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エド・サリヴァン・ショー

『エド・サリヴァン・ショー』 (The Ed Sullivan Show) は、アメリカ・CBSで放送されたバラエティ番組。エド・サリヴァン (Ed Sullivan, 1901年9月28日 - 1974年10月13日) がホスト役を務めていた。放送期間は1948年6月20日 - 1971年6月6日、当時の放送時間は日曜20時(現地時間)から。番組発足当時のタイトルは『Toast of the Town』(トースト・オブ・ザ・タウン)で、直訳すると「町の人気者」。日本語では「エド・サリバン・ショー」とも称される。アメリカにおけるテレビの黎明期の1948年6月20日に放送が開始された。番組内容は、ゲストとのトークと、その芸の披露とが主となっていて、出演したゲストは、コメディアン、バレエダンサー、曲芸師、クラシック演奏家、オペラ、ポピュラー音楽のシンガー、後に、ロックミュージシャンなど、ジャンルや人種を超え、多肢に渡った。アメリカを中心に活躍し、それぞれの分野で人気のあったゲストを主として迎えていたため、1956年9月9日にエルヴィス・プレスリーが登場して以来、ロック系、また、アメリカ国内における人種差別が激しい状況にもかかわらず、人種差別を嫌うサリヴァンのイニシアチブにより後には黒人音楽(アフリカ系アメリカ人)のミュージシャンも増え、1960年代に至っては、ビーチ・ボーイズやジャニス・ジョプリン、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンなど、それまでには考えられなかった方向性のミュージシャンやアーティストも、多数出演することとなった。1969年にはマイケル・ジャクソンらジャクソン5が出演している。また、1964年2月9日から3週間連続で出演したビートルズ以降、アメリカ進出を果たしたイギリス出身のロックミュージシャンの出演も増え、アニマルズ、ローリング・ストーンズ等、何組か出演を果たすこととなった。ちなみに日本では日本テレビが1965年2月から半年間放送(放送時間は日曜 21:30 - 22:00)。また沖縄テレビでも放送されていた。後にNHKとテレビ朝日が歴史的遺産ということもあり独自構成で放送している。現在はアメリカのソファエンタテインメント社が権利を所有しており、日本国内では衛星放送などで試聴可能である。また、各種編集版DVDや、ビートルズがスタジオ出演した4回の放送分、およびエルヴィス・プレスリーがスタジオ出演した3回の放送分を、現在の倫理規定に触れる部分のごくわずかな編集をしたのみで当時の放送フォーマットをCM内容まで再現した「完全版」DVDがリリースされている。「この番組を見逃せば日常の中での会話に支障をきたす」と言われるほどに、1950年代から1970年代にかけての当時の文化と強く結びついた番組であった。報道関係にも従事したサリヴァン自身は、カトリックの信仰を持つ保守派として知られた。また人種差別を嫌悪し、人種や国籍、性別を問わず様々な出演者を公平に扱った。エルヴィス・プレスリー出演の際には寸前まで反対していた。しかしプレスリーの真摯な態度を見たサリヴァンはプレスリーを「立派な若者です」と称賛し、実際に再度の出演も実現している(1956年9月9日、10月28日、1957年1月6日の通算3度出演)。また、プレスリーの最初の出演時には、全米視聴率が82.6%を記録している。3度目の出演時にはプレスリーの腰を振るアクションにクレームが入ったために、本番では、延々と上半身だけのアングルの放送を行うことを要求し、プレスリー自身の顰蹙を買ったという逸話も残っている。ローリング・ストーンズは、ビートルズ出演に遅れること約8か月後の登場であったが、彼らの最初の演奏の後、サリヴァンは、「もう金輪際、こいつらをこのテレビには出しません。」というコメントを述べた。その後も、視聴者の人気に負けて5度出演させたが、1967年2月の出演の際には、演奏曲「"Let's Spend The Night Together"」(邦題「夜をぶっとばせ」)の「The Night」がSEXをイメージさせて破廉恥なため、「Some Time」に変えさせ、バンドのメンバー内でももめた、というエピソードもあった。1967年にドアーズが出演したとき、Light My Fire("ハートに火をつけて")の歌詞の一節 "Girl, we couldn't get much higher" がドラッグを暗示しており不穏当であるとの理由から、サリヴァン側は "Girl, we couldn't get much better" と変更して歌うことを要求したが、ヴォーカルのジム・モリソンが生放送中にサリヴァンたちを出し抜いて本来の歌詞を歌ったため、サリヴァンたちは激怒して二度とドアーズを出演させなかった。1963年5月12日にはボブ・ディランが出演する予定だった。彼にとっても初めての全米中継のテレビ番組であった。当日の本番前の午後にリハーサルが行われたが、予定していた「ジョン・バーチ・ソサエティ・ブルース」は「赤狩り」に関連づけられた曲(反共団体「ジョン・バーチ・ソサエティ」を揶揄した曲)で、CBS側は「放送にふさわしくない」と曲の変更を要求した。するとディランはそれを拒否。歌えないのなら番組には出ないと、スタジオから出て行ってしまった。ビートルズは1964年2月9日から3週連続出演(1、3週目は録画放送、2週目のみ生放送)、1965年9月12日には『4人はアイドル』のプロモーションを兼ねて番組出演。その後も、1965年から1970年にかけてはプロモーション・フィルムを提供する形での出演と回数は多かった。また、サリヴァンは1965年8月15日に行われたビートルズのシェイ・スタジアム公演でオープニングMCを担当したこともあった(映像にも残されている)。なお、彼らの最初の出演時には、当時のアメリカ全人口の60%ともいえる、約7300万人がその放送を観たといわれ、その間の青少年犯罪がほぼ0件であったという記録が残っている。日本人としては、1960年代から雪村いづみ、ジャニーズ(飯野おさみ、あおい輝彦、中谷良、真家ひろみ等の四名とバックバンドのハイソサエティー)、ザ・ピーナッツやジャッキー吉川とブルーコメッツ(本放送ではなく再放送)が出演しており、当時小学生だったシンガーソングライター山本達彦も東京少年合唱隊の一員として出演している。その他のジャンルとしては舞踏家兼振付師・朱里みさを(世界的に活躍した歌手・朱里エイコの母親であり、後の宝塚歌劇団の講師と振付師となった人物。)、1966年に特撮監督の円谷英二、1970年に当時オフ・ブロードウェイ進出中だった東京キッドブラザースが出演した。ジャッキー吉川とブルーコメッツのメンバーは日本での放送終了後に渡米して出演しているため、自分たちが出演した映像を見ることができなかったが、後にNHKが行った再放送により自分たちの映像を初めて見ることができた。また、ジャニーズは帰国後直ぐに解散してしまったために国内での放送はされていない。ザ・ピーナッツの同番組の出演は、その後の日本人歌手の海外での活動の基礎となったことでその功績が大きく評価されている。出演時は通訳無しの英会話で、エド・サリヴァンとコミュニケーションをとった。坂本九も出演したといわれるが、彼はスケジュールの都合で出演をキャンセルされている。ニキビ面がキャンセルされた原因だとも言われている。

出典:wikipedia

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