津田 信澄(つだ のぶすみ)は、安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。近江大溝城主。摂津大坂城代。弘治元年(1555年)、織田信行(信勝)の嫡男として生まれる。弘治3年(1557年)、父が謀反の企てを起こしたとして伯父の織田信長によって暗殺されるが、幼少の信澄は祖母の土田御前(信長と信行の生母)の助命嘆願もあって、信長の命令により柴田勝家の許で養育された。このこともあって、織田氏を名乗らず津田氏を称したともいわれる。永禄7年(1564年)正月に元服したといわれるが、これは誤りで実際は天正初期に元服したとも伝わる。天正2年(1574年)2月3日朝に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に出席している。3月に信長が東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る奉行を務めた。天正3年(1575年)7月の越前一向一揆征伐に従軍、初陣した。10月27日に公家の吉田兼見が信長に礼参した際、信澄が進物を披露している。天正4年(1576年)1月14日、信澄は高島郡より上洛した事が確認されるため、これより以前に信長より近江国に所領を与えられていたと確認されている。同年には明智光秀の丹波攻めに援軍として参加している。天正6年(1578年)2月3日、浅井氏旧臣で高島郡を任されていた磯野員昌が織田家より出奔したため、員昌の養子として高島郡の所領を加増され、また同時期に明智光秀の娘と結婚した。4月4日、従兄の織田信忠に従い石山本願寺攻めに従軍。10月から翌年11月までの荒木村重討伐にも従軍している。この荒木征伐で開城した摂津伊丹城には信澄が入り、村重の正室ら一族37名を捕えて京都に護送した。また天正6年(1578年)8月15日の安土における相撲興行では堀秀政、蒲生氏郷、青地与右衛門らと共に奉行を務めた。天正9年(1581年)10月、伊賀が平定された際に織田信忠と共に信長に同道したが、この際に信長に大和を知行する事を望んで信長から諌められたと伝わる。天正10年(1582年)春、土佐国の長宗我部元親と信長の関係が悪化し、信長は三男の神戸信孝を総大将に丹羽長秀、蜂屋頼隆、そして信澄を副将に付けて四国に渡海させる計画を立て、信澄は大坂城に駐留する。そして京都から堺に向かう徳川家康の接待役を丹羽長秀と共に命じられる。天正10年(1582年)6月2日、舅の光秀が京都にいた信長を襲撃して殺害した(本能寺の変)。信澄は光秀の娘婿であった事が災いし、6月5日に信孝と長秀により襲撃され、野田城で信孝の家臣・峰竹右衛門、山路段左衛門、上田重安によって殺害され、首級は信孝の命令で堺で晒された。享年28。信澄の嫡子・昌澄は一時期信澄に仕えていた藤堂高虎の斡旋を受けて豊臣秀吉、そしてその死後は豊臣秀頼に仕えた。大坂の陣では高虎と戦い勇名を馳せるが、戦後に責任をとって自害を図ろうとするも高虎や徳川秀忠から慰留され、交代寄合の旗本として2,000石を与えられて子孫は幕末まで続いた。信澄は信長の側近としての役割も果たし、安土城の造営においては総普請奉行である丹羽長秀と共に普請奉行として工事に携わるなど、織田一門の中では叔父の織田信包と共に信長から信任されて特別扱いされていた。織田家では信長の息子である信忠、信雄、信孝や信長の弟の信包に次いでその待遇は厚かったという。京都御馬揃えの際にも一門衆(御連枝衆)の参加者で信澄は5番目に名前が挙がっており、第5位の序列にあった事が窺える。また、織田氏は一族傍流が非常に多く、信長の年長の実子であっても信正のように冷遇された者もいる中(信正については実在を疑問視する説もある)、2度も信長に背いた弟の遺児が厚遇されているのは、破格の待遇といえた。『信長公記』に名前が登場する回数では一門衆で信長、信忠、信雄に次いで多い。これは作者の太田牛一が右筆として仕えた丹羽長秀と相役を命じられることが多かった事情と無関係ではないように思われる(宿将衆では長秀の記述がかなり多い)。対して、信澄を殺害した信孝についての記述は、一門衆が勢揃いする場面以外ではほとんどない。宣教師のルイス・フロイスは信澄の死去にあたり「この若者は異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」と評している。逆に奈良興福寺の多聞院英俊は「一段の逸物也」とその死を惜しんで高い評価を与えているなど、信澄は武将としての評価が極端に分かれている。
出典:wikipedia
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