国鉄101系電車(こくてつ101けいでんしゃ)は、1957年(昭和32年)に登場した日本国有鉄道(国鉄)の直流通勤形電車。登場当時はモハ90系電車と称していたが、1959年の称号改正に伴い、101系と改称された。国鉄の電車として初めて中空軸平行カルダン駆動方式などの近代的メカニズムを搭載し、いわゆる「新性能電車」のはしりとなった系列で、この基本システムは、1980年代前半に至るまでの国鉄電車に広く応用された。車体は切妻形で運転台は傾斜した平面3枚窓のシンプルなデザイン、両開き4扉を持つ軽量構造の全金属車体、車内は扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシート。コイルばね台車で、ウイングばね軸箱支持、直巻整流子電動機を抵抗制御、発電ブレーキ併用の電磁直通ブレーキと、続く103系電車にもほぼそのまま引き継がれた、国鉄通勤形電車の一時代を画した仕様である。また2両の電動車を1ユニットとして必要機器を分散して搭載するMM'ユニット方式も以後の基本となった。また101系は、通勤電車としては10両編成2分間隔運転と輸送力増強が頭打ちになっていた中央線快速に投入することを想定して仕様が決められ、従来の旧形電車の加減速の約2倍の性能をもってラッシュ時の運転間隔を短縮することで、輸送力を増強することとされた。私鉄各社でも高性能車と呼ばれる高加減速の電車が出てきていたこの時期、開発当初は加減速性能の向上を狙って全電動車方式(オールM編成)を採用したのが大きな特徴である。個々の電動機の能力を極限まで高めるのではなく、全車両を電動車として編成全体の出力を高める方針が取られ、電動機は高回転型で小型軽量になり急行形などとも共通の標準形としたMT46A形が用いられた。しかしこの構想は、以下に詳述の通り電力設備等の問題により変更を迫られることになり、後には例えば電動車6両に付随車を2-4両連結して使用された。これでは所期の性能が発揮できず、またなお残る経済性の問題から、後継として103系電車が開発され、国鉄の標準通勤電車の位置を譲ることになった。これらのことから、国鉄においてはカルダン駆動の車両を「高性能車」と呼ぶのをやめ、「新性能車」と呼ぶようになった。1953年(昭和28年)以降、大手私鉄では旧来の吊り掛け駆動方式から脱却して新世代のカルダン駆動方式を採用した高性能な通勤電車が開発され、1954年以降に各社ともに増備していき通勤輸送の質的改善に成果を上げていた。しかし、短距離電車製造が中心の大手私鉄と違い、当時の国鉄では電車以外にも1953年度以降の気動車による無煙化、交流電化用車両の設計、貨物輸送増強用車両、軽量客車などの設計を平行して行っていることや、在来線の電車の将来構想や新旧混在の線区での不都合など、今後の方針が明確になっていなかったことなどから、通勤用車両は昭和30年代に入っても従来からの72系などを継続生産していた。大都市圏における通勤輸送の激増に対応するには困難な状況になっており、抜本的な対策を迫られ1955年末に新性能通勤電車の開発を始めることになる。当時は国鉄の蒸気機関車で使用している優良炭を産業界に転用することを目的として幹線電化を進めており、1956年11月には東海道線の全線電化も予定されていた。そのことから新性能電車の設計は通勤輸送用の狭い範囲ではなく、将来的には長距離優等列車の電車化にも主電動機の歯数比を変更するだけで流用可能なようシステムの柔軟性が求められた。このような背景から前述のような形で設計が進められた。国鉄当局がメーカーに対して試作車の構想として示した要求は下記のようになっている。次に詳述していくようにこれらの事項は軒並み実車に盛り込まれている。一方、国鉄が各管理局・運転区向けに作成した「モハ90形取扱説明書」では、新型電車導入の効果がとして次の5項目が挙げられている。主に従来型の吊り掛け式国電と比較してのメリットを挙げているが、最後の項目では、既に実施されていたモハ80系よりもさらに長距離・高速運転の電車を開発するということを示唆している。これはモハ90形が新世代通勤国電であると同時に、後に151系、153系、さらには新幹線計画に至る国鉄長距離列車の高速化・動力分散化への技術開発とその実車検証のためのものであることを表している。1956年(昭和31年)に試作された72系全金属車の基本構造を引き継いだ。すなわち全金属製セミ・モノコック構造、前面が非貫通型で切妻形の極めてシンプルなデザインもほとんど変わらない。車体長は19.5m、ウィンドウ・シル/ヘッダーのない車体の断面は幅2.8mで両側がまっすぐ立ち上がる形であり、近郊形などに最大幅2.9mの裾絞り車体が現われて以後も製造時の経済性を重んじた国鉄通勤形では標準として長く使われることになった。なお、台車軸距の減少に伴い、台車中心間距離は13,800mmに延長されている。客車に比較すると用途の関係上それほど軽量化できなかったものの、台枠厚さをそれまでの180mmから150mmとし、プレス品を多く採用することで、構体重量を約10トンとしている。全室式の運転台の前面は上部が室内に約10度傾いた3枚窓で、運転台上方に方向幕がとりつけられたが、これも72系全金属車で採用されたデザインの踏襲である。しかし、客用ドアは従来のモハ72系の94cm幅の片開き扉から1.3m幅の両開き扉に変更され、開閉速度と客扱い能力が向上した。国鉄車両での両開き扉の採用は、1941年に試作されたサハ75形021号の例があるが、本格的な採用は101系が最初である。サハ75形は1ドアにつきドアエンジンを2個使用していたが、101系では1ドアに1個となっている。また車体は路線毎にきまった明るい1色で塗装された。客室窓はアルミサッシを用いた全開可能な2段上昇式で、ドア間は2組を1セットにまとめたデザインとなっている。客室の換気については特に留意して設計されたため、通風器は900番台試作車が80系と同様の押込吸出兼用式(ただし80系のものに比べると大きかった)であったが、量産型は通風能力を重視して72系と同様の大型グローブ式に逆戻りしている。また、側面雨樋は、900番台試作車では外板をそのまま立ち上げてきれいに隠していたが、量産型では生産性・保守性を重視して通常の外付け型となっている。剛性については下記のようになっている。当時より相当曲げ剛性は乗り心地の観点から1.0×10(kgf・mm)以上欲しいと言われていたが、本形式はその要求に応える値となっている。しかし、これでも軽量構造の新性能車ゆえ、国鉄80系電車(サハ87)の曲げ剛性1.63×10(kgf・mm)と比較すると低下した値であった。なお文献間の単位換算に注意してJR東日本E231系電車と比較すると、曲げ・ねじり剛性とも2倍を軽く超えている。内装は72系全金属車の延長上にあり、ビニール化粧板を用いて薄緑色基調で簡素にまとめられている。蛍光灯照明と当時としては広い窓面積で、車内は明るかった。なお、蛍光灯は72系920番台では20Wであったが、この系列では40Wに出力増強されている。座席は扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシートで、中間車で座席定員54人(側扉が広くなったため、72系の64人より減少)、また一部私鉄と異なり運転台と扉の間には座席がないが、これが以後国鉄通勤形の標準として長く使われることになった配置である。運転台に貫通路がなく、客室から運転台への扉は客室から見て右側に設けられているが、この配置も後に長く用いられている。床は新設計とされ、鋼板の上に低圧回路用ビニル管の大部分を配管、その間にリノールを埋め込み、上にネオプラスリウムを敷いた。床厚は45 - 50mmである。また、当時の国鉄では通勤電車には扇風機さえ設けないのが普通だったが、上述の換気面への配慮により居住性改善に資するため、扇風機を標準装備とし、試作車では通風器通風口のアルミ合金製グリルにガードなしで常時設置するものだった。運転室は72系全金属車の構成をほぼ踏襲する形となった。101系では多段式電動カム軸制御器や電磁直通空気ブレーキなど新技術の採用があったためマスコンハンドルやブレーキ弁が新型のものとなっているが、その他メーター類やスイッチ類をはじめとする設備類は、72系全金属車とほとんど変わらない仕様となっている。台車は、電動車が新開発のDT21形である。付随車については、初期車は電動車化が計画されていたため、モーター取り付け準備が施されたDT21T形としたが、その後通常の付随台車のTR64形に変更されている。鋼板プレス部材を溶接組立したウイングばね形のボルスター式ペデスタル台車で、気動車用のDT22形(ただし枕バネの吊り方は若干異なる)と主要部分を共通仕様としている。開発時点では、金属ばねより格段に乗り心地が優れるなど長所の多い空気バネ台車がすでに技術的に確立されつつあり、本形式にも使用可能であった(空気バネ台車を試験的に装備しての試運転も行われた)が、国鉄では製造コスト低減のため、通勤電車用台車の枕ばねにはコイルばねを採用した。軸ばねが既に国鉄で実績のあるペデスタル支持のウイングばねとなったことも、コスト面やライセンスの問題を背景としている。DT21の平凡な設計はペデスタルのメンテナンスが必要という課題はあるものの、構造が単純で特許の縛りもなく、どの車両メーカーでも製造でき、基本的に低コストで作れるメリットがあった。DT21系はその後、本形式以外の通勤・近郊形電車にも広く採用され、国鉄電車用の廉価な台車として四半世紀に渡って製造され続けた。廃車になった車両の台車の一部は、103系3000番台や121系などに流用されている。後年片町線に配置されたサハ101-258・281・289・100-241 - 244についてはMGとCPの撤去が行われ、基本番台のサハ101-146 - 148・100-108 - 111に編入された。中央本線の臨時列車での運用に用いられていた旧形国電を置き換えるため、トンネル断面の小さい高尾以西への入線に対応するためにパンタグラフ取り付け部の屋根高さを低くした構造の車両で、1961年(昭和36年)にパンタグラフを備えたクモハ100形・モハ100形のみが登場した。特徴として、他系列の低屋根車と同じく低屋根部分は扇風機に代わってファンデリアが備えられていた。国鉄時代末期までは全車武蔵小金井電車区に配置されていた。1985年に中央本線で101系の運用が終了したのち、モハ100形808 - 810が鶴見線で運用されたほか、後述する「たんぽぽ」の改造種車も800番台である。国鉄初の新性能電車として試作されたモハ90形を量産化改造して登場した番台区分である。量産車に合わせて押し込み型通風器をグローブ型に取り替えたり、パンタグラフのPS16形への交換、ドア窓と戸袋窓のHゴム化、車体外板を上方に延長する形で埋め込まれていた雨樋を外付け式に改造するなどの各種量産化改造が行われたが、一部の車両は雨樋端部が運転台前面に回っている、台車の構造が異なる、乗務員室手すりが非埋め込み式であるなど、最後まで量産車とは異なる外観となっていた。1957年(昭和32年)10月に登場して間もない試作車(当時はモハ90系)4両を用いて東海道本線(浜松 - 米原間)で高速度試験が実施された。試験車はDT21X台車の歯数比を3.95の高速型に変更し、モハ90502の台車をまくらバネからベローズ式空気バネに変更したDT21Yに換装して乗り心地の比較検討も行われている。この試験の成果により、国鉄初の特急形電車で後の国鉄特急形電車の礎となったモハ20系(称号改正に伴い151系→181系)や新幹線電車の成功に大きく貢献した。また、この試験の際に切妻型ながら当時の国鉄車両における速度記録である135km/hを記録した。なお、当時の狭軌の日本国内記録は小田急3000形電車 (初代)の145km/hで、国鉄車としては後にクモヤ93形が175km/hを達成している。老朽化のため1979年(昭和54年)までに廃車されているが、このうち上記の高速度試験に供されたクモハ101-902は、この車両を製造したJR東日本東京総合車両センター(旧・大井工場)正門前に静態保存された。その後、2007年(平成19年)10月14日に埼玉県さいたま市に開設された鉄道博物館に移設され、展示されている。変電所容量などの問題により当初目指した全電動車方式での投入が困難な情勢となったため101系に代わる通勤電車を設計することとなり、その仕様決定に必要な電力回生ブレーキの試験車として1960年(昭和35年)にクモハ100形・クモハ101形の制御電動車同士の1ユニットのみが試作された。この試験の結果、常用回生ブレーキは制御機器の重量増、保守困難、回生失効の問題などが挙げられ、時期尚早として導入は見送られた。その原因として、当時は半導体技術が未熟であったため、磁気増幅器を用いた回生であったことが挙げられる。しかし、磁気増幅器を使用した抵抗制御車の常用回生ブレーキ車は古くはすでに戦前に登場しており、101系のような大量輸送向けの車両としては小田急電鉄の2600形が製造され2004年まで活躍していた。試験終了後は中央線編成で付随車扱いとして使用されたが、1964年に電装解除されクハ100-911・クハ101-911となり1979年(昭和54年)に廃車された。1973年(昭和48年)4月1日の武蔵野線府中本町 - 新松戸間開業に備えて登場した番台である。同線には一部区間に長大トンネルが存在することから、101系の初期車に対してA基準に準拠した難燃化対策が施され、6両編成15本の計90両が改造された。開業時に11本(計66両)が準備され、1978年(昭和53年)10月2日の新松戸 - 西船橋間延伸開業時に4本(計24両)が増備されている。先頭車はすべて制御電動車のクモハであり、電動車と付随車の比率は4:2(4M2T)である。また、自動列車停止装置(ATS)は同線用のS形(当時の列車区間用)と当時の電車区間用のB形が併設された。これに加えて同線用の列車無線を搭載したため、運転席後部の中央窓をふさいでいたのが特徴である。なお、改造から同線転用まで時間のあった車両は転用時まで中央線快速や中央・総武緩行線にも使用された。この時に発注された103系冷房車の製造名目は、武蔵野線開業用であった。しかしこちらを同じ豊田電車区に配置し、101系を不燃化仕様の1000番台として、改造転用したものである。 改造された車両は、主にモハ90、サハ98として製造された初期型が多かった。前述のとおり改造時期が2度にわたりそれぞれ種車の番号順に番号を振っていったため、種車の番号順の進番とはなっていない。 クモハ100型での改造種車でいうと圧倒的に初期型から改造されていき、中間型で後部標識灯は外から球を変えるタイプになったが乗務員室の仕切り窓の大きいタイプ(クモハ100、クモハ101ともに汽車会社製の79~81。なお日車製の82は旧タイプで、この3両より製造が古い。)のクモハ100‐80より改造の1010番、仕切り窓の小さい後期型1011番までが開業時の登場。そして延伸開業時にはまた初期タイプの後、1015番のみが後期タイプであった。改造(転用)後は全車が豊田電車区配置(東所沢電車区常駐)で、武蔵野線で運用されていたが、1986年(昭和61年)3月3日のダイヤ改正で豊田区の青梅線・五日市線用の103系5連が6連に増強されてから共通運用となり、103系や201系とともに両線の6連運用にも充当された。また南武線や仙石線に貸し出されたことや、大宮支線経由の府中本町 - 大宮間臨時列車に充当されたこともあった。しかし、種車が経年の高い初期車が中心であったこと、また武蔵野線への103系投入に伴い、10月26日のさよなら運転をもって基本番台よりも先に全車が営業運転を終了した。これにより首都圏からオレンジ色(朱色1号)塗装の101系が消滅した。その後国鉄分割民営化時にクモハ101-1006とクモハ100-1003の2両は保留車としてJRに継承されたが、翌1988年(昭和63年)3月までに廃車となった。また、サハ101-1007はすべり粘着試験台車TR910形を装着し試験用に用いられたほか、後述の秩父鉄道へ譲渡された車両もある。101系は電動車が1966年(昭和41年)、付随車が1969年(昭和44年)まで製造され、1979年(昭和54年)までは事故以外の廃車はなかったが、同年に201系の試作車が中央線快速に登場したことから同線を皮切りに老朽化に伴う廃車が始まった。結局、総製造数1,535両のうち最終的にJRに継承されたのは224両だった。なお、国鉄時代に廃車になった車両はすべて非冷房車で、冷房改造済み車両は103系750番台に改造された車両を含めてすべてJRに継承されている。首都圏では、山手線・京浜東北線・中央線快速・青梅線・五日市線・武蔵野線で使用されていた車両は国鉄時代に廃車または他区への転属によって姿を消し、東日本旅客鉄道(JR東日本)には210両が継承され、中央・総武緩行線・南武線・鶴見線で運用された。このうち南武線のみ冷房車が含まれていた。しかし、民営化後間もなくこれらの各線からは次々と撤退し、1992年(平成4年)以降は南武線の浜川崎駅 - 尻手駅間(南武支線)の2両編成3本(6両)のみとなっていた。南武支線用の車両はJR発足後にワンマン化(塗色も変更)と冷房化の2つの改造を受けており、他線で使用されていた車両が全廃された後も長い間使われていたが、205系1000番台への置き換えにより2003年(平成15年)11月28日までに定期運用を終了した。2005年(平成17年)8月1日にクモハ100-172・クモハ101-130が廃車されたのをもって廃系列となった。近畿圏では、大阪環状線・桜島線(JRゆめ咲線)・片町線(学研都市線)・関西本線(大和路線)で使用されていたが、関東地区以上にハイペースで103系への改造や廃車による撤退が進み、西日本旅客鉄道(JR西日本)に継承されたのは片町線で使用されていた14両(うち冷房車8両)のみであった。同線での編成はMM'×2が中央・総武緩行線からの転入車(非冷房でT車代用として使用された)、他は大阪環状線からの転入車であった。その後、Tを抜いて6連化して桜島線に転用されたが、207系量産先行車(第1編成)によって置き換えられる形となり、1991年(平成3年)3月に同線での営業運転を終了し、4月29日のイベント電車の運転を最後に翌1992年(平成4年)に全廃された。103系への改造車はその後も一部が残存したが、2002年(平成14年)10月までにすべて廃車となった。時期は前後するが、1982年(昭和57年)の水害で関西本線王寺駅に留置されていた60両が使用不能(電気機器の冠水による絶縁劣化および、床材が水を吸い膨れ上がる現象が発生したため)となり、急遽関東地区から廃車予定車を転属させ2年間使用に充てられた。この時、元中央線快速の車両はオレンジ地に前面黄帯入り、元中央・総武緩行線の車両は関西地区には福知山線103系にしかなかった黄色のまま使用され、共に異彩を放っていた。103系冷房試作車の成功を受け、当時101系が主力だった中央線快速用として1972年(昭和47年)からAU75系列による冷房化が行われた。主に後期製造分が改造対象とされたが、翌1973年から103系冷房量産車が同線にも直接投入されたこと、また101系自体の経年および性能上の問題により比較的少数に留まっている。103系の場合と違い、側面行先表示器は取り付けられていない。新宿 - 八王子・高尾間で京王線の特急と競合する関係から特別快速を中心にした運用に限定充当されたが、冷房改造による重量増により6M4Tでは各駅停車として運転されるダイヤに合わせることが性能上困難となるため、夏季以外も同様に運用を限定した。なお、組成上の関係からクハ101形に冷房改造車は存在していない。また、クハ100形の冷房改造車はTR64形台車を履いた後期形のみであるほか、サハ100形は0番台2両のみが試作冷房改造車に存在する。関東地区配置車は後年すべて中原電車区に集約されて南武線と鶴見線で使用された。また、片町線に配属された6連2本は同線の7連化に伴い非冷房車と混結の6M1Tになり、JR化後には6連化の上桜島線に転用された。これらの車両転配および車両需給の関係で、サハ101形の一部がサハ103形750番台に改造されている(後述)。101系冷房改造車は経年が比較的新しかったことから国鉄時代に廃車になった車両は皆無で、民営化の2年後である1989年に南武線で発生した踏切事故によりクハ100-91が101系冷房車で初の廃車になった。その後、首都圏のJR線の冷房化率がほぼ100%になった1990年夏頃から老朽廃車が始まり、1992年5月までに全廃された。なお、上記の車両とは別に南武支線用については分割民営化後の1989年に各車屋根上に設置したSIVを用いて給電するAU712での冷房改造が行われた。サハ101形とクハ100・101形の一部がサハ103形750番台とクハ103形2000・2050番台に改造編入されている。詳しくは国鉄103系電車#改造工事の項を参照。1986年(昭和61年)に横須賀線の末端区間である逗子 - 久里浜間の輸送力の適正化と高頻度運転化を図る案が持ち上がり、それへの対応のため、大船工場にて1000番台2連を改装して登場したのが「シーサイドライナーヨコスカ」である。当時この区間では113系により最長11両編成の列車が運行されていたが、比較的乗客が少なく、不経済ともいえた。そのため、国鉄末期に逼迫した財政事情を鑑みてこの区間の合理化が計画され、逗子 - 久里浜間の普通列車に101系の2・4両編成を投入し、逗子で東京方面行列車と接続させる案が考えられた。このための車両が「シーサイドライナーヨコスカ」である。塗色を白地に青・赤の帯に改め、ヘッドマーク取り付けなどを行う意欲的な計画だったものの、結局この案は実施されず、試験的に改造を施された車両も実際には運行されることはなかった。民営化のための車両数削減が原因ともされる。現在この区間ではE217系が日中は4両の付属編成を中心に、朝夕は逆に11両の基本編成を中心に運行されているが、近年は土曜・休日の日中は11両の基本編成を中心とした運用となっている。同編成はその後長らく大船工場の入換車輛となっていた。当初は車籍を残していたが後に除籍、構内移動機械として存置していたが解体されている。戦前からの省型電車や買収国電などからの改造車が多く、老朽化が進んでいた牽引車・配給車・救援車・荷物車・郵便車などの置き換えを目的に、救援車の機能を備えた牽引車としてクモヤ145形および配給車としてクモル145形・クル144形や飯田線の新性能化に伴い登場した郵便荷物電車であるクモユニ147形が101系の改造で登場している。これらは101系からの改造とはいっても、車体を新製し、モーター・ブレーキ・台車などを流用したものと考えてよい。これらの車両のうちクモユニ147形全車とクモヤ145形600番台2両がクモハ123形40・600番台に再改造され、東海旅客鉄道(JR東海)の身延線で運用されていたが、2007年(平成19年)に313系に置き換えられた。東京総合車両センター(旧・大井工場)の構内入換用に使用されていたクモニ13形を置き換えるため、1986年11月にクモハ100-802・クモハ101-170を改造した構内入換車で、「たんぽぽ」の愛称が付けられた。クモハ100-802は構内有効長の関係から車体を切り継ぎして全長を6m縮め、2両で17m級2両編成と同じ長さとした。構内入換車への転用にあたり除籍され移動機械扱いとなった。塗装は当初は茶色地に黄色帯であったが、のちに黄色地に青色帯に変更された。モーターカーなどに役目を譲り、ほとんど稼動することなく他の保存車両とともにセンター内に留置されていたが、2008年11月に解体された。ちなみに、クモハ100-802は中央線101系さよなら運転に使用された車両で、車番が示すとおり低屋根車である。←新宿 クモハ100-802+クモハ101-170 横浜→ 埼玉県の羽生 - 三峰口間を走る秩父鉄道に、国鉄時代の1986年から民営化後の1989年(平成元年)にかけて3両編成12本(計36両)が譲渡された。形式は1000系となり、M'cMTc(クモハ100形 - モハ101形 - クハ101形)の編成で譲渡された。入線当時は黄色に茶帯の塗装に前面に「秩父鉄道」と表記されていた塗装で比較的原型を保っていたが、後のワンマン化を前にクリームを基調として赤と青の帯を施した塗装に変更された。その後、先頭車の冷房化(中間車は非冷房のまま)やパンタグラフの2基搭載化などを経て、2008年(平成20年)までは全車が在籍していたが、2009年(平成21年)2月に7000系の入線により1004Fと1006F(1006Fの電動車は元武蔵野線用1000番台で、1000系では唯一モハ90として製造されており、初期形の後部標識灯と乗務員室の仕切り窓の大きいタイプが珍しかった)の2編成が運用を離脱し廃車され、置き換えが開始されている。なお、鉄道博物館の開館に合わせて4編成が2007年(平成19年)秋からオレンジバーミリオン・スカイブルー・カナリアイエロー・ウグイス(関西線色)の4種類の塗装へ順次復元された。老朽化の進行により、最後まで残存した1003F(オレンジバーミリオン塗装)が2014年3月21日から3月23日まで運行された「さよなら貸切列車」に使用されたのを最後に運用を終了し、これをもって本系列の営業運転はすべて終了した。3月31日付で全車廃車され廃系列となった。
出典:wikipedia
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