玉里島津家(たまざとしまづけ)は、島津氏の近代における分家の一つ。単に玉里家とも呼ばれる。島津久光は当初、島津氏の分家の一つ重富家を相続していたが、長男・茂久(後の忠義)が兄・斉彬の後嗣となった際、後見役を務めるため、重富家を四男の忠鑑(珍彦)に譲り本家に復帰した。明治2年(1869年)、明治維新の功績により賞典禄10万石を賜り、明治4年(1871年)9月には再分家した。これが玉里島津家である。明治17年(1884年)7月、久光は功績により公爵位を授与され、島津氏は一族から複数の公爵家を出した数少ない例となった(他は徳川氏の徳川将軍家と水戸徳川家及び徳川慶喜家である)。久光には他にも多くの息子がおり、はじめ六男の忠経を玉里家の後嗣としていたが、久光の叙爵以前に早世したため、七男の忠済が玉里家を継いだ。また、五男の忠欽は今和泉島津家の婿養子となっていたが、久光と同じように、息子の一人に今和泉家を継がせ、自身は玉里家の籍に移ったのち、男爵位を授与されて分家を興した。島津久光が再分家後、鹿児島郡下伊敷村字紙屋谷の玉里邸に移住したことが家名の由来である。玉里邸は天保6年(1835年)に島津斉興が建築した島津家の別邸であった。現在、屋敷跡地には鹿児島市立鹿児島女子高等学校が建てられている。久光は学術肌の人物で、政界を引退後は島津家に伝わる大量の文書の収集・整理にいそしんだ。それらの文書は現在「玉里島津家文書」と呼ばれ、鹿児島大学及び鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄託されており、島津家文書と並んで島津氏及び武家社会の研究に必須の文献となっている。久光は玉里家を建てたときに重富家累代の秘宝をすべて持参し、玉里家を相続した忠済に譲ったため、重富家を相続した珍彦との間には確執があったと言われる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。