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明石全登

明石 全登/景盛/守重(あかし たけのり/かげもり/もりしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。諱は複数伝わり、定かではないが、「明石全登」の名が一番有名。全登は法号で「ぜんとう」と読むとする説もある。通称は掃部(かもん)で、明石掃部とも言う。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンであった。備前保木城主の明石行雄(景親)の子として生まれた。生年を知る確実な史料は存在しないが、小川博毅は永禄12年前後に保木城で生まれた可能性が高いとする。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)であり、銅山経営者、技術統率者の側面を持つ一族である。行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、天正3年(1575年)9月の浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家に帰属することになった。行雄は弟の景行と共に、直家とその子の秀家に仕えて天正16年(1588年)に諸大夫(従五位下)、4万石の知行までになった。行雄の嫡子・全登も行雄が存命中の文禄5年(1597年)4月以前にその跡を継いで、和気郡(現備前市吉永町)大俣城(大股城)の城主・家老となったが、領国経営には携わっていない。慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。当初、3万3,110石の知行だったが、秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。慶長5年(1600年)、徳川家康と対立していた石田三成が挙兵すると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、石田方の西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢1万7,000のうちの8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂城へ退くように進言し、殿軍を務めた。西軍敗走の際に黒田長政に遭遇したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に三成、秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。宇喜多氏が没落し浪人となった全登は、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれている。中でも、如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が全登を匿ったとされている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると信仰上の問題で豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。その後の消息は不明である。『徳川実記』『土屋知貞私記』『石川家中留書』など徳川方の複数の家伝が全登はこの戦いで討ち取られたとし、『大坂御陣覚書』『大坂記』は水野勝成家臣の汀三右衛門が首を獲ったとし、『石川家中留書』では石川忠総がその手で討ち取り、全登が豊臣秀頼から賜った吉光の短刀も分捕ったとする。このように幾つかの史料は戦死説をとるが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、『大村家譜』『山本豊久私記』など幾つかは嫡子内記と共に九州に、また『戸川家譜』『武家事紀』には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あって判然としない。もし南蛮へ渡ったとすればイエズス会文書などで特筆されるはずだが、全登の消息は記されていない事から南蛮逃亡説は空想の産物であろうとされている。ただ、小川博毅氏によれば、これら日本各地にある明石全登(掃部)の末裔を自称する家系が多々あるが、いずれも確証はなく、おそらく明石一族の誇りとして明石全登(掃部)の事跡が語り継がれているあいだに、これらの家では、いつのまにか、全登(掃部)が自家の先祖に祀り上げられていったとしている。

出典:wikipedia

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