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草鹿任一

草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月7日 - 1972年(昭和47年)8月24日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。勲等は勲一等。石川県生まれ。草鹿家は加賀大聖寺藩に仕えた一族であった。 金沢一中を経て、四高に進んだが、退学し海軍兵学校(37期)入校。志望者3700名余りの中で3番で合格した。卒業席次は179人中21番。同期に井上成美大将、小沢治三郎、岩村清一、小松輝久、桑原虎雄各中将などがいる。戦後の草鹿は井上を批判することもあったが、困窮した生活を送っていた井上が胃潰瘍で倒れた際には、井上の教え子や部下達と共に治療費集めに尽力している。草鹿は砲術畑を歩み、海軍部内の権威者であった。砲術学校射撃科教官、「山城」砲術長、第二艦隊砲術参謀、「長門」砲術長、砲術学校射撃科長、第一艦隊司令部附(砲術指導官)、教育局第二課長、砲術学校校長と砲術科専攻士官の要職を歴任している。海軍大学校甲種学生(19期)を卒業し、「北上」、「扶桑」の各艦長も勤めている。二・二六事件に際しては強い怒りを示した。第一航空戦隊司令官、支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長、教育局長を歴任した後、海軍兵学校校長に就任する。同期生に「草鹿は兵学校に行儀見習いに行くんだ」と言われ、本人も内心は有難迷惑に感じていたが、赴任するや生徒と共に学ぶをモットーに授業、訓練に参加し、村夫子然とした姿と相俟って、生徒達に「任ちゃん」と呼ばれ慕われた。開戦後の1942年(昭和17年)10月1日第11航空艦隊司令長官に補せられ出征。同年12月24日南東方面艦隊司令長官となり終戦まで指揮を執った。ガダルカナル島奪回を目標に米豪連合軍と激戦を繰り広げたが叶わず、その後もラバウルを根拠地として連日の航空戦を展開した。しかし連合軍の攻勢は激しく、戦線視察に訪れた連合艦隊司令長官・山本五十六が搭乗機を撃墜され戦死した。草鹿が少尉候補生として練習艦隊で指導を受けたのが山本であり、親しい間柄であった。山本戦死の際はその出発を飛行場で見送った草鹿の悲嘆は大きかった。連合軍のムンダ、コロンバンガラ上陸を迎え、草鹿はブインに将旗を進め指揮にあたったが、敗勢は挽回できず、隷下部隊の玉砕が相次いだ。連合軍は連合艦隊の根拠地であったトラック基地を襲い、所在の艦船、航空機は壊滅的被害を受けた。これに伴い隷下の航空部隊はラバウルを離れることとなり、草鹿は連合軍の攻撃に備え長期篭城の構えを取った。第8方面軍司令官の今村均陸軍大将と協力し、ラバウルに洞窟設備を造り、兵器の開発、新戦法の考案を進めたほか、自給自足の体制を確立するため、農地の開墾、生活必需品の独自生産を行った。終戦の際、連合軍側は降伏文書調印の代表者として今村大将を指名するが、草鹿は「海軍は陸軍の指揮下に入ったことはない。建軍の本筋から考えて陸軍には海軍の降伏調印の権限は有さない」と頑なに主張し、海軍側の代表者として今村と連名で調印した。連合軍の飛び石作戦により孤立を余儀なくされ、自給体制を取っていたラバウルでは終戦直後の復員の目処が立たなかった。1945年(昭和20年)10月頃の日本本土からの放送で帰国は4年後との情報を得たラバウルの日本軍は自給態勢を継続すると共に、人材を育成して戦後の復興に役立てるため、陸海軍一体となって委員を組織して兵隊の教育に努めることとなり、旧制中学の三年レベルを標準として教科書(倫理、数学、物理、化学、歴史、法制、経済、英語、詩歌等)を作成して各部隊に配布を実施したが、想定より早い1946年(昭和21年)3月頃から復員輸送が始まった。豪軍による戦犯調査に対しては、部下を庇う発言や行動に徹した。自分自身が知らない部下が起こした事件や問題に対しても「それは自分が命令した」、「それは自分の責任である」と主張し、「私を罰することで部下の責任は問わないで欲しい」と要望したので、豪軍の担当者にも高潔な人物として非常に良い印象を与えたといわれる。自らも戦犯指名を受けたが無罪となり、1947年(昭和22年)2月に帰国した。戦犯問題では元第八艦隊司令長官・三川軍一及び元参謀長・大西新蔵の裁判において、問題となった艦船の所属を巡って対立している。三川、大西は起訴却下となった。復員後は長男と共に製本・出版を営む『光和堂』を開業する傍ら、旧部下の世話を積極的に行い、復員局に足しげく通っては、ラバウルで苦楽を共にした部下の状況を確認していたという。復員局の職員は「日本海軍の司令官は数多いが、『俺の部下に変わったことがないか?』といまだに訪ねてこられるのは草鹿さんだけだ」と述べている。戦後、加算制度の廃止により恩給を受けられない旧軍人達の救済を目的に、軍人恩給の復活運動に尽力、1961年(昭和36年)に軍人恩給復活達成を果たす事となった。この際の活躍から「加算の草鹿」とも呼ばれた。『軍恩連盟全国連合会』名誉会長等を務めている。海軍ラバウル方面会会長に就任し、戦没者の慰霊、遺骨の回収にあたり、1970年(昭和45年)、ラバウルや旧部下の玉砕地等を訪れている。草鹿は81歳の高齢で健康状態は良好ではなく、周囲の者が止める中、草鹿の強い要望によりラバウルに向かった。同時にブーゲンビル島の山本五十六が搭乗していた一式陸上攻撃機の墜落現場を訪れ、「長官、遅くなりましたが、草鹿ただいま参りました」と述べたという。翌年もソロモン方面に赴いている。非常に頑固で短気な性格であったといわれる。筋の通らないことに関しては一切妥協せず、たとえ上官であっても激しく叱責したので、海軍内では浮いた存在であった。ラバウルでの陸海軍共同会議の際には激しい論議を交わし、同席していた今村均陸軍大将も、たまらず激しく反論したという逸話も残っている。一方気さくな性格で、酒席ではくだけた態度を見せた。熱心に参禅しており、女婿の乗艦した潜水艦の行方不明が伝えられても動揺は見せなかったが、後刻草鹿は座禅を組んでいた。戦犯裁判を受けるためシンガポールに護送されている途中、番兵が元日本兵にビンタをしていた。草鹿は止めに入ったが、その番兵は草鹿を耳が聞こえなくなる程殴りつけている。草鹿は黙って耐えたが、周囲の者は『真の武人』を見る思いだったという。戦後、アメリカ海軍大将アーレイ・バークと深い親交を持った。アーレイ・バークが反日家から一転して親日家になった理由の1つに、草鹿との交流があるといわれる。息子の外吉は、海兵(77期)に進んだが在校中に終戦となる。戦後の外吉は共産党と関わりがあり、選挙に出馬する噂があった。草鹿は死の床から「ぜひ立候補せい。わしが応援してやる」と語ったという。外吉に立候補するつもりはなかったが、「父は思想信条を越えて息子の味方であった」と回想している。『ラバウル戦線異状なし -我等かく生きかく戦えり-』光和堂、1958年(同、再版1976年)-ラバウル滞陣中の出来事を中心に著述している-

出典:wikipedia

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