ダリル・ユージーン・ストロベリー(Darryl Eugene Strawberry, 1962年3月12日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の元プロ野球選手(外野手)。息子のは元NBA選手で、現在はトルコのターキッシュ・バスケットボール・リーグでプレイしている。クレンショー高校時代は「黒いテッド・ウィリアムズ」の異名を取り、後にシンシナティ・レッズ等でプレイするエリック・デイヴィスがライバルだった。のMLBドラフトで1巡目(全体1位)にニューヨーク・メッツから指名を受け入団。にAA級で34本塁打・97打点・100四球・45盗塁を記録。5月6日のレッズ戦でメジャーデビュー。前半戦は打率.202・8本塁打と振るわなかったが、後半戦で打率.294・18本塁打と調子を上げ、シーズン通算で打率.257・26本塁打・74打点を記録し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選出された。はオールスターゲームに初めて選出され、先発出場を果たした。シーズンでは26本塁打・97打点を記録した。同年ドワイト・グッデンがメジャーに昇格し、共にチームの顔となる。は5月に故障で離脱するが、6月に復帰。7月20日のアトランタ・ブレーブス戦で1試合7打点をマークするなど後半戦は打率.305・21本塁打・60打点を記録、シーズン通算で打率.277・29本塁打・79打点の成績だった。はオールスターゲーム前日のホームランダービーでウォーリー・ジョイナーと同点優勝。27本塁打・93打点を記録して、チームの地区優勝に貢献。ヒューストン・アストロズとのリーグチャンピオンシップシリーズではシリーズ記録となる12三振を喫するが、第5戦でノーラン・ライアンから本塁打を放つなど2本塁打を記録し、チームも4勝2敗でアストロズを下してリーグ制覇。ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズでは第7戦で本塁打を放ち、17年ぶりのワールドシリーズ優勝を果たした。は打率.284・39本塁打・104打点・36盗塁を記録し、30本塁打・30盗塁を達成。同年チームメイトのハワード・ジョンソンも36本塁打・32盗塁を記録し、史上初の同一シーズン同一チームから複数の達成者が誕生した。またかつてのライバル、デイヴィスも37本塁打・50盗塁で30-30を達成している。は打率.269・39本塁打・101打点・29盗塁を記録、最多本塁打のタイトルを獲得し、チームの2年ぶりの地区優勝の原動力となる。ロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズではチーム最多の6打点を記録するが3勝4敗で惜しくも敗退し、リーグ優勝はならなかった。MVPの投票ではカーク・ギブソンに次ぐ2位に入った。は不振で打率.225・29本塁打・67打点に終わる。は37本塁打・108打点と復活し、MVPの投票で3位に入る。1990年オフにフリーエージェントとなり、11月8日に故郷のドジャースと5年2,225万ドルで契約した。はチーム最多の28本塁打・99打点とまずまずの活躍を見せ、チームも地区優勝を争うが、ブレーブスと1ゲーム差の2位に終わる。オフにデイヴィスがトレードで加入しチームメイトとなるが、ここから故障等もあって成績が急落。は打率.237・5本塁打に留まり、チームも地区最下位に低迷。は打率.140・5本塁打に終わるなど期待を大きく裏切った。は5月26日に解雇された(後述)。1994年6月19日にサンフランシスコ・ジャイアンツと契約するが、打率.239・4本塁打に終わる。2月にコカイン使用が発覚して出場停止処分を受けたため、解雇された。は出場停止処分が明けた6月19日にニューヨーク・ヤンキースと契約する。同年は、3本塁打に終わりオフにFAとなる。は独立リーグのセントポール・セインツと契約を結んだ。シーズン途中に、退団した。1996年7月4日にヤンキースに復帰。メッツ時代のチームメイトで、やはりドラッグで堕ちたグッデンと再びチームメイトになる。63試合に出場して11本塁打・36打点と復活の兆しを見せ、チームの地区優勝に貢献。ボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、第4戦で2本塁打を放つなど打率.417・3本塁打の大活躍でオリオールズを4勝1敗で破り、リーグ優勝の立役者となった。ブレーブスとのワールドシリーズでは振るわなかったが、チームは4勝2敗で15年ぶりの世界一の栄冠を手にした。は故障のため11試合の出場に留まる。は24本塁打・57打点を記録。7年ぶりに20本塁打以上をマークして、114勝を挙げて独走で地区優勝を果たしたチームに貢献したが、10月1日に大腸ガンの診断を受け、手術。チームはサンディエゴ・パドレスを4連勝で下してワールドシリーズ優勝を果たすが、出場はならなかった。は4月3日にフロリダで逮捕され(後述)、出場停止処分を受ける。終盤の9月に復帰を果たし、打率.327・3本塁打を記録。ポストシーズンでも打率.333と存在感を見せ、チームはワールドシリーズでブレーブスを4連勝で下して連覇を達成。翌年1月に再びコカインの陽性反応を示したため1年間の出場停止処分を受け、そのまま引退となった。2006年8月19日にメッツの本拠地シェイ・スタジアムで試合前に行われた、1986年のワールドチャンピオンチームのリユニオンに登場し、ファンのスタンディング・オベーションを受けた。10月15日に行われたセントルイス・カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第2戦で始球式を行っている。以上がおおむね現役引退直後までに起こした問題であるが、この後も同種の事件を繰り返している。
出典:wikipedia
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