスカ・ポレンバ (Szklarska Poręba) で秘密裡に会談を行い、コミンフォルムの設置を決定(10月5日付け『プラウダ』で発表)した。11月7日には、ルーマニアで共産党が政権を掌握した。コミンフォルム結成大会の際、ソ連共産党代表アンドレイ・ジダーノフは「マーシャル・プランは国際的協調の正常な原則に反し欧州の多数の国々を米国資本主義の利益のもとに従属させようとする意図を秘めている」との見解を表明した。また、未だ政権を掌握できずにいることなどを難詰され、自己批判を迫られた仏伊の共産党は、政府批判を強めていた。フランスでは共産党が第1党の座に躍り出ており、連立内閣に圧力をかけていた。1947年1月に成立したラマディエ内閣は、年を越すことなく11月に崩壊してしまう。イタリアでも同様に、共産党が政権を窺う位置に付け、武力による政権奪取の可能性を示唆していた。国際復興開発銀行役員のピエール・マンデス=フランス(のちフランス首相)は、「我々を助けてくれたのは共産党だった」と語っている。特別議会最終日の12月19日、トルーマンは特別教書を議会に提出した。トルーマンはこの教書で、「過去20年間の苦い経験が教える所では、合衆国程の強力な経済でさえも貧困と欠乏の世界の中で繁栄を維持することはできない」と指摘した。そして1948年4月1日から1952年6月30日までの間に、西欧16か国に170億ドルを供与するよう要求すると共に、援助の実施機関として「経済協力局 (Economic Cooperation Administration, ECA) 」を設置する提案を行った。年が明けて1948年1月6日、第80議会が再開された。トルーマンが提出した一般教書は、援助全体のうち初年度分に相当する15か月間の援助(1948年4月1日から1949年6月30日までの期間に68億ドル)のみを要請し、主にこの援助内容の是非を巡る論戦が交わされた。この時も、下院を中心に援助額の削減を図る主張が相次いだ。また、中国やギリシャ、トルコに対する追加援助と抱き合わせにすべきだとする主張も強かった。一連の議論の間、議会の外では援助法案の成立を側面から支援する動きが現れた。1947年10月末、元陸軍長官ヘンリー・スティムソンを全国委員長とする「欧州復興を支援するためのマーシャル・プラン委員会」なる支持委員会が結成された。委員会は総勢330余名からなり、執行委員会には国務次官を辞任して間もないアチソンや前陸軍長官パターソンが名を連ねた。また全国評議会にはGEやIBM、JPモルガン、チェース・マンハッタンなど巨大企業の代表のほか、報道関係者や法曹関係者、有力労働組合代表など、多様な分野から参加者が集った。同委員会は法案成立までの間に15万ドルを越える寄付金を集め、マスメディアを通じた宣伝やロビー活動を展開した。一方、援助を大きなビジネス・チャンスと捉える海運・煙草・製粉などの業界は、援助物資の購入・輸送の際に有利な措置が得られるよう、法案の支持と引き換えに交換条件を提示した。ヴァンデンバーグが委員長を務める上院外交委員会では、第80議会再開後の公聴会に95名の証言者が出席し、マーシャルも証言をなして法案可決を訴えた。同様に、下院の公聴会では175名が証言した。共和党上院議員ロバート・タフトや前商務長官ヘンリー・ウォーレスは、こうした動きに強硬に反対した。孤立主義者をもって任ずる保守派のタフトは、インフレや増税など国内経済への悪影響という見地から反対の論陣を張り、効果の程の怪しい事業に大量の資金をばら撒くマーシャル・プランは「欧州版TVA」であると非難した。ただし、共産主義の膨張抑制を期待するタフトは、適度な額の援助であれば支持するとの意向を示した。米ソ協調を志向するウォーレスは、ハーヴァード演説直後は計画を支持したが、ソ連や東欧の不参加が明らかになってからは態度を硬化させた。ウォーレスは、政府が考えるような援助方式では独占資本ばかりを利する上に、恐慌や戦争を招く危険があるとして、マーシャル・プランを「Martial Plan(「戦争計画」の意。発音はMarshall Planと同一)」と呼んだ。これに代わる独自案としてウォーレスは、10年間で500億ドルの援助を国連経由で実施するという構想を提唱し、被災の程度が著しい国

出典:wikipedia

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