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土井利勝

土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代の武将・政治家。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。 元亀4年(1573年)3月18日、水野信元の三男(末子)として生まれ、兄に十郎三郎、甚左衛門(茂尾平兵衛)がおり、徳川家康の母方の従弟にあたる。系図には徳川家家臣・土井利昌(小左衛門正利)の子と記載されている。天正3年(1575年)に父信元が佐久間信盛の讒言で武田勝頼の武将の秋山信友と内通・兵糧を売った嫌疑の罪により、織田信長の命をうけた従兄家康に討たれた後、家康の計らいで利昌の養子になった。利昌には実子で長男の元政(甚三郎)がいたが、それを差し置いて利勝が家督を継いでいる。なお、利昌の実子とする場合は、遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれで、母は葉佐田則勝の娘という説もある。また、家康の落胤という説もある。井川春良が著した『視聴草』には、家康の隠し子であることが書かれている他、徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも説が紹介されている。この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩りに随行することを許されたり(土井家は三河譜代の家臣ではない)、破格の寵愛を受けていたためである。また当時、家康は正室の築山殿との仲が冷え切っており、そのために築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれたという可能性も否定できないところがある。森銑三は、父とされる信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している。天正3年12月(1576年1月)、父・信元が佐久間信盛の讒言により秋山信友との内通を信長に疑われ、三河大樹寺(岡崎市鴨田町字広元)において信長の命を受けた従兄の家康配下の平岩親吉によって殺害されると、家康の庇護を受け土井利昌の養子となった。天正7年(1579年)4月に徳川秀忠が生まれると、7歳にして安藤重信や青山忠成と共に秀忠の傅役を命じられた。役料は200俵である。天正19年(1591年)に相模国に領地1,000石を得る。慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの際には、利勝は秀忠に従って別働隊となり、江戸から中山道を通って西へ向かった。しかし信濃上田城の真田昌幸を攻めあぐみ、関ヶ原の決戦にはついに間に合わなかったものの、戦後に500石を加増されている。 慶長6年(1601年)に徒頭に任じられ、慶長7年(1602年)12月28日に1万石を領して諸侯に列し、下総国小見川藩主となった。慶長9年(1604年)、李氏朝鮮より正使・呂祐吉以下の使節が来日するとその事務を総括した。慶長10年(1605年)4月、秀忠が上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられると、随行していた利勝も4月29日に従五位下・大炊頭に叙位・任官し、以後は秀忠の側近としての地位を固めていった。 慶長13年(1608年)には浄土宗と日蓮宗の論争(慶長宗論)に裁断を下して政治的手腕を見せ、慶長15年(1610年)1月、下総国佐倉3万2,000石に加増移封となった。10月に本多忠勝が死去すると、家康の命令により12月1日に秀忠付の老中に任じられた。慶長17年(1612年)に4万5,000石に加増される。慶長20年(1615年)、大坂の陣が起こると、利勝は秀忠付として従軍し、豊臣氏滅亡後、秀忠より猿毛柄の槍を贈られ、さらに6万2,500石に所領を加増された。夏には青山忠俊、酒井忠世と共に徳川家光の傅役を命じられた。元和2年(1616年)、秀忠の名で一国一城令と武家諸法度(13条)を制定した。これにより戦国時代は完全に終わりを告げ、諸大名は幕藩体制に組み込まれることとなった。4月に家康が死去すると、久能山に葬られる際には利勝がその一切の事務を総括した。元和4年(1618年)、黒坂藩主の関一政が改易されたため、一政の弟・関盛吉を食客とした。元和8年(1622年)、家康の側近として辣腕を振るった本多正純が失脚した。背景に利勝の策動を指摘する声もある。正純の失脚によって、利勝は「名実ともに幕府の最高権力者」となった。元和9年(1623年)、秀忠は将軍職を家光に譲った。将軍交代の際には側近も変わるのが通常であったが、利勝はこの後も青山忠俊、酒井忠世と共に家光を助け、幕政に辣腕を振るっていく。寛永2年(1625年)に14万2,000石に加増された。寛永10年(1633年)4月7日、下総国古河16万石に加増移封される。寛永12年(1635年)、武家諸法度に参勤交代を組み込むなど19条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定した。政権が家光に移ってほどなく、徳川忠長と加藤忠広が改易されたが、家光と内密に謀を巡らせた利勝がわざと家光との不仲を装い、謀反の旨をつづった文を諸大名に回したところ、他の諸大名はこれを即座に家光に提出したが忠広と忠長だけは提出しなかったことが改易の契機になったという話がある。なお、利勝の妹が忠長の乳母であったという説もあり、乳母コネクションを重視する作家永井路子は、忠長派と見なされてもやむをえない立場にあった利勝と家光との間に一種の暗闘と妥協があったと見ており(「異議あり日本史」)、この事件後に利勝は徐々に政治の実権から遠ざかったとしている。寛永13年(1636年)、それまでの永楽通宝など明銭に頼っていた通貨制度を一新し、寛永通宝の鋳造を柱とする新通貨制度を制定した。寛永通宝は明治時代の中頃まで流通していたという。寛永14年(1637年)頃から中風を病むようになり、病気を理由に老中辞任を申し出るが、家光より慰留されて撤回する。寛永15年(1638年)11月7日、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となり、事実上の名誉職のみの立場となった。寛永21年(1644年)6月に病床に臥し、将軍代参の見舞いを受けるなどしたが7月10日に死去。享年72。後を長男の利隆が継いだ。利勝と同じく、江戸時代初期に幕僚として活躍した人物には優れた人物が大勢いたが、なかんずく、利勝は公正さを重んじ、人柄と資質については抜きん出ていたと評される。その言行には模範、教訓となるようなものが多かった。家康の落胤といわれる利勝であるが、利勝自身は落胤と噂される事を大変嫌っていたと伝わる。

出典:wikipedia

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