藤原歌劇団(ふじわらかげきだん)は、藤原義江が創設した、日本のオペラ・カンパニーである。1934年(昭和9年)創設、2009年(平成21年)に創立75年を迎えた日本最古かつ本格的な国産オペラ団体として、日本初演を含む80作品近くのオペラを上演。初代総監督・藤原義江は38年間同歌劇団を統率した。1981年(昭和56年)、日本オペラ協会と合併統合して財団法人日本オペラ振興会となる。「藤原歌劇団」の名称は西洋オペラの公演事業名としてのみ残されている。1934年(昭和9年)6月、藤原義江は日比谷公会堂にてプッチーニ『ラ・ボエーム』(原語上演とみられるが、異説あり)の公演を行う。「東京オペラ・カムパニー公演」と銘打ってのものだが、これが藤原歌劇団の出発点となる。大倉喜七郎などパトロンの援助も空しく興行的には実入りはなかった模様だが、(素人同然のコーラスを除けば)音楽的には評論家から賛辞一色が呈された。その後同カムパニー名義でビゼー『カルメン』、ヴェルディ『リゴレット』(マッダレーナ役で後の大女優、杉村春子が出演している)、プッチーニ『トスカ』などで着実に舞台を重ねる。藤原は主役を務めるばかりでなく、演出や装置、衣装まで手がけたし、訳詞上演の際には妻あき子がしばしば(柳園子の筆名で)参画している。「藤原歌劇団」と銘打っての旗揚公演は1939年(昭和14年)3月26日から歌舞伎座で行われた『カルメン』であり、大成功を博した。その後同年11月には『椿姫』と『リゴレット』の交替上演(欧米の歌劇場では常識の、いわゆるレパートリー上演)を成功させ、指揮者としてはマンフレート・グルリットを得、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)11月にはヴァーグナー『ローエングリン』でも題名役を歌うなど、藤原歌劇団は日本で最も高品質のオペラを上演できるカンパニー、そして藤原義江はその一枚看板としての地位を固めていった。しかしこれら公演も興行的には必ずしも満足できるものではなく、藤原は自宅のピアノを売却するなどの苦労もあった。藤原歌劇団は、敗戦後半年も経ない1946年(昭和21年)1月、帝国劇場で『椿姫』舞台公演を再開する。同年秋には東京音楽学校の内紛により教授を辞した木下保(テノール)が歌劇団に参加し、ここまで10年超にわたり全ての演目の主役テノールを藤原義江が務めるという状態からはようやく解放されたが、藤原が出演しないと途端にチケット売行きが落ちたという。1950年(昭和25年)には東京・赤坂にオーケストラ付の立稽古も可能な「歌劇研究所」を建設(三井高公の資金援助による)。研究所には一時近衛秀麿のABC交響楽団も練習場を置いていた。1952年(昭和27年)にNHKの依頼を受け、外国音楽家招聘のため渡米した藤原は、ニューヨーク・シティ・オペラに長らく日本で活動していた旧知のジョゼフ・ローゼンストックを訪ねる。藤原は同歌劇場での『蝶々夫人』の上演レベルのあまりの低さに立腹、日本人役をすべて日本人歌手が歌う公演をしてはどうか、と提案する。歌劇団の20名が参加したこの公演は、三宅春恵(ソプラノ)の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価を得たが、藤原の交渉能力の低さから歌劇団には莫大な資金負担となってしまった(藤原は高松宮宣仁親王の口利きで日本興業銀行から100万円(200万円とも)を融通してもらい、後には棒引きしてもらったという)。1976年(昭和51年)3月22日、初代総監督の藤原義江が死去。藤原の逝去後、2代目総監督にはバス・バリトン歌手であった下八川圭祐が就任し、1978年(昭和53年)から1984年(昭和59年)まで製作を担当。新進気鋭の演出家、粟國安彦を起用した数々の公演で新時代を築く。3代目総監督は五十嵐喜芳。外来アーティストを積極的に招聘し国際レベルの舞台を実現、1986年(昭和61年)からは、日本で初めて字幕を導入するなど新風を吹き込んだ。同年、モービル音楽賞受賞。五十嵐喜芳の新国立劇場芸術監督就任に伴い、1999年(平成11年)から日本オペラ振興会常任理事の下八川共祐が製作を担当。2003年(平成15年)9月より、バス歌手である岡山廣幸が公演監督に就任。
出典:wikipedia
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