黒島(くろしま)は、長崎県北部の北松浦半島の南西沖合にある島。全島が佐世保市に属している。黒島の島名には、二つの説があるといわれている。一つは、黒島を海上から見た際、樹木が密生しており黒く見えるために、「黒島」というのだという説。もう一つは、カトリック教徒が多く住んでいたため、『クルス島』(cruz=ポルトガル語で十字架の意味)といわれ、これがなまって「クロ島」になったという説である。歴史上では、鎌倉時代に平戸松浦氏の始祖である峯五郎披の所領中に黒島の地名が出てくるが、それは日本へのキリスト教伝来よりもずっと前のことなので、黒島の地名は海上から見ると木々が黒々しているためにそう呼ばれるようになったという説が有力であると考えられている。また本島は孤島にもかかわらず島内のいたるところに湧き水があり、そのことから古くは「水島」とも呼ばれていた。1958年、町名が設置された。黒島は室町時代後期から戦国時代初期にかけて、松浦氏が北松浦半島や周辺島嶼の統一を進める過程でその領地となった。その後松浦氏の家臣である西氏が付近に出没していた海賊討伐の褒美として黒島を与えられ、島の直接の統治を行うようになった。戦国時代後期に一度キリスト教が伝わり、古里地区にキリシタンが暮らしていた。江戸時代になると、黒島は平戸島(現在の平戸市)に居城を置く平戸藩の領地となった。その当時の黒島は、石高(米の収穫量)は少ないものの、農業・漁業に加え、御影石の採石地、軍馬の飼育地(根谷地区)として知られていた。1803年(享保3年)に牧場が廃止され、大規模な田畑の開墾が始まり、江戸幕府の禁教政策による弾圧から逃れた大村藩のキリシタン達が移住するようになった。1865年(慶応元年)に長崎浦上のキリシタンが大浦天主堂で信仰を明らかにした「信徒発見」から数ヵ月後には、早くも黒島の信徒代表者が大浦天主堂を訪ね、その後明治時代にカトリックに復帰した。1902年(明治35年)には現在のカトリック黒島天主堂が建てられ、いまも島民の約7割がカトリック信者といわれる。明治の町村制以降は北松浦郡黒島村という一島一村となり、1954年(昭和29年)に佐世保市に編入、同市黒島免を経て1958年(昭和33年)に同市黒島町となり、現在にいたる。漁業と農業が中心。農業については、平戸藩の牧場が廃止されてから本格的に始まり、島内の至るところで湧く水を活かし、島の中心では水田が切り拓かれた。黒島天主堂が建つ田代地区の地名は田圃に由来する。黒島の土は赤土のため、根菜類、イモ、タマネギなどは非常に美味しく、佐世保市内でも買い求める人も多かったが、高齢化のため農業従事者が減ったことと農協が集荷を廃止したため、黒島からの出荷が極端に減っている。漁業は佐世保市近辺の磯焼けのため、漁獲高も激減しているが、黒島近辺で取れるウニやアワビ、イセエビなどは現在も人気が高く、買い求めるのも困難となっている。かつては御影石の生産が盛んで、黒島天主堂にも島内で切り出された石が使われており、現在も名切地区には石材店が複数ある。黒島へ渡航する際は、佐世保市の相浦桟橋からの船舶を利用することになる。相浦桟橋へのアクセスは次の通り。2014年現在、島内には公共交通機関がない。黒島港から島の中心部にある市役所黒島支所までは徒歩約30分。黒島ではテーラーと呼ばれる農作業用コンバインのようなもので移動をする方が多い。黒島はアコウの防風林や閃緑岩の石垣などに見られる独特の居住形態や生業を特色とする景観が「佐世保市黒島の文化的景観」の名称で重要文化的景観に選定されている。世界遺産に推薦していた長崎の教会群とキリスト教関連遺産が、「日本におけるキリスト教の特殊性は2世紀以上にわたって迫害に耐えた点にあり、江戸時代を中心とする禁教期を強調すべき」との国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の勧告により一旦推薦を取り下げた。信仰復活期(明治時代以後)に建立された黒島天主堂は、信仰を守り抜いた象徴としての位置付けのみならず、隠れキリシタンとのつながりを明確にする必要に迫られ、隠れキリシタンが入植し開拓した島内集落の景観を主体とする重要文化的景観を拠り所とすることが決まった。これをうけ島内に八カ所あるキリシタン墓地などの意義と価値を再検証することとなった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。