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初春型駆逐艦

初春型駆逐艦(はつはるがたくちくかん)は大日本帝国海軍(以下海軍)が建造した駆逐艦である。特型駆逐艦(吹雪型)の次の主力駆逐艦として計画されたが、過度の重武装と軽量化により、復元性や船体強度に問題を生じ、建造は6隻で中止された。なお、有明と夕暮は有明型駆逐艦(ありあけがたくちくかん)に類別されていた時期もあった。ロンドン海軍軍縮会議の結果、補助艦にまで制限を受けた海軍は、直後に第一次海軍軍備補充計画(通称マル1計画)を設定、更なる戦闘力を上げるため新造艦の建造に着手することとなる、しかし、駆逐艦には、「1500トンを超える艦は、合計排水量の16パーセントまで」と言う項目があったため、当時主力として建造していた特型の増産が不可能になった。そこで海軍では、特型(1,680トン)より約200トン小さい1,400トンの船体に特型に準ずる性能を持った艦の建造を進めることとなる。元の艦より小さな船体に元の艦と同等の性能は無茶とも言えるが、藤本喜久雄造船大佐(当時)は、先の特型同様の手法を用いることによりその要求を満たすことに成功する。設計は基本計画番号F45としてまとめられた。当初「マル1計画」では12隻の初春型建造を予定していたが、後述する問題により6隻で打ち切り、残りの6隻は設計をF45Dと改め白露型として建造されることになった。本型が採用した主砲は、特型と同じ50口径三年式12.7センチ砲で、初春型は、前方に連装・単装と雛壇型に、後方に連装一基の計5門装備する。単装砲は従来のA型だが、連装砲は仰角を75度へ引き上げ対空として使うことが可能としたB型砲である。ただし、発射速度は毎分4発と遅く「対空射撃も可能」というものであり、またA型より重量が増えている。特型と同じく、61cm三連装三基を装備する。ただし、後の海軍標準装備となる「次発装填装置」を本型が最初に装備することにより射出後に艦上にて再装填ができ、再度の攻撃が可能となり雷撃力は倍加したといえる。予備魚雷が収められた次発装填装置から発射管への装填は機力によって行われ、所要時間は1本あたり3~5分という短いものであった。船体にアーク溶接を用いて建造し、暁が装備した缶を採用した結果、艦の軽量化に大いに役立つこととなる。このような軽量化は、確かに排水量の軽減に役立ったが問題も引き起こすこととなった。特型と比べた場合、全長で10mほど短くなり、全幅は40センチ狭く、喫水も20センチ浅くなるなど特型より小さくなっている。その上、船体下部の機関重量が軽量化されたにもかかわらず、上部の武装重量は殆ど変わらず、艦橋・煙突なども高くなった結果、艦の重心があがり左右の安定性が悪い艦となった。公試試験のさい、一番艦初春は、38度もの傾斜をし復帰不能寸前にまでなった。そのため、急遽舷側面にバルジを付けて安定性を高める改造が施されている。そうして初春と二番艦子日の竣工直後、海軍を痛撃する友鶴事件が発生する。検討の結果、本型は直ちに設計の変更が施されることとなる。船体に取り付けたバルジをはずし、喫水を深くし重心を下げる。装備している魚雷発射管を、一基撤去し三連装二基とした。また、艦橋直前の二番砲を艦の後方に移し、三番砲と同位置の背中合わせの配置になる。一番煙突を1m、二番煙突・機銃座・前後檣楼を1.5m、探照灯台を2m、一番魚雷発射管を30センチ下げたほか、錨鎖庫を1甲板分下げ、艦橋部分も縮小することとなる。これらの改装の結果復元性は向上したが、各性能は著しく低下することとなる。初春竣工時に工事の初期段階にあった5番艦有明、夕暮の2艦はバルジを取り付けなかった。代わりに艦幅を10.6mに広めるよう設計を改めて建造に入った。しかし友鶴事件発生で艦幅を元の10.0mに戻すこととなり、船体がつぎはぎ状になった。それは速度性能に影響した。また舵に吊り下げ並列式2枚舵を採用した。しかし公試成績は悪く、計画速力35ノットのところ、有明は33.4ノットであった。後に通常の1枚舵に戻し、速力はおよそ1ノット回復した。1933年(昭和8年)12月15日、艦艇類別等級別表において有明と夕暮は初春型から外され、白露、時雨、村雨とともに有明型駆逐艦として新設された。1934年(昭和9年)10月13日、さらに夕立と春雨も追加されるが、夕暮までと白露以降は設計が変更されており船体構造も大きく異なることから、同年11月19日、有明と夕暮は初春型に復され、有明型は白露型と改められた。以降、有明型は正式な類別ではなく、改初春型を指す便宜上の呼称となった。初春型は6隻で打ち切りとなったため、同型艦4隻による駆逐隊は初期型4隻からなる第二十一駆逐隊のみ。残る改初春型2隻は、白露型初期ロット2隻とともに第九駆逐隊を組んだ。佐世保鎮守府籍の初春・子日・初霜・若葉で編成した。1932年(昭和7年)4月1日付で解隊した桜型駆逐艦2隻・樺型駆逐艦2隻からなる先代に続く二代目の第二十一駆逐隊である。友鶴事件後の初春・子日の改良と初霜・若葉の竣工延期によって、編成に1年を要した。所期の性能に達しなかったため、新鋭ながら第二艦隊第二水雷戦隊には投入されず、第一艦隊第一水雷戦隊に投入された。太平洋戦争中は近海の対潜哨戒を皮切りに、序盤は南方攻略、中盤は北方哨戒にあたった。レイテ沖海戦後にフィリピン戦線に振り向けられ、初霜を残して戦没した。同海戦スリガオ海峡夜戦で全滅した西村艦隊より時雨を編入後、第一水雷戦隊の解隊にともない第二水雷戦隊に転籍。内地に帰還すると、第二十一駆逐隊は稼動駆逐艦をかき集めて再編される。その後菊水作戦に参加。坊ノ岬沖海戦で朝霜・霞が沈没、小滝久雄駆逐隊司令が戦死した。初霜は、陽炎型雪風のみになっていた第十七駆逐隊に転出。その後、朝霜・霞の除籍と共に第二十一駆逐隊は解隊された。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の戦歴は各艦の項目を参照。横須賀鎮守府籍の有明・夕暮と白露型の白露・時雨で編成した。1934年(昭和9年)3月1日で解隊した楢型駆逐艦4隻からなる先代に続く四代目の第九駆逐隊である。1938年(昭和13年)12月15日付で佐世保鎮守府の樅型駆逐艦からなる先代第二十七駆逐隊が舞鶴要港部第三十四駆逐隊に転出し、入れ替わりに佐世保に転籍したため、三代目の第二十七駆逐隊となる。白露型の竣工が遅れたために編成には1年半もかかったが、白露・時雨の就役に先駆け、改初春型2隻で一水戦に編入されている。一水戦の特性から、日華事変には参加していない。太平洋戦争中は、蘭印攻略・インド洋機動作戦・珊瑚海海戦・ミッドウェー海戦と広範囲で活動し、第二段侵攻作戦のため四水戦に転籍してソロモン諸島の攻防戦に従事した。1943年(昭和18年)7月、第四水雷戦隊の解隊にともない第二水雷戦隊に編入されるも、夕暮・有明が相次いで戦没したため、最後の1年は補充分を含めて白露型4隻の駆逐隊として活動した。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の戦歴は各艦の項目を参照。

出典:wikipedia

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