ボンネビルレコード ("Bonneville Record") は日本の競走馬。2007年の帝王賞、2008年のかしわ記念を制した。馬名はアメリカ合衆国ユタ州のサーキット名(ボンネビル・スピードウェイ)+記録(レコード)から。当初は南関東公営競馬の大井競馬場に所属。2歳となった2004年10月16日の大井競馬場でデビュー戦を勝利するも、その後は2着3着を重ね1勝止まりのまま翌2005年の南関東三冠競走へ。羽田盃5着、東京ダービー4着、ジャパンダートダービー3着と健闘するものの勝ち切れず、その次の黒潮盃(大井競馬場)で10ヶ月振りの2勝目を挙げると古馬相手の東京記念、勝島賞(大井)と3連勝したが年末の東京大賞典は7着。古馬となった2006年は5戦目のサンタアニタトロフィーを勝利し、JBCクラシックは3着と好走した。2007年は2戦目の金盃(大井。内田博幸騎乗)を勝利すると中央競馬・美浦トレーニングセンターの堀井雅広厩舎に移籍した。移籍緒戦のエイプリルステークス(中山競馬場)は初の芝コースということもあり最下位8着に敗れたが、その後武豊騎手に乗り替わったかしわ記念ではブルーコンコルドの4着、ブリリアントステークス(東京競馬場)3着を経て迎えた帝王賞では中央所属馬ながら大井所属時代の主戦騎手であった的場文男を迎え単勝5番人気であったが、向正面6番手から第3、第4コーナーでロスなく内を突く的場の好騎乗で残り100mでブルーコンコルドを交わして快勝した。ダートグレード競走初勝利を挙げ休養に入った。帰厩後は日本テレビ盃に出走を予定していたが、馬インフルエンザの影響で交流競走でなくなったために、10月28日に行われる第136回天皇賞(秋)と10月31日に行われる第7回JBCクラシックに出走登録を行ったが、JBCクラシックは登録時点で補欠馬となったため、天皇賞(秋)に出走した。しかしレースでは芝のスピードについては行けず、加えてマツリダゴッホと接触する不利も重なり見せ場なく、大きく離れた最下位16着に敗れた。続く第8回ジャパンカップダートでも見せ場なく14着に敗れた。しかし続く師走ステークスでは5着に、名古屋グランプリでは4着と復活の気配を見せていた。2008年に入り、平安ステークスで6着の後、3月のダイオライト記念では、再び的場文男を迎えてのレースとなり、後方から追い上げてフリオーソの2着。続くマーチステークスでは12着と大敗するが、次のかしわ記念では鞍上が的場文男に戻り、レースでは道中中団から向正面から仕掛けて人気のワイルドワンダー、ブルーコンコルドを直線で外からまとめて差し切り、2007年帝王賞以来のJpnI勝利を達成。その後は帝王賞連覇を狙うが、再びフリオーソを交わすことができず2着に敗れる。秋初戦となった9月の日本テレビ盃では先行勢が刻む前代未聞のハイラップの中を中団から追走し、4コーナー先頭で粘りこみを図るフリオーソを直線でかわして優勝、フリオーソへの雪辱を果たした。また、走破時計の1分47秒8は船橋ダート1800メートルのレコードを21年ぶりに更新し、同じくダート1800メートルの日本レコードを樹立した(これ以前の記録は1997年にJRA京都競馬場で記録されたプレミアムサンダーの1分48秒4)。これで11月3日に園田競馬場で行われるJBCクラシックへの優先出走権を獲得したが、兵庫県競馬組合の規定により的場文男騎手が同競走に騎乗できないため、内田博幸に乗り替わりとなり6着であった。続くジャパンカップダートでも内田博幸とのコンビで臨んだが、11着に敗れた。続く東京大賞典では6着だった。2009年に入り、1月28日の川崎記念から始動したが、6着に終わった。その後、連覇をかけて5月5日のかしわ記念に出走したが4着に敗れ、連覇はならなかった。続く6月24日の帝王賞では3着と好走した。休養を挟んで9月23日の日本テレビ盃では最後の直線で馬場の外側から追い込んで3着に入るが、続く10月12日のマイルチャンピオンシップ南部杯では見せ場がなく12着と大敗した。12月6日のジャパンカップダートでは11着と2戦続けて2桁着順に終わった。続く12月29日の東京大賞典ではいいところなく6着に敗れ、この年は未勝利に終わった。2010年に入り、1月27日の川崎記念に出走。前年と同じく6着に終わり、28日に中央競馬の競走馬登録を29日付で抹消すると発表。大井競馬場へ再移籍した。再移籍後の初戦となった5月19日の大井記念では58kgの斤量で挑んだものの、セレンを捉えきれず、2馬身差の2着に敗れた。6月30日の帝王賞ではフリオーソの3着、7月28日のサンタアニタトロフィーはカキツバタロイヤルを捉えきれずアタマ差の2着、9月23日の日本テレビ盃では中団から追い上げるも5着、11月3日のJBCクラシックでは最後方追走から追い上げるも5着、12月1日の勝島王冠では2着、12月29日の東京大賞典では9着と善戦は続くが勝ちきれない競走が続いた。2011年に入り2月16日の金盃では8着、4月21日のブリリアントカップでは4着、5月25日の大井記念では6着であった。6月29日の帝王賞では4着となった。帝王賞には6年連続で出走となり、そのすべてで掲示板(5着以内)を確保しかつ1着から5着のすべての着順を得た。続くサンタアニタトロフィーは3着、東京記念は4着、JBCクラシックは7着、勝島王冠は7着と勝ちきれないでいた。2012年に入り東京スプリング盃と隅田川オープンでは共に6着であった。続くかしわ記念では見せ場なく8着に敗れた。5月23日の大井記念では4着となった。12月29日の東京大賞典9着を最後に引退することになった。引退後は大井競馬場で誘導馬になるべく調教中であったが、2013年の帝王賞で誘導馬デビューを果たしている。
出典:wikipedia
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