サンフレッチェ広島F.Cの育成組織(サンフレッチェひろしまエフシーのいくせいそしき)は、Jリーグ・サンフレッチェ広島F.Cの育成組織(アカデミー、下部組織)。Jリーグ百年構想のもと、サッカー選手の育成とサッカーの普及、および青少年の健全育成を目的に活動する組織である。"註:本記事の題名「育成組織」は、サンフレッチェ広島の公式サイトの表記に従った。また「下部組織」と言及されることもあるものの、Jリーグの指針では「下部組織」という用語は用いないとしている。"1992年クラブ創設とともにジュニア(小学生年代)、翌1993年にユース(高校生年代)およびジュニアユース(中学生年代)を創設。ユースの拠点は広島県安芸高田市吉田町の吉田サッカー公園、ジュニアユースおよびジュニアの拠点は主に広島県安芸郡府中町の広島青少年文化センター。スクールの拠点は、広島県内のほか山口県や島根県にもある。外部からユースへの入団はスカウトと募集(セレクション)があり、毎年来年度高校1年生となる中学3年生を対象に6月ごろに案内募集が出され、8月末ごろにセレクションを開催している。ジュニアユースへの入団はセレクションのみであり、来年度中学1年となる小学6年生を対象に、10月ごろに案内募集が出され、12月末ごろにセレクションを開催している。ジュニアはスクールからの選抜メンバーで編成されている。スクールおよびジュニアは男女共に入れるが、ジュニアユースおよびユースは男子のみである。2チーム編成で大会に出場する場合、チーム名に「セカンド」あるいは「ベアース(BearsあるいはB)」を付け登録している場合もある。なお一部では、トップチームに対する育成組織であるということから、「子熊」「仔熊」の愛称で呼ばれている。これらの熊とは、チームマスコットであるツキノワグマのサンチェに由来する。毎年3月、年度最初のホームゲーム試合前に、スクール・ジュニア・ジュニアユース・ユース・トップの選手が一堂に集まり、「サンフレッチェファミリー紹介」と題し、サポーターに向け顔見世を行っている。Jリーグ各チームは、Jリーグクラブライセンス制度での規則により育成組織を設置しなければならない。これを元に広島では以下のチームを編成している。男子は全カテゴリ、女子はスクール及びU-12に相当するチーム(広島ジュニア)に入団できる。なおクラブは2015年現在、女子チームを創設する予定は全くなく地元のアンジュヴィオレ広島とともに広島サッカー界を盛り上げていくと明示しているが、正式な提携までには至っていない。更に、1種アマチュアチーム、いわゆるセカンドチームも創設する予定もないと明示している。以前はイヤーブックやホームページなどで名簿を公開していたが、個人情報保護法が施行した2005年以降公開されていない。クラブ目標の一つに「日本一の育成型クラブ」を掲げ、2001年以降「人もボールも動くサッカー」「やっていても見ていても楽しい攻撃的なサッカー」をクラブ全体のポリシーとしており、その中で「技術があってハートもあってハードワークできる」選手の育成を目指している。サッカーの技術的な面だけではなく、学業・生活面の指導など人間教育にも非常に力を入れている。これは、参考にしたオランダのクラブの方針(下記参照)であることに加え、育成組織を整備した今西和男の哲学によるところが大きい。メンタル面でのアプローチも積極的に取り組んでおり、さまざまな業種の人物を招いて講話を開いたりしている。その中には俗にいう炎上や個人情報漏洩を防ぐSNS講習も含まれる。ユースにおいてプロになれなかった選手の就職および大学進学率はJリーグユースの中でもトップクラスを誇る。クラブ財政の問題からトップチームですぐ使える選手を昇格させているため、その昇格人数は極めて少なくなっている。一方でライバルの不在つまり県サッカーのレベル低下を防ぐため、意図的に上のカテゴリ昇格を制限している部分もある。広島の育成組織を退団後他の学校などで活躍し、広島のみならず他のJリーグチームでプロ入りを果たした選手もいる。2012年2月24日、日本代表対サッカーアイスランド代表戦にて、広島の育成組織出身者が日本代表として4人出場を果たした。国際Aマッチにおいて同一クラブユース出身者4人出場は日本サッカー史上初のことである。また国内組の縛りがあったこともあり、東アジアカップ2013では5人育成組織出身者から日本代表に選ばれている。トップチームの2012年・2013年のJリーグ連覇の要因の一つとなったことから、またこれらは比較的小さいクラブ財政基盤での戦力強化モデルであることから、その育成ノウハウが注目されており、他からの問い合わせに対し広島側はそのノウハウを全面的に公開している。例えば、京都サンガF.C.は2005年から柱谷幸一の音頭で"スカラーアスリートプロジェクト"という育成プロジェクトを立ち上げたが、ベースとなったのが広島の育成ノウハウである。その他にも、地元広島のみならず中国地方の街クラブにもそのノウハウを提供している。一方で2014年海外の育成組織評価機関では、これらノウハウは指導者の勘や経験によるものが大きく体系化するべき、スカウトなどの選手評価を数値化することが望ましい、など改善の余地があると指摘されている。ノウハウ公開と平行して、研修などを目的とした短期間の受け入れも行っている。例えば、フィッツジェラルド舞行龍ジェームズは2004年15歳当時広島ユースで短期間受け入れ、これが縁で日本の高校に通いプロ入りし日本に帰化している。こうした特徴から全国的なメディアに取り上げられることも少なくない。例えば、2011年イタリアで行われたクラウディオサッシ国際ユーストーナメントでの開会式のパフォーマンスが話題となり、やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜でも取り上げられている。広島は古くは静岡・埼玉と共にサッカー御三家と言われる土地であった。戦前から広島高師附属中学(現広島大学附属高校)・広島一中(現広島国泰寺高校)・修道中学(現修道高校)の広島サッカー御三家を中心に全国大会で数々のタイトルを取り、福原黎三・渡部英麿・松田輝幸・浜本敏勝ら戦後の教員指導者の尽力により、数多くのサッカー選手を輩出してきた。1950年代後半になると、指導者不足から東洋工業蹴球部(後のマツダSCでありサンフレッチェ広島F.Cの前身)をはじめとする地元実業団の現役選手が頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになった。1965年東洋工業現役選手によるサッカー教室を正式に開始、マツダSC以降も「マツダサッカースクール」の名称で船本幸路や小城得達など蹴球部OBを講師に県下を指導・普及して周っていた。1970年代以降、オイルショックから広島経済の地盤沈下が進み、広島サッカーも影響し停滞していった。地元出身の楚輪博や金田喜稔、木村和司などは大学を卒業後は関東や関西の実業団チームへ入団し、森島寛晃や田坂和昭などは他県の高校へ越境入学するなど、タレントが流出していった。1984年、マツダSCはJSL2部に降格したことを機に、今西和男が監督に就任した。今西は蹴球部OBだが引退後はマツダ社員として働いており、指導者としてのキャリアがまったく無かったので、オランダからハンス・オフトをコーチに招聘した。今西とオフトは、マツダSCはこのままではタレント不足で勝てないと悟った。今西は外国人選手獲得も兼ねて、オフトの出身クラブであるフェイエノールトとその他にもアヤックス・アムステルダムを視察した。そこで、プロには予備軍(とアヤックス・アカデミー)が存在すること、予備軍ではトップの内容に近いトレーニングをこなしてること、プロになれなかった場合のリスクを避けるために予備軍に勉強をさせていたこと、を知った。一方、新たな日本人選手発掘・獲得には、地方というハンディキャップからか、なかなか即戦力の選手を獲得できなかった。彼らは相談した結果、即戦力となる大卒選手の獲得を継続する中で、高卒選手の獲得と育成に力を入れ、フェイエノールトやアヤックスのような予備軍の実現を目指そうとした。さっそく2軍である「マツダSC東洋」を強化し中国サッカーリーグに参戦、森保一・片野坂知宏・柳本啓成らを育成していった。さらに、指導者育成にも着手、後に小林伸二や松田浩、中村重和なとチームを影で支える指導者が誕生した。また1990年代以降、当時マツダSCコーチだったビル・フォルケスの紹介で、森保や高木琢也など若手数人を年に1度1ヶ月程度マンチェスター・ユナイテッドFC.リザーブに練習参加させていた。1993年、Jリーグが開幕すると、すべてのJリーグクラブは育成組織を持つことが必須となった。サンフレッチェ広島も例外ではなく、この年に育成組織を作っている。当初ハード面で遅れており、特にユースは広島市内で練習グラウンドの確保すらままならなかった。そこへ、高田郡吉田町(現安芸高田市)がサッカーを中心としたスポーツで町おこしをする「若者定住促進等緊急プロジェクト」の一環として全面協力することが決定、ユースは育成拠点を吉田町内に置き、町内の吉田運動公園を練習拠点として活動を開始した。ほぼゼロからのスタートであったが、前身の東洋工業/マツダSC時代から若手を育てることがクラブとして生きる道だという思い から、若手育成のノウハウができつつあり、その後の試行錯誤から以下のような独自の発展を遂げたジュニアユースへの選手入団は、ユースと違いスカウトは基本的に行っておらず、セレクションによるものである。ユースと同様に強化に努めたが、結果として現れだしたのは2000年以降である。ここで育った選手がユースに昇格し、ユースも結果が出るようになった。また、ここで育った選手のうちユースに昇格できなかった選手のほとんどは地元高校に進学し、広島県の高校による2000年代の高校3大大会(インターハイ・高円宮杯・選手権)好成績はジュニアユース出身者によってもたらされている。2008年にはジュニアユース出身選手から初の日本代表選手を生み出した。提携スクールは、一般的な町クラブのように地元団体・企業が運営し、サンフレッチェが指導者を派遣するなど技術提携する形をとっている。ほぼゼロから始めたところばかりだが、中には町クラブを前身としサンフレッチェと技術提携したことにより提携スクールとなったところもある。これらのチームはスクールを中心とした普及と、ジュニアユース(中学生年代)チームを頂点とする育成チームつまり高校年代以上のチームは持っておらず、高校年代は広島ユースへ入るか高体連・他のJリーグユースなどに入団する。提携スクール出身でトップチームに昇格したもの、また日本代表に選ばれた選手も存在する。以下は現在開校している提携スクールである。以下は、以前提携スクールとして活動していたが離脱したスクールである。女子の「フレッチェスクール/レディーススクール」、小学生年代の「スクール」や中学生年代の「ジュニアユーススクール」、サッカー未経験の大人を対象とした「おとなスクール」など、幅広く行っている。なお直下のスクールの内、沼田(広島広域公園)のみトップス広島との提携の形で運用している。また特定のポジションに特化した、「GKスクール」や「ストライカースクール」も開校している。前述のとおり広島県のサッカーは1980年代に停滞し、1990年代以降サンフレッチェを中心に高校生年代の強化に成功したものの、中学生年代は未整備だった。これに対し、市内の小学生年代の町クラブが広島大河FCをモデルケースとして中学生年代のチームを作る動きが加速し、指導体制を強化した。この流れにサンフレ側も協力している。例えば、毎週火曜日に高校サッカーや街クラブの指導者とサンフレ育成スタッフ全員が集まる"育成ミーティング"を開催、その中でサンフレ育成ノウハウを公開しお互い情報交換するなど、広島のサッカー発展に貢献している。トップス広島やP3 HIROSHIMAでの活動の一環として、広島市主催の公共事業「Doスポーツ体育指導者招へい事業」の一環として、また広島県体育協会主催の「ジュニア育成事業」の一環として、トップチームの選手や育成コーチングスタッフ含めた全スタッフが広島市内を中心に県内の小学校訪問を行っている。2006年から本格的に開始し、1年間で平均10校程度訪れている。2000年、ユースが天皇杯広島県予選にあたる全広島サッカー選手権大会で初優勝し、天皇杯に初出場。その後、2度出場したがすべて1回戦敗退している。2003年と2014年にジュニアユースがJFAプレミアカップ(旧ナイキプレミアカップ)優勝したことに伴いマンチェスター・ユナイテッド・プレミアカップに出場している。ユースは高円宮杯決勝進出の副賞として、2005年と2008年の2度にわたりドイツで開かれたSBCカップに出場している。高円宮杯決勝進出の副賞として、イタリアで開かれたクラウディオサッシ国際ユーストーナメントU-18大会に出場した。2年連続でフェアプレー賞を受賞した。なお、2012年はACチェゼーナのトップチームとも対戦、シモーネ・デル・ネロらに得点を奪われ0-6で敗戦している。2006年から広島県で行われている国際大会に出場している。創立当初から中国地方のユース年代では抜けた存在であったため、近隣になかなかいい対戦相手がいなかった。そのため1998年、中国サッカーリーグの前期日程(第1節-第8節)にオープン参加している。しかし、社会人リーグのリーグ編成および日程の関係から、この年だけで終わっている。ちなみに戦績は7勝1敗。森山佳郎が監督として率いた2003年・2004年の広島ユースは、2年連続でユース三冠(クラブユース選手権・高円宮杯・Jユースカップ)のうち二冠を達成し、"広島ユース黄金時代"と呼ばれた。これは2001年からクラブ全体が攻撃的なサッカーへの転換を模索しだしたこと、それに伴いチームとして質を上げるため2001年のみスカウト活動を積極的に行ったことにより入団した選手が高校2年・3年になる2003年・2004年に結果として現れたためである。前田俊介・高柳一誠・森脇良太・柏木陽介・槙野智章・平繁龍一ら、タレントがズラリ揃った2004年には、3大会とも決勝に進出した。レギュラー11人が全員プロ入りしたこのチームは強さと巧さを兼ね備え、なおかつ勝負強く、史上最強ではといわれる伝説のチームであった。ただ、最上級生に田坂祐介・西山貴永・田村祐基ら、そしてクラブ史上初のプロの高校生Jリーガーとなる高萩洋次郎が在籍した2003年のチームのほうが記録的には上で、公式戦でわずか2敗のみ(高円宮杯準決勝・静岡学園戦と2003年天皇杯1回戦対J2水戸ホーリーホック戦)しかしていない。高円宮杯はクラブユースと高体連つまり2種登録チームすべてが参加する唯一の大会であり、現在は高校年代サッカーの最高峰と位置づけられている。この大会において2010年代初頭に、第21回高円宮杯・2011年高円宮杯プレミア・2012年高円宮杯プレミアと3連覇を達成している。大会レギュレーション変更を挟むため参考記録ではあるが、2014年現在3連覇は清水市商高と広島ユースのみである。また高円宮杯プレミア2連覇は2014年現在で広島ユースのみである。なお2012年はトップチームがJ1リーグ制覇を達成しており、リーグ戦として“兄弟制覇”ということになる。以下、ミズノ時代は不明な点が多いため2011年以降の状況を記載する。海外も含めた男子女子の全国リーグ経験者のみ列挙。日本の場合は男子:Jリーグ・JFL、女子:なでしこリーグ所属経験者のみとし、海外の1部リーグ所属経験はあるが日本の全国リーグには所属経験のない選手も含む。育成所属経験のうち、Yはユース、JYはジュニアユース、Jrはジュニア、Sはスクールの略。提携スクールのうち、くにびきは「く」、びんごは「び」、みろくの里は「み」、常石は「常」と略記。五十音順表記。サンフレッチェ広島F.Cの選手一覧もあわせて参照。
出典:wikipedia
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