加納 久徴(かのう ひさあきら)は、上総一宮藩の第2代藩主。一宮藩加納家6代。文化10年(1813年)、伊勢八田藩(東阿倉川藩)の第4代藩主・加納久慎の世子である加納久儔(後の上総一宮藩の初代藩主)の長男として生まれる。天保元年11月1日、将軍徳川家斉に拝謁した。天保9年12月16日、従五位下大和守に叙任する。後に備中守、駿河守、遠江守、備中守に改める。天保13年(1842年)10月21日、父の隠居により家督を継いで一宮藩主となる。嘉永2年(1849年)1月28日に大番頭に任じられ、安政2年(1855年)2月に講武所総裁を兼任する。安政4年(1857年)閏5月1日に奏者番に任じられ、文久元年(1861年)7月15日に若年寄に任じられるなど、幕末期の要職を歴任した。和宮が江戸幕府第14代将軍・徳川家茂のもとに降嫁する際には、江戸までの警護役を務めた。文久2年閏8月25日、若年寄を辞職する。天保15年(1844年)、領地の一宮にあった灌漑貯水池を拡張し、中国の洞庭湖の名をとって「洞庭湖」と名づけ、記念碑を建てた。この記念碑は1981年(昭和56年)に一宮町指定史跡に指定されている。藩政では、幕閣として中央政治に従い、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて藩兵の訓練を行ない、弘化元年(1844年)には他藩に先駆けて砲台を建設するなどしている。文久3年(1863年)11月、真忠組の乱が起こると、下総佐倉藩や多胡藩、陸奥福島藩と協力して文久4年(1864年)1月に鎮圧するという功績を挙げた。その直後の元治元年(1864年)3月22日に死去した。享年51。はじめに養子として迎えていた久成は文久3年(1863年)に早世したため、改めて迎えた養子の久恒が跡を継いだ。
出典:wikipedia
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