


森 政弘(もり まさひろ、1927年(昭和2年)2月12日 - )は、日本の工学者、仏教徒。東京工業大学名誉教授、工学博士(東京大学)。オートメーションやロボットの研究で先駆的な研究実績を持ち、創造性や仏教に関する著書や講演も多い。ロボットコンテストの創始者であり、「ロボコン博士」の異名も持つ。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章を受勲。東京大学生産技術研究所助教授、東京工業大学制御工学科教授、(株)自在研究所代表取締役、日本ロボット学会会長を歴任。早期にロボットハンドや人工心肺の自動制御、人工筋肉や群ロボットの研究開発に着手し、サイバネティックモーションや不気味の谷といった新概念も提唱した。自動製糖システムや自然力推進ボートなどの産学連携研究でも実績を残している。名古屋大学では電気工学を専攻していたが、制御工学の研究するようになる。ポストが空いたため、東京大学生産技術研究所へ異動する。昭和34年には技官から助教授に昇進する。プロセス制御(サンプル値制御、むだ時間対策など)について研究を行い、1959年にで学位を取得する。また、化学プラント系のみならず、人工心肺や人工腎臓など、人工内臓の自動制御についても研究している。その後、「自動制御を突き詰めても省力化にはならない」と、シーケンス制御にも注目し、以後自動化に重きを置いて研究を進めていく。企業との共同研究では、精製糖工程の総合制御システムなどでも実績を挙げている。この自動化、オートメーションの観点から指に着目し、当時大学院生の山下忠(後 九州工業大学)と指の研究を実施し、3本指の人工の指を開発する。更に人工筋肉を志向し、高分子アクチュエータなどメカノケミカル系の研究にも取り組んでいる。後年、森はロボットコンテストの創始者として有名になるが、東京大学生産技術研究所の頃から、研究室において階段を昇降可能な歩行機械のコンテストや、ロボットの形態・用途についてのブレーンストーミングなど、創造教育的な取り組みも行っている。1969年に教授として東京工業大学の制御工学科に着任し、1970年代のロボット研究をリードする。1970年には、ロボットなどに対する、人間の感情的反応に関するロボット工学上の概念である「不気味の谷現象」を提唱し、ロボットに身体図(身体地図)の概念を導入すること提案している。一方1970年代半ばから仏教や禅の活動に取組み、仏教入門の書籍を執筆したり「非まじめ」を提唱したりする。また、この頃に仲間達と自在研究所を設立している(この頃の代表取締役は松原季男(後 静岡文化芸術大学教授))。ロボット研究としては、1975年の沖縄科学海洋博において、森が構想・設計して自在研究所(松原季男)で製作された「みつめむれつくり」を出展した。これは自律分散ロボットの先駆けであった。また、1971年から研究室で二足歩行ロボットの研究を開始しており、膝が伸縮するタイプの二足歩行ロボットとその制御理論を開発。1982年にはBIPMAN2で動的歩行を実現させている。1981年には創造工学演習の授業において、沈滞化した教育現場を活性化させる試みとして、単一乾電池2本で人が乗る乗り物を製作するコンテストを実施する。また、東京工業大学が100周年を迎え、森は記念ビデオの撮影、編集に追われることになる。1980年は日本のロボット元年と呼ばれる年であり、1983年には日本ロボット学会が設立された。森は学会設立に尽力し、第1期の副会長、第3期では会長も務めている。また、1984年には放送大学教授も兼任し、『計測と制御』といった教科書から、『"Budda in the Robot"』といった仏教関係に至るまで、著作活動も活発であった。1987年に東京工業大学を定年退官。名誉教授となり、株式会社自在研究所の代表取締役社長にも就任する。1988年にはNHKからの相談を受け、高専生を対象とした「アイデア対決独創コンテスト~乾電池カースピードレース」が開催、放映される。翌年以降は「アイデア対決ロボットコンテスト」に改称され、大きく発展していく。1999年にはロボコンマガジンが創刊され、森は顧問を務める共に連載記事を担当。連載記事は、オーム社から数冊の本になって出版されている。2001年開催のロボフェスタでは、中央委員会会長も務めている。また、ロボットコンテストにおける人間教育的意義を強調し、多くの講演で語っている。2010年以降も仏教関係の著書を数冊出版したり、大分合同新聞で月一の連載を持ったりしていた。また、高専ロボコン全国大会でもほぼ毎年審査委員として出席し、ロボコン大賞の発表を担当していた。フルートを嗜み、名古屋フルハーモニーでの演奏経験もある。少年時代から真空管ラジオを自作したり、近年も寝室に工作機械を持ち込んでスターリングエンジンを製作するなど、ものづくりが大好きである。ロボット研究においては動画撮影が必要となることが多かったが、森が現役研究者だったころはビデオカメラなどはなく、フィルムを使っての映画撮影であった。セミプロ級の腕を持っていた森は井上博允の博士論文研究のマニピュレータの撮影をしたり、東京工業大学100周年記念の記録映画の撮影も担当した。人と同じことはやらないという性格で、人工内臓の自動制御や指・ロボットハンドの研究など、1960年代~1970年代にかけてオートメーション、ロボット分野で多くの先鞭を付けた。サイバネティック・モーションなど、独自の概念を提唱することもあった。多くの先駆的成果を挙げたものの、深く掘り下げることがなかったため、「自分はここ掘れワンワンの犬である」「学位を取るまではやってたけど、深くやるのは自分の性に合わなかった」と述懐している。これにはアメリカの後追い研究や流行に群がるロボット研究という当時の情勢に対する反発という背景もあり、「論文を読むと読まれてしまう」と戒めている。また、産学連携研究の成果が多いことも特徴で、自然力推進ボートの研究、さかさまプラント・非接触充電装置、スルメ型電極接続ロボット、オートマックス社の清掃ロボットなど、多彩な研究開発を行っている。相手先のみならず、自在研究所と連携しているケースがあることも特徴的である。また、「非まじめ」「自在学」「全機」「退歩」などの概念を提示し、「技道」を提唱した。本田宗一郎が始めた「役に立たないものをつくれ!」というアイデアコンテストにも共鳴しており、ロボットコンテストにおいても、試合の勝ち負けとは別に、夢・発想・製作技術・製作上の困難をいかにして乗り越えたか、 そこに使われたアイデアの将来の開拓性や発展性、ロボコンの精神に合致しているかという観点から、最高の賞「ロボコン大賞」を設立している。学術分野では、森の弟子、孫弟子が多く活躍している。東京工業大学時代の弟子の竹中透がホンダASIMOの歩行制御理論を担当しており、梅谷研究室からは、広瀬茂男(蛇のバイオメカニクス、歩行ロボットなど)、生田幸士(マイクロ・ナノテクノロジー)、吉田和哉(宇宙ロボット、東北大学教授、同 極限ロボティクス国際研究センター センター長)といった孫弟子が出ており、彼らの研究室から更に人材が輩出されている。バイオメカニクス分野でも、森の弟子である梅谷陽二、山下忠、小川鉱一らが貢献している。(関連動画)(関連技術)
出典:wikipedia
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