遣支艦隊(けんしかんたい)は、旧日本海軍の部隊。上海に駐留していた第7戦隊(巡洋艦「千歳」、砲艦「宇治」「鳥羽」「伏見」「隅田」「嵯峨」)を1918年8月10日に改編し、初めて名乗った。この部隊は翌年の1919年8月9日に「第一遣外艦隊」へ改名し、上海駐留を継続している。その後、1939年11月15日に支那方面艦隊隷下の3個艦隊が第一、第二、第三遣支艦隊を名乗り、太平洋戦争の推移に合わせて規模を縮小しつつも中国大陸で作戦行動を継続した。本稿では、この支那方面艦隊隷下の3個遣支艦隊について述べる。1932年2月2日に編制した第三艦隊を改称し、引き続き上海を拠点に揚子江流域で行動した。主な戦力は武漢に駐留する陸戦隊の漢口方面特別根拠地隊と、揚子江の航路確保のために全ての砲艦を集約した第11戦隊である。これに九江や南京に駐留する若干の陸上部隊が加わる。1942年1月15日に漢口特根が縮小のうえ警備隊に降格したことを受け、1943年8月20日、艦隊全体が揚子江方面特別根拠地隊に降格した。任務の性格は降格前と変わりなく、陸上部隊は武漢・南京・九江など拠点の駐留、砲艦は揚子江の航路確保に従事した。末期にはほとんどの砲艦を喪失したものの、揚子江特根は終戦まで陸上での戦闘を継続した。1938年2月1日に編制した第五艦隊を改称し、引き続き広州を拠点に華南方面で行動した。南シナ海に面する海域を担当するため、水上勢力は1個水雷戦隊に匹敵する。ただし、太平洋戦争に備えて、鳥海は五十鈴、駆逐隊は砲艦や掃海艇に差し替えられている。一方の陸上戦力は3個特別根拠地隊を備えている。このうち海南島特別根拠地隊は1941年4月10日に警備府へ昇格し、艦隊から独立している。開戦直後に香港を占領したことから、広東特根は香港に移転し、以後は香港に艦隊司令部を置いて敗戦まで統率した。ほとんどの水上艦を敗戦までに失ったが、陸上部隊は香港・厦門を中心に各地で敢闘し、降伏調印まで艦隊を維持した。1937年10月20日に編制した第四艦隊を改称し、青島を拠点に華北方面で行動した。改称した頃には水上艦作戦がすでに一段落していたため、水上艦部隊は必要最小限に抑えられている。翌年には瑞穂も連合艦隊に回され、旗艦は磐手に交代している。一方の陸上戦力は青島特根が単独で山東半島の哨戒任務を担当している。1942年1月15日、南方攻略作戦に必要な陸戦隊を捻出するため、青島特根は警備隊に降格となった。これを受けて、第三遣支艦隊が1942年4月10日をもって解散し、保有していた陸上戦力を集約して二代目の青島特根となった。青島特根も降伏調印までの全期間、山東方面各地で敢闘した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。