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皐月 (睦月型駆逐艦)

皐月(さつき)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。睦月型駆逐艦の5番艦である。艦名は旧暦の5月のこと。同名艦にロシアからの戦利艦である「皐月」があるため、こちらは「皐月 (2代)」や「皐月II」などとも表記される。竣工時の艦名は第二十七号駆逐艦。1923年(大正12年)度計画艦。1923年(大正12年)7月19日、藤永田造船所で建造予定の駆逐艦に「第二十七駆逐艦」の艦名が与えられる。同日附で駆逐艦として登録される。当初は大正14年2月末の竣工を目指していた。1923年(大正12年)12月1日に起工したが、これは1番艦から4番艦の起工日よりも早かった。1924年(大正13年)4月24日、艦名を「第二十七号駆逐艦」に改正。1925年(大正14年)3月25日に進水。4月20日、藤永田造船所内の第二十七号駆逐艦艤装員事務所は事務を開始する。同年11月15日に竣工。同日附で艤装員事務所を撤去。佐世保鎮守府に所属した。1928年(昭和3年)8月1日附で「第二十七号駆逐艦」は「皐月」と改名された。「皐月」に改名後、書類上の起工日は1924年(大正13年)12月1日に改められている(第三十四号駆逐艦→睦月型駆逐艦「夕月」も同様)。1940年(昭和15年)上旬、第22駆逐隊各艦は修理に従事、その後佐世保軍港の警備をおこなった。11月15日、第22駆逐隊司令として川内型軽巡洋艦1番艦「川内」副長杉野修一大佐(杉野は駆逐艦「時雨」初代艦長等を歴任)が着任。杉野司令の指揮下、第22駆逐隊は中国大陸沿岸部に進出し、日中戦争における封鎖作戦等に参加。作戦行動中、第22駆逐隊は第五水雷戦隊に編入される。1941年(昭和16年)12月8日以降の太平洋戦争緒戦時、睦月型駆逐艦4隻(皐月、文月、水無月、長月)は引続き第22駆逐隊を編制。同隊は第5駆逐隊(朝風、春風、松風、旗風)と共に第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将:旗艦「名取」)に所属していた。開戦以来、フィリピン攻略戦、ジャワ島攻略戦、バタビア沖海戦などに参加する。3月10日附で第五水雷戦隊は解隊。第22駆逐隊は引き続きジャワ海方面で船団護衛に従事する。1942年(昭和17年)4月10日、日本海軍は連合艦隊および南西方面艦隊に属する第一海上護衛隊(司令官井上保雄中将)を編成した。新編当初は、特設巡洋艦「浮島丸」、特設砲艦(華山丸、唐山丸、北京丸、長寿山丸、でりい丸)、旧式駆逐艦10隻(第13駆逐隊《若竹、呉竹、早苗》、第22駆逐隊《皐月、水無月、文月、長月》、第32駆逐隊《朝顔、芙蓉、刈萱》)、鴻型水雷艇2隻(鷺、隼)という戦力に過ぎなかった。最低限の護衛戦力だったが、編成当初(4月)は米軍潜水艦の活動も低調だったため、一隻の被害もなく実施された。5月以降、航行船舶の増加と共に海上護衛部隊の兵力不足が顕在化し、各艦は『フル回転』を強いられた。1コ船団当りの護衛艦艇は1隻程度(特別の場合に2-4隻)に過ぎなかったが、船舶の被害は少なかった。同年10月1日、睦月型3隻(睦月、如月、弥生)の喪失により、睦月型駆逐艦は卯月型駆逐艦と改定。10月12日、編成替えで卯月型姉妹艦「三日月」や峯風型駆逐艦2隻(汐風、帆風)等が第一海上護衛隊に編入されるが他に大きな変化はなく、多数の輸送船団に対し第一海上護衛隊の戦力不足は明らかだった。12月10日、第一海上護衛隊所属の各駆逐隊(第13駆逐隊、第22駆逐隊、第32駆逐隊)は解隊された。駆逐隊単位の行動機会がなくなって司令部が有名無実化し、指揮系統や手続きが煩雑化して作戦行動に悪影響があるため、現場(駆逐隊司令および各駆逐艦長)の意見具申によるものだったという。だが間もなく「皐月」は第一海上護衛隊から除かれた。1943年(昭和18年)1月20日、駆逐艦3隻(長月、皐月、文月)は南東方面艦隊の下令により第八艦隊(司令長官三川軍一中将)・外南洋部隊に編入。同月末からのガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加した。作戦は成功。ケ号作戦を終えた卯月型3隻(皐月、文月、長月)は、続いて中部ソロモン方面の輸送に従事した。2月12日-14日、駆逐艦2隻(皐月、文月)は運送艦「野島」を護衛してショートランド~コロンバンガラ島輸送を実施。さらに2月中旬以降の丙号輸送部隊(青島市~パラオ~ウェワク)に編入された。陸軍第41師団主力を青島から東部ニューギニアのウェワクへ輸送する作戦である。2月14日附で第一輸送隊(軽巡2隻《北上、大井》、讃岐丸、相良丸)に駆逐艦2隻(夕雲、風雲)、第二輸送隊(清澄丸、護国丸、愛国丸)に駆逐艦2隻(朝雲、五月雨)、第三輸送隊(聖川丸、靖国丸、浮島丸、磯波)に2隻(秋雲、長月)、第四輸送隊(壽山丸、新京丸、新玉丸、夕暮)に2隻(皐月、文月)が、各輸送隊の護衛艦に加えられた。この輸送作戦実施中の2月25日、卯月型4隻(皐月、水無月、文月、長月)で第22駆逐隊が再編制される。3月1日時点で第22駆逐隊は第8駆逐隊(朝潮、荒潮)、第11駆逐隊(初雪、白雪)、第19駆逐隊(浦波、敷波)と共に第三水雷戦隊(司令官木村昌福少将:旗艦「川内」)に所属していた。3月3日、ビスマルク海海戦で輸送船8隻と駆逐艦4隻(時津風、朝潮、荒潮、白雪)が沈没。3月5日にはビラ・スタンモーア夜戦で駆逐艦2隻(村雨、峯雲)が沈没。最前線の駆逐艦は次々に消耗していった。3月6日から12日まで、秋雲・風雲・夕雲・五月雨・皐月は輸送船団(桃山丸、安島丸、旺洋丸、阿蘇丸、帝龍丸、しどにい丸)のパラオ~ウェワク沖~ハンサ輸送を護衛した。目的地着後、2隻(秋雲、五月雨)は輸送船団と共にパラオへ回航(14日、B-17の空襲で桃山丸沈没、18日着)。3隻(風雲、夕雲、皐月)はラバウルへ向かい、14日に到着した。その後もラバウル方面で輸送任務などに従事した。3月31日、卯月型3隻(卯月、望月、三日月)で第30駆逐隊が再編される。翌4月1日、戦時編制の改定にともない南東方面艦隊・第八艦隊・第三水雷戦隊は軽巡「川内」、第11駆逐隊(初雪、天霧、夕霧)、第22駆逐隊、第30駆逐隊となった。この頃、連合艦隊は『い号作戦』を実施中だった。4月2日、第22駆逐隊(文月、長月、皐月、水無月)はフィンシュハーフェン輸送を企図しカビエンを出撃するが、米軍機の触接を受けたため輸送作戦を中止。4月3日早朝、カビエン西方で「文月」はB-17の爆撃をうけ機関室浸水。また同日の空襲でカビエン港停泊中の重巡洋艦「青葉」が大破・擱座した。「文月」は内地に回航され、しばらく戦線を離脱した。ラバウル周辺の制空権が失われる中、「皐月」は第三水雷戦隊僚艦と共に最前線での駆逐艦輸送に奔走した。5月28日午後4時、第22駆逐隊(長月、水無月、皐月)はコロンバンガラ島輸送のためブインを出撃したが、午後8時頃ブーゲンビル島南東沖合の暗礁で2隻(長月、皐月)とも座礁する。翌日朝までに離礁に成功したが「皐月」は修理が必要となり、ラバウルへ引き返した。損傷の程度は軽く、「皐月」は内地へ戻ることなく輸送任務に従事した。6月30日、米軍はレンドバ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いが始まる。増援部隊指揮官/第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将は秋月型駆逐艦5番艦「新月」を旗艦として水上戦闘に臨んだ。6月30-31日の突入作戦(新月、望月、皐月、夕凪)は視界不良のため何の戦果もなく、艦隊は反転帰投した。7月2日のレンドバ島突入作戦では、突撃隊(新月、天霧、初雪、長月、皐月、望月)と陽動隊(夕張、夕凪、三日月)という戦力だったが、米軍魚雷艇2隻を撃沈したのみで米艦隊は出現しなかった。「皐月」を含めてほぼ同編制で行われた7月4-5日のコロンバンガラ島緊急輸送作戦では、米軍駆逐艦1隻(ストロング)を撃沈したが、輸送作戦は失敗した。7月5日、陽炎型駆逐艦2隻(浜風、谷風)と白露型駆逐艦1隻(涼風)が新たに増援部隊(第三水雷戦隊)に加わった。秋山少将直率隊(新月、涼風、谷風)、第一次輸送隊(望月、三日月、浜風)、第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)という戦力で出撃。日本艦隊を迎撃するためウォルデン・L・エインズワース少将率いる米艦隊(巡洋艦3、駆逐艦4)が出撃し、夜間水上戦闘となる(クラ湾夜戦)。新月・涼風・谷風・天霧・望月等が米艦隊と交戦する中、22駆(長月、皐月)は揚陸地へ向かうも「長月」は座礁してしまう。座礁地点で「長月」搭載の物資兵員を揚陸後、「皐月」は「長月」曳航を試みたが失敗。「皐月」は午前4時以降作業を中止して本来の揚陸地へ向かい、その後「長月」を残してコロンバンガラ島を後にした。「長月」は昼間の空襲により損傷を受け、放棄される。さらに旗艦「新月」が沈没、全乗組員と秋山少将以下第三水雷戦隊司令部は総員戦死。他の駆逐艦も損傷した。米軍は軽巡「ヘレナ」が沈没した。7月8日、第22駆逐隊司令駆逐艦は「皐月」に変更された。秋山少将の戦死により増援部隊(第三水雷戦隊)は一時的に指揮官不在となり、そこで重巡洋艦「鳥海」艦長有賀幸作大佐が暫定的に指揮をとった(臨時の第八艦隊旗艦を駆逐艦「雪風」に指定)。7月9日17時、外南洋部隊指揮官は主隊(重巡鳥海、軽巡川内)、警戒隊(雪風、夕暮、谷風、浜風)、輸送隊(皐月、三日月、松風、夕凪)を率いてブインを出撃、コロンバンガラ島へ進出するが米艦隊は出現せず、陸兵1200名と物件85トンの輸送作戦自体は成功した。7月10日、戦死した秋山少将の後任として伊集院松治大佐(前職金剛艦長)が第三水雷戦隊司令官として着任し、軽巡「川内」に将旗を掲げた。新司令部の準備がととのうまでの間、第二水雷戦隊が増援部隊の指揮を担うことになる。7月12日、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将(旗艦「神通」)率いる増援部隊は再びコロンバンガラ島への輸送任務に従事。警戒隊(神通、清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)はラバウルを、輸送隊(皐月、水無月、夕凪、松風)はブインを出撃、合同してコロンバンガラ島へ向かう。同日23時、第二水雷戦隊はウォルデン・L・エインズワース少将が率いる米軍巡洋艦3・駆逐艦10隻と遭遇、夜間水上戦闘となる(コロンバンガラ島沖海戦)。米側は巡洋艦3隻が大破し駆逐艦1隻が沈没、日本側は「神通」が沈没し伊崎二水戦司令官以下第二水雷戦隊司令部は全滅した。陸兵1200名と物資20トンの輸送成功後、駆逐艦2隻(皐月、水無月)は神通遭難現場へ向かったが同艦を発見できず、帰投した。一連のクラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦で日本軍は米軍水上部隊に大打撃を与えたと判断し、コロンバンガラ島方面での敵艦隊撃滅と輸送作戦を行うことになった。第七戦隊司令官西村祥治少将を指揮官とし、主隊(熊野、鈴谷)、水雷戦隊(川内、皐月、水無月、雪風、浜風、清波、夕暮)、輸送隊(三日月、夕凪、松風)という戦力が集結、16日2200にラバウルを進出してブインへむかった。「初雪、望月」は西村艦隊に先行して16日夕刻にラバウルを出撃、17日午前5時にブインへ入港。「初雪」は「水無月」に、「望月」は「皐月」に横付けして物件・重油の移載をおこなう。だが7月17日朝、ブインは大型爆撃機19、戦爆約150機の大空襲を受ける。「初雪」は沈没、2隻(皐月、水無月)が小破、翌日にも空襲を受け「望月」が小破した。これを受けて西村艦隊は一旦ラバウルへ帰投、戦力を再編したのち18日に再出撃した。19日-20日、輸送作戦には成功したものの、夜間空襲により重巡「熊野」小破(魚雷命中)、駆逐艦2隻(清波、夕暮)被弾沈没という損害を受けてしまう。「皐月」を含め増援部隊艦艇は一時ラバウルに後退し、修理をおこなった。「皐月」修理中の7月27日、第30駆逐隊「三日月」及び第27駆逐隊「有明」はツルブ輸送を実施中に座礁して行動不能となり、28日の空襲で沈没した。第三水雷戦隊(川内、皐月、望月)は救援のためにラバウルを出撃するが、途中で反転し帰投。峯風型駆逐艦9番艦「秋風」が現場へ向かい、有明・三日月生存者を救助した。29日、卯月型2隻(望月、皐月)の応急修理が完成する。2隻はトラック泊地へ向かう重巡「熊野」を護衛してラバウルを後にした。最前線を奔走してきた第三水雷戦隊の駆逐艦は一旦内地へ帰投し、修理・整備をおこなった。「皐月」は呉工廠で整備。9月16日、「皐月」は再びラバウルに進出した。同時期、ニュージョージア島の戦いにおける日本軍の敗北は決定的となり、南東方面艦隊・第八艦隊・第八方面軍はコロンバンガラ島からの撤退作戦『セ号作戦』を準備中だった。この作戦に向けて駆逐艦を増強することになり、「皐月」以外にも駆逐艦複数隻(夕雲、秋雲、風雲、五月雨、水無月)が外南洋部隊に編入(再進出)、既に同方面で活動していた磯風・時雨等と合流した。9月28-30日、コロンバンガラ島第一次転進作戦が実施される。第三水雷戦隊司令官伊集院少将は「秋雲」に座乗、夜襲部隊(秋雲、磯風、風雲、夕雲、時雨、五月雨)、輸送隊(皐月、水無月、文月)、警戒隊(天霧)、陽動隊(松風)の計11隻で作戦に臨んだ。大発動艇部隊を率いていた種子島洋二少佐によれば、28日夜コロンバンガラ島北岸で人員2685名を収容した時の輸送隊陣形は「皐月-水無月-文月-天霧」であったという。輸送隊4隻は米軍魚雷艇・駆逐艦の襲撃を切り抜けて無事にチョイセル島スンビへ撤退した。10月1日の第二次転進作戦時襲撃部隊艦艇は、駆逐艦「五月雨(夜襲部隊)、夕凪(警戒隊)」が加わった以外は第一次作戦と同兵力だった。米軍も日本軍の撤収作戦に気付いて巡洋艦・駆逐艦・魚雷艇を投入し、襲撃部隊9隻と夜間水上戦闘になるが双方とも決定的な損害はなかった。輸送隊(皐月、水無月、文月)は人員移乗を開始したが、種子島少佐によれば、敵艦を気にするあまり1450名を乗せた時点で収容を打ち切り、舟艇3隻と621名を残して去ってしまったという。米艦隊や魚雷艇の襲撃により舟艇5隻が沈没。作戦全体で機動舟艇隊170名が戦死、撤収部隊は200名が戦死して約1万2000名が生還した。10月上旬、襲撃部隊(第三水雷戦隊)は再び各地への輸送任務に従事。10月24日、第30駆逐隊(卯月、望月)による輸送中に空襲を受け「望月」が沈没(乗員は卯月に救助)。翌日には「皐月」も海図にない暗礁に触れてスクリューを破損、安全速力16ノットとなった。そこでパラオを経由して佐世保へ戻り、修理に従事する。このため11月上旬のブーゲンビル島沖海戦には参加していない。12月前半は月明期のため駆逐艦輸送が出来ず、第三水雷戦隊各艦はトラック泊地へ後退して整備することになり、三水戦司令部は12月2日をもってラバウル陸上へ移動した。12月16日附で第三水雷戦隊司令官は伊集院少将から中川浩少将に交代。トラック泊地へ回航中艦艇のうち「夕張」は内地へ帰投し、その他駆逐艦は19日にラバウルへ帰着、また内地修理を終えた2隻(皐月、松風)もラバウルへ戻り、第十一航空艦隊所属の駆逐艦「太刀風」も第三水雷戦隊の指揮下に入った。しかし「卯月」は機関部に故障が見つかり、トラック泊地へ回航された。12月下旬も「皐月」以下各艦は輸送作戦に奔走する。幾度も空襲を受けながら「水無月」22日小破以外の損害を受けなかった理由について、三水戦の戦闘詳報には『各艦ガ仮称電波探知機ノ利用ニ概ネ慣熟シ被爆前蛇行運動機銃射撃等機先ヲ制シ得ルニ至レルニ由ル処大ナリト認ム』と記載されている。また当時の飯野忠男(皐月)艦長と長倉義春(文月)艦長は海軍兵学校の同期であり、互いに相談しながら作戦に従事していたという。その頃、大本営はラバウル方面の兵力を増強するため陸軍部隊を内地からカビエンへ輸送することになり、連合艦隊はこの輸送を『戊号輸送作戦』と命名した。同作戦支援のため第二航空戦隊(空母龍鳳、飛鷹)航空隊から零式艦上戦闘機36機がニューアイルランド島・カビエンへ派遣された。戊一号輸送部隊(戦艦《大和》、駆逐艦《谷風、山雲》)は12月25日トラック泊地着(到着時、米潜水艦スケートの雷撃により大和は小破)。作戦参加艦艇は「大和」より陸兵や物資を移載。戊三号輸送部隊第一部隊(重巡《熊野、鈴谷》、駆逐艦《谷風、満潮》)は12月31日カビエン着、物資を揚陸した。戊三号輸送部隊第二部隊(軽巡《能代、大淀》、駆逐艦《秋月、山雲》)は1944年(昭和19年)1月1日カビエンに到着して揚陸に成功したが、米37.2任務部隊の所属空母、バンカー・ヒルとモンテレー艦載機約85-100機の襲撃を受け、各艦にに若干の損傷があった。1944年(昭和19年)1月3日、第22駆逐隊(文月、皐月)は輸送隊掩護のためラバウルを出撃、カビエンへ向かった。1月4日午前1時、カビエン着。戊号二号輸送部隊(重巡《妙高、羽黒、利根》、駆逐艦《白露、藤波》)も同日0433カビエン着、午前6時には揚陸を終えてトラックへ向かった。22駆(文月、皐月)は午前7時前にはカビエンを出発、ラバウルへ向かう。この時、索敵中の陸上攻撃機がカビエン東約170浬に空母2隻、戦艦2隻、巡洋艦駆逐艦5隻の機動部隊を発見し、各方面に通達していた。37.2任務部隊の艦載機約80機は戊第二号輸送部隊を発見できず2隻(皐月、文月)に殺到する。友軍機の援護のないまま約20分間の対空戦闘を実施、爆撃や雷撃を全て回避したものの至近弾および機銃掃射により両艦死傷計40名以上を出し、撃墜15機(不確実6)を記録した。対空戦闘中、飯野忠男少佐(皐月艦長)は左足を砕かれる重傷を負う。軍医により切断処置を受けても艦橋で指揮を執っていたが、ラバウル帰投・入院後に死亡した。第八艦隊司令長官鮫島中将は、間接的に戊二号輸送部隊を護った駆逐艦2隻(文月、皐月)と乗組員の功績を全軍に対し布告した。南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は飯野艦長(当時生存中、翌朝死去)を見舞い、日本刀を授与している。1月前半は月明期のため輸送作戦は実施できず、各艦はトラック方面に移動を開始。損傷していた「皐月」も修理を兼ねて回航された。1月13日、輸送船「羽黒丸」が空襲を受け沈没、「皐月」は生存者を乗せてトラック泊地へ先行した。連合艦隊は1月15日附で第4駆逐隊(野分、舞風、山雲)を南東方面艦隊に編入、18日附で第7駆逐隊2隻(漣《1月14日沈没書類上在籍》、曙)を北方部隊(第五艦隊)に復帰させた。当時の南東方面部隊襲撃部隊は、一番隊(舞風、野分、山雲)、二番隊(文月、水無月、皐月、松風)、附属(夕張、天霧、夕月、秋風、夕凪)という戦力である。15日、皐月新艦長として杉山少佐が着任。1月19日、給糧艦「伊良湖」は、駆逐艦3隻(皐月、曙、潮)と、同艦および輸送船2隻(日昌丸、日蘭丸)の横須賀回航の日程・航路を各方面に発信する。「皐月」は「伊良湖」の警戒艦だった。1月20日、「皐月」は「伊良湖」を護衛してトラックを出発。だがその日のうちにトラック北方で米潜水艦「シードラゴン」に襲撃され、被雷した「伊良湖」は航行不能。「皐月」は爆雷攻撃をおこなう。救難のため白露型10番艦「涼風」(第24駆逐隊)が現場へ急行。さらに重巡洋艦「鳥海」等も救援にかけつけ、「伊良湖」は沈没を免れてトラック泊地へ向かった。なお「涼風」は1月25日になり、米潜水艦スキップジャックに撃沈された。「伊良湖」護衛に失敗した「皐月」はサイパンに回航。同地には米潜水艦「ハダック」の雷撃で損傷した大鷹型航空母艦2番艦「雲鷹」が停泊しており、「皐月」は「雲鷹」護衛任務を下令される。護衛艦艇は皐月・潮・曙・初霜であった。1月27日、雲鷹隊(雲鷹、皐月、潮、曙、初霜)はサイパンを出発。2月1日午前中、悪天候により危機に陥った雲鷹隊に、2隻(重巡高雄、駆逐艦玉波)が合流する。「皐月」を含め護衛艦は燃料不足におちいり、一旦横須賀に入港して燃料補給をおこなうと、再び雲鷹護衛任務に戻る。2月7日夜、「雲鷹」以下11隻に増強された雲鷹護衛隊は横須賀に到着した。任務を終えた「皐月」は横須賀から佐世保に移動し、2月11日より、第三水雷戦隊僚艦(卯月、夕凪)等と共に修理に従事する。2月中旬、米軍機動部隊艦載機によるトラック島空襲及び米潜水艦や戦艦部隊の襲撃により、艦艇多数(香取、阿賀野、那珂、文月、太刀風、舞風)等が沈没。姉妹艦「文月」の喪失により、第22駆逐隊は2隻(皐月、水無月)の2隻となった。4月上旬、船団部隊指揮官鶴岡信道少将(第三護衛船団司令官)の指揮下、護衛艦4隻(駆逐艦《皐月》、海防艦《満珠、笠戸、4号》)、加入船舶(清洋丸、阿蘇山丸、能登丸、東山丸、三池丸)で東松第五号船団が編成される。4月7日午前3時30分、東松第五号船団(旗艦「皐月」)は東京湾を出撃、パラオへ向かう。パラオ空襲の情報があったため4月10日父島に避泊。4月18日に再出撃し、24日11時30分パラオに到着した。「清洋丸」以外の各艦は4月26日パラオを出発。27日、「三池丸」が被雷沈没、2隻(阿蘇山丸、笠戸)も被雷損傷したためパラオに引き返す。米潜水艦トリガー("USS Trigger, SS-237")の戦果だった。船団はパラオに引き返し、28日に4隻(皐月、第4号海防艦、東山丸、能登丸)で出発、5月4日午後7時、東京湾に到着した。本艦が護衛作戦従事中の5月1日、第22駆逐隊に神風型駆逐艦9番艦「夕凪」が編入されて同隊は3隻(皐月、水無月、夕凪)となる。5月上旬、船団部隊指揮官鶴岡信道少将(第三護衛船団司令官)の指揮下、護衛艦3隻(駆逐艦《皐月》、海防艦3隻《天草、4号、6号》)、輸送船3隻(東山丸、能登丸、さんとす丸)で東松第八号船団が編成される。5月14日午前4時30分、鶴岡少将(旗艦「皐月」)指揮下の船団は館山を出撃。損害なく5月19日サイパン島到着。輸送船団司令部は「皐月」が護衛についた事について「とにかく護衛艦中に一隻でも駆逐艦を有するということは強味であった」と回想している。最大発揮速力17ノット前後の海防艦では、浮上航行時19ノットを発揮する米潜水艦に対抗できず、旧式駆逐艦や鴻型水雷艇は船団護衛にとって貴重な戦力となった。睦月型駆逐艦は護衛指揮官の乗艦としても適していたという。6月6日、第22駆逐隊僚艦「水無月」は米潜水艦ハーダー("USS Harder, SS-257")に撃沈され、第22駆逐隊は2隻となった。7月4日に父島で敵機の攻撃を受け至近弾により損傷、横須賀で修理。その後は内地とシンガポール間の船団護衛に従事した。7月上旬、マリアナ沖海戦に続くサイパンの戦いで、サイパン島の地上戦に巻き込まれた第三水雷戦隊司令部は全滅、第三水雷戦隊司令官中川浩少将も戦死した。そこで日本海軍は第三水雷戦隊の残存艦艇を基幹として、8月20日附で第三十一戦隊を編制する(司令官江戸兵太郎少将)。旗艦予定だった長良型3番艦「名取」が、編成直前の8月18日に米潜水艦ハートヘッド("USS Hardhead, SS-365")の雷撃で沈没。代艦として長良型2番艦「五十鈴」を旗艦にあてた。第三十一戦隊の編成と共に第22駆逐隊は解隊され、残存2隻(皐月、夕凪)は第30駆逐隊に編入、同隊は駆逐艦5隻(卯月、夕月、秋風、皐月、夕凪)となった。各艦・各隊は瀬戸内海で戦隊訓練・対潜訓練を実施。だが8月25日に船団護衛任務中の「夕凪」は米潜水艦ピクーダ("USS Picuda, SS-382")に撃沈された。1944年(昭和19年)9月6日、「皐月」は神威船団(神威、旭東丸、興川丸)を護衛してシンガポールを出発。マニラ地区空襲の恐れがあったため、ブルネイ等を経由・仮泊しながら航海を続ける。本艦が神威船団護衛中の9月17日、日本からシンガポールへ向かうヒ75船団から水上機母艦「秋津洲」と特設巡洋艦「西貢丸」、第30駆逐隊(夕月、卯月)が分離、フィリピンマニラ港へ向かう。このあと「西貢丸」は米潜水艦フラッシャー("USS Flasher, SS-249")に撃沈された。9月20日夜、神威船団(神威、旭東丸、興川丸、皐月、駆潜艇2隻)はマニラに入港した(艦長の証言によると21日の夜明け前に到着)。翌9月21日午前5時、第30駆逐隊(卯月、夕月、秋風)はマタ27A船団を護衛してマニラを離れる。同日、燃料補給を実施後マタ27船団に追いつこうとしていた「皐月」は、マニラ湾にてアメリカ軍の空母艦載機の攻撃を受ける。24~30ノットを発揮して対空戦闘を実施。だが第一次空襲で左舷に落ちた至近弾により復水器が破壊され、片舷航行、最大発揮速力は20ノット以下に低下した。また複数の至近弾により負傷者が出たため艦載艇で陸地へ移送、そのために軍医長・水雷長・航海長を派遣し、艦橋には艦長、砲術長、操舵員の3名しかいなかったという。午後に入り第一缶室に爆弾が命中、速力が落ちた所で艦前部に爆弾が命中、さらに複数の命中弾を受け15時45分に沈没した。「皐月」沈没後、生存者は陸上からの大発動艇により救助され、また給糧艦「伊良湖」等にも救助された。戦死者52名、重軽傷者42名。米軍による沈没地点。まもなく生存者全員は日本に帰還でき、後のマニラの地上戦に巻き込まれることはなかった。9月24日、給糧艦「伊良湖」と水上機母艦「秋津洲」は退避した先のコロン島(コロン湾)で米空母艦載機の攻撃を受け、共に撃沈された。11月10日、駆逐艦「皐月」は卯月型駆逐艦、第30駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。1944年(昭和19年)8月20日の調査によると本艦の兵装は12cm単装砲3門、61cm3連装魚雷発射管2基、25mm3連装機銃3基、同連装2基、同単装9基、13mm単装機銃5基となっている。(『日本駆逐艦物語』p267,p280による)

出典:wikipedia

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