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多坐弥志理都比古神社

多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)は、奈良県磯城郡田原本町にある神社である。式内社(名神大)で、近代社格制度による旧社格は県社。一般には多神社(おおじんじゃ)と呼ばれ、多社、多坐神社、太社、意富社とも書かれる。以下の4座の神を主祭神とする。このほかに、『古事記』を編纂した太安万侶も祀られている。当地は多氏の拠点であり、多氏の祖神である神八井耳命を祀ったものとみられる。『延喜式神名帳』には「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記されている。久安5年(1149年)に当社禰宜多朝臣常麻呂が国司に提出した『多神宮注進状』では以下の2座とし、また、社名より水火知男女神(みひしりひこひめのかみ)が『延喜式神名帳』の2座であるとも書かれている。元文2年(1737年)の『多大明神社記』では現在の四座になっているが、明治時代の『神社明細帳』では本殿の第一社・第四社は摂社の扱いとなっており、主祭神は神八井耳命・神沼河耳命の二座としている。社名の通りであれば弥志理都比古(みしりつひこ)を祀る神社ということになるが、これは神八井耳命のこととされる。神武天皇の長子でありながら弟に皇位を譲ったので、「身を退いた」という意味で「ミシリツヒコ」とも呼ばれる。古くは春日宮と称し、現在の社領地は約1万m²余を有するが、『大和志料』によると、天文21年(1552年)、当地の領主・十市遠勝より周囲6町四方の土地(約42万m²)を寄進されたとあり、四方に鳥居があったという。記紀神話には、「神八井耳命は皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭る」とあり、それが当社の始まりであるとしている。綏靖天皇2年(紀元前580年)、神八井耳命は春日県(後の十市県)に邸宅を造り、そこに神籬磐境を立てて自ら神祇を司り、春日県主の遠祖・大日諸神を祭祀者として奉祀せしめた。崇神天皇7年(紀元前91年)、その神祠を改造し、天津日瓊玉命・天璽鏡劔神を祈賽したと伝える。『正倉院文書』の天平2年(730年)大和国正税帳に「太神戸稲壱萬伍伯伍拾弐束伍把 租壱伯参拾捌束肆把 合壱萬陸伯玖拾束玖把」と記され、太(多)神社の神戸が有する稲は、田租用の138束4把と合わせて1万690束9把という、他社と比べて大きな経済力を持っていた。『延喜式神名帳』では「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。永治元年(1141年)の『多神宮注進状草案』では神階正一位となっており、「正一位勲一等多大明神」の扁額が一ノ鳥居に掲げられていた。明治時代に多村の郷社に列格し、大正12年(1923年)に県社に昇格した。本殿は春日造で東西に1間社が4棟並んでおり、奈良県指定文化財に指定されている。本殿の後方に「神武塚」と呼ばれる小丘があり、古代の祭祀場もしくは古墳と考えられている。境内社として能野神社・住吉神社・春日神社・石上神社・竈神社・八幡神社がある。境外摂社として以下の神社があり、どれも式内社である。『五郡神社記』では本社二座と下記の四皇子神をもって「意富六所神社」と称している。昭和47年(1972年)、当社裏の飛鳥川築堤工事中、境内より縄文時代から古墳時代の遺跡(多遺跡)が発見された。祭礼は4月第3日曜日で、大連座(おおれんぞ:大和で祭りのことをレンゾと言う)と呼ばれる。旧暦使用の時代では春分の頃、祭礼を行っていたという。

出典:wikipedia

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