音素文字の歴史(おんそもじのれきし)は、文字の歴史のはじまりから千年以上も下った古代エジプトに始まる。紀元前2000年頃に、初めて独立した音素文字が出現した。これは、エジプトのセム人労働者が言語を表現するのに使ったもので、エジプトヒエログリフの表音的な部分から派生したものだった(ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字参照)。今日の音素文字のほとんどは、この文字体系の直系の末裔(たとえばギリシア文字、ラテン文字など)であるか、少なくともそれらのアルファベットに影響を受けて生まれて変化したものである。紀元前4千年紀後半までに不動の地位を確立した文字体系は、シュメール、アッカド、バビロニアの楔形文字とエジプトのヒエログリフ系文字くらいで、その地位を脅かすような文字体系はなかった。このふたつの文字体系は千年にわたって使われ続けた。楔形文字は各地にひろまったが、中でも特筆すべきは交易路を通じて地中海沿岸地域に伝わったものと、西方のユーフラテスに伝わったものである。紀元前3千年紀から紀元前2千年紀にかけて楔形文字はさまざまな言語に適応していったが、エジプト人らの表記体系が他の言語で使われることはなかったようである。この頃クレタではレヴァントの後期青銅器時代に入っており、線文字Aや線文字Bがおこっていた。紀元前2700年頃の古代エジプト人は、自身の言語の子音ひとつひとつを表せる22の文字をつくり出していた。そしてこれらは、紀元前23世紀には語頭や語末の母音をも表せるようになっていたらしい。これらの文字を、表語文字の読みを助けたり、文法的な屈折を表現するのに用いたほか、後には借用語や異邦の名前を音写するのにも用いた。この表記体系は音素文字の性格を帯びていたわけだが、音素文字だけで表記することはなかった。最初の独立した音素文字体系は、紀元前2000年前後にエジプト中部のセム人労働者がつくり出していたと考えられる。5世紀にわたってこれは北方へとひろまり、世界中のさまざまな音素文字がここから生じた。また、こうして生まれた文字体系のいずれかに影響を受けて生じたものもある。ただしメロエ文字は例外であるかもしれない。これは紀元前3世紀にヌビアのヒエログリフがエジプト南部で適応を遂げたものである。エジプト人は、ピクトグラムを、頭音法によってそれぞれの文字の表す語の最初の音を表すものとして用いた。このことが、音素文字の発展の第一歩となった。ただし、エジプト人達は、そのような文字を頭音による子音文字体系としてだけでなく、表意的あるいは音節的な用途にも用いていたので、この段階ではまだ音素文字が誕生していたとは言えない。しかし、ここでは、エジプト人の頭音法の原理が原シナイ文字や原カナン文字の碑文に影響を与えていると考えている。原シナイ文字と見られる碑文が、シナイ半島にあるトルコ石採掘共同体であったサラービート・ル・ハーディムで見つかっている。最初の記録は紀元前6世紀の探険家、アレキサンドリアのコスマスによるものである。考古学者のFlinders Petrie()は1905年、古代エジプト期のトルコ石採掘坑を発掘していた際に、サラービート・ル・ハーディムで、あるスフィンクス像を発見した。このスフィンクス像は現在では紀元前1500年頃のものと考えられている。スフィンクス像の片面に碑文があり、前脚の間からもういっぽうの面にかけては翻訳されたエジプトヒエログリフがある。これらの碑文を原シナイ文字としている。Petrieは、この文字資料に含まれる記号は30に満たないので、音素文字である可能性があると考えた。また、書かれている言語がセム語である可能性もあると考えた。この採掘坑地域ではカナン(現在のレバノンとイスラエルにあたる)から来たセム人がファラオの命によって作業に従事していた。1915年、エジプト学者のアラン・ガーディナー()は、原シナイ文字の記号と絵文字的なエジプトヒエログリフの間に類似性を認め、エジプト語での記号と同じ意味になるセム語で記号に呼び名をつけた。この名前はヘブライ文字の字の名前になる。ガーディナーの考えでは、紀元前2千年紀後半にはヘブライ人がカナンに住み付いていたのだから、類似がみられるのは当然であった。そしてガーディナーは、自身の仮定に基づいて碑文のひとつを翻訳した。この語は、母音を補って翻字するとバアラト (baʿalat) となる。バアラトは、シナイ地方での女神ハトホルのセム語での呼び名で、「女主人」を意味する。スフィンクス像につづいてイスラエルとレバノンでなされた発見によれば、音素文字を発明したのがフェニキア語やヘブライ語の祖にあたるを話していたとカナン人であったことがうかがえる。カナン人はクレタ人、ヒッタイト人、エジプト人、バビロニア人のそれぞれの帝国を行き来して交易をしていた。カナン人は既存の表記体系にとらわれずに、より速く書け、たやすく学べ、曖昧さのない文字体系を求めた。Andrew Robinsonは、証明はされていないもののありうることとして、カナン人が最初の音素文字を創造したと書いている。考古学者のJohn DarnellとDeborah Darnellは、エジプト西部の砂漠地帯の街道沿いで2つの碑文を発見した。これらの碑文は、表音的な文字で表記されているものとしては最初期のものである。文字の字形が表すものには、古代エジプト語とセム語を読める人々にとってはなじみ深いものも見られる。エジプトの青銅器時代中期の文字体系は、いまだ完全に解読されていない。とはいえ、これらの文字体系は、少なくとも部分的に(おそらく完全に)音素的な文字体系のようである。最古の例は、エジプト中部で見つかった紀元前1800年頃のグラフィティ(落書き)()である。このセム系文字は、エジプト語の子音記号にとどまらず、ほかのエジプトヒエログリフもいくつか採り入れていて、おそらく全部で30文字ほどになる。また、字にセム語の呼び名がついている。例を挙げると、ヒエログリフの"per"(エジプト語で「家」)が"bayt"(セム語で「家」)となっている。ただ、これでセム語を表記するときに、それぞれの字形が頭音法の原則によって呼び名の最初の子音だけを表す純粋に音素的な文字体系であったのか、または祖先のヒエログリフのように複数の子音の連なりやさらには語をも表すことがあったのか、については、はっきりしていない。例えば、「家」の字形で "b" だけを表していた("beyt"「家」の "b")のかもしれないし、子音 "b" と子音の連なり "byt" の両方を表せた(エジプト語でこの字形が "p" と "pr" の両方を表し得たように)のかもしれない。ともあれ、この文字体系からカナンの文字体系が派生する過程で、もっぱら音素だけを表すものとなり、もともと「家」を表していたヒエログリフが "b" だけを表すものとなった。原カナン文字のまとまった碑文がふたつ、エジプト南部にある王妃の谷の北方のワディ・エル・ホルで発見されている。これらの碑文に含まれる多くの字の形はエジプトの文字の形に非常に近いかまたはそっくりで、初期の子音文字体系とエジプトの表記体系とのつながりにさらなる確証を与えるものである。Gordon J. Hamiltonによれば、これらの碑文は、音素文字発祥の地がまさにエジプトであるということを示す傍証にもなるという。シリアの北海岸のウガリト(現在のラス・シャムラ)の地で、原シナイ文字の時代の後の紀元前14世紀頃には音素文字が存在していたというたしかな証拠が見付かっている。ここで発見されたバビロニアの粘土板には、一千を超す楔形文字の記号が刻まれている。この記号はバビロニア語のものではなく、文字の異なりはわずか30である。およそ12の粘土板には、記号の一覧がある順序で刻まれており、この記号の順序はアラム文字、フェニキア文字、アラビア文字、ヘブライ文字で伝統的に行われていたものとほぼ一致するフェニキア文字は、早くも紀元前15世紀にはビブロス (Byblos) で使われていたが、22の字から成っており、母音を表記しなかった。フェニキア文字は北セム文字から発展したもので、字の形だけが変化している。フェニキア文字はフェニキア商人の手によって急速にひろまり、地中海沿岸地域にまで達した。時を経て、フェニキア文字からは主要な3つの音素文字が生まれる。ギリシア文字、ヘブライ文字、アラビア文字である。この原カナン文字は、エジブト語の原型と同様、子音のみを表記する"アブジャド"と呼ばれる文字体系である。これまでに使われたことのある音素文字のほとんど全てが、その起源をたどるとフェニキア文字(カナン文字の初期の形態)に行き着く。アラム文字は、紀元前7世紀にフェニキア文字から発展してきたもので、ペルシア帝国の公用の文字体系ともなった。これは、近東からアジアにかけて使われている現代の音素文字ほとんど全ての祖であるようだ。古代のある時期に、ギリシア人らはフェニキア人の文字体系を借用して自身のものとした。フェニキア文字をギリシアにもたらした功績はしばしばフェニキア人のカドモスに帰せられ、また、ギリシア文字はフェニキア文字の影響で生まれたものであるため、Phoenicia.orgによれば、フェニキア文字は西洋のあらゆる音素文字の祖であるという。フェニキアに暮らすギリシア人らが文字を借用し、ギリシアで使われるようになったというのは、ありうることである。ギリシア文字の字はフェニキア文字と同じ呼び名を持ち、両者の順序も同じである。しかし、ギリシア人はこの文字体系をアルファベットに変えた。ギリシア語はインド・ヨーロッパ語族に属し、セム諸語(アラビア語、フェニキア語、ヘブライ語など)とくらべると、母音により重きを置くからである。このアルファベットでは、いくらか異なる2種の変種が発展した。ひとつは西ギリシア型アルファベットないしはカルキス文字()と呼ばれるもので、アテネより西とイタリア南部で使われた。もうひとつの変種は東ギリシア型アルファベット()と呼ばれるもので、現在のトルコで、またアテネで使われ、ついには他のギリシア語を話すすべての地域でこの変種が使われるようになった。もともとの文字は右から左へ書く横書きであったが、ギリシア人らは左から右に文字を書くようになり、右から左に書いていたフェニキア人らとは逆になった。フェニキア文字は、アラム文字のほかに、ギリシア文字やティフナグ文字(ベルベル語の文字体系)をも生み出した。エジプト語、ベルベル語、セム語では、母音に独立した文字があるとかえって読みづらくなったことだろうが、ギリシア語は形態的に大きく異なっており、母音文字がないのは不都合だった。しかしこれは、単純な方法で解決された。フェニキア文字の字の呼び名は子音で始まっており、この子音がその字の表す音になった。だが、その中にはかなり有声音でギリシア人には発音できないようなものもあったから、若干の字の始めには母音をつけて発音するようになった。この体系の基礎である頭音法の原理によって、その文字は母音を表すものになったのである。たとえば、ギリシア人は声門閉鎖音や "h" 音を使えなかったので、フェニキア文字の "’alep" および "he" は、ギリシア文字のアルファおよび "e"(後にエプシロンと呼び名が変わる)となり、 および ではなく、 および の母音を表すことになった。これによって調達できた母音はギリシア語の12の母音のうち6個だけだったので、ギリシア人は次に二重音字を作ったり字を変形したりした。たとえば "ei"、"ou"、"o" のようなものである(最後のものはオメガとなった)。文字がないことに眼をつぶることにしたものもある。長音の "a
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