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有明 (初春型駆逐艦)

有明(ありあけ)は、日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦初春型の5番艦である。有明型駆逐艦に類別されていた時期もあった。「有明」の艦名は、有明に由来し、既に春雨型駆逐艦「有明」に使用されていた(大正13年12月1日除籍)。初春型駆逐艦「有明」は、日本海軍の艦船としては2代目となる。本艦喪失後、海上自衛隊のありあけ型護衛艦「ありあけ」(旧フレッチャー級駆逐艦「ヘイウッド・L・エドワーズ」)が就役した。3代目「ありあけ」がアメリカ軍に返還されたのち、4代目むらさめ型護衛艦「ありあけ」が就役した。「有明」の艦名は帝国海軍・海上自衛隊を通じて四艦にわたり継承されたことになる。1932年(昭和7年)12月10日、第六十三号逐艦に「有明」の艦名が与えられる。初春型4番艦(第六十二号駆逐艦)「初霜」、初春型6番艦(第六十四号駆逐艦)「夕暮」、千鳥型水雷艇「友鶴」「初雁」も同日附で命名されている。3隻(初霜、有明、夕暮)は同日附で初春型駆逐艦に類別された。本艦は神戸川崎造船所で1933年(昭和8年)1月14日に起工。建造初期の段階で初春型1番艦「初春」の復元性能不良が判明し、設計を改めたため、本艦と姉妹艦「夕暮」は有明型駆逐艦(改初春型)とも呼ばれる。同年12月15日、2隻(有明、夕暮)は初春型よりのぞかれ『有明型駆逐艦』が新設、「有明」「夕暮」「白露」「時雨」「村雨」「夕立」「春雨」までが有明型に類別された(夕立、春雨は翌年10月、有明型に類別)。本艦は1934年(昭和9年)9月23日進水。しかし「白露」以後の有明型は初春型から大幅に設計を改めており、厳密には同型艦といえなかった。一時期、『初春型』、『有明型』、『村雨型』、『海風型』という四種類が存在するに至ったものの、11月19日をもって2隻(有明、夕暮)は初春型に戻され、あらたに白露型駆逐艦が新設された。また村雨型・海風型も制式に使われる事はなかった。1934年(昭和9年)11月1日、神風型駆逐艦7番艦「疾風」駆逐艦長天野重隆少佐は有明艤装員長に任命される。5日、艤装員事務所設置。1935年(昭和10年)3月25日に竣工した。同日附で艤装員事務所を撤去。天野も正式に本艦駆逐艦長(初代)となる。4月1日附で姉妹艦「夕暮」と共に第9駆逐隊を編制、初代駆逐隊司令は伊崎俊二中佐となる。伊崎司令は司令駆逐艦を本艦に指定した。第二航空戦隊に編入され、同隊は3隻(空母《赤城》、第9駆逐隊《有明、夕暮》)となる。同年11月15日、第一艦隊・第一水雷戦隊(旗艦「阿武隈」、第9駆逐隊《有明、夕暮》、第21駆逐隊《初春、子日、若葉、初霜》、第30駆逐隊《睦月、如月、弥生、卯月》)を編制。1936年(昭和11年)5月、烹炊室煙突からの排煙が艦橋に逆流して操艦や戦闘に支障をきたす問題に対処すべく、烹炊所の煙突を一番煙突まで延長する事に決定する。これを受けて初春型4隻の第21駆逐隊(初春、子日、若葉、初霜)も同改造を実施することになった。同時期、白露型駆逐艦1番艦「白露」、同型2番艦「時雨」も竣工と共に第9駆逐隊に編入(昭和11年11月1日)、4隻は横須賀鎮守府に所属する。12月1日の改編で第一水雷戦隊旗艦は「阿武隈」から川内型軽巡洋艦1番艦「川内」に変更。第9駆逐隊司令駆逐艦も「時雨」になった。1936年(昭和11年)12月1日、天野(有明艦長)は吹雪型駆逐艦「敷波」駆逐艦長へ転任。後任の有明駆逐艦長は、川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」水雷長榎尾義男少佐となる。1937年(昭和12年)12月1日、伊崎(第9駆逐隊司令)は第7駆逐隊司令に転任。後任の9駆司令は第28駆逐隊司令森友一大佐となる。同日附で榎尾(有明艦長)は呉鎮守府参謀へ補職。後任の有明駆逐艦長は、睦月型駆逐艦2隻(長月、水無月)駆逐艦長を兼務していた磯久研磨少佐となる。1938年(昭和13年)6月14日、有明駆逐艦長は神風型4番艦「松風」駆逐艦長の古閑孫太郎少佐に交代する。12月15日、4隻(有明、夕暮、白露、時雨)が佐世保鎮守府へ転籍になると、第9駆逐隊は第27駆逐隊と改名された。森(9駆司令)は敷設艦「厳島」艦長へ転任。新たな第27駆逐隊司令は渋谷紫郎大佐となる。同日附で古閑(有明艦長)は吹雪型駆逐艦「叢雲」駆逐艦長へ転任。睦月型駆逐艦9番艦「菊月」水雷長の市原千代次少佐が「有明」および「夕暮」駆逐艦長を兼務することになった。1939年(昭和14年)2月20日、市原は夕暮・有明駆逐艦長の職務を解かれ、後任の夕暮駆逐艦長は樅型駆逐艦「蓬」及び「菱」駆逐艦長の萩尾力少佐となる。3月10日、市原(有明艦長)は第13砲艇隊分隊長へ転任。萩尾(夕暮艦長)が有明駆逐艦長を兼務することになった。3月20日、萩尾は有明駆逐艦長との兼務を解かれて夕暮駆逐艦長のみとなり、白露型2番艦「時雨」駆逐艦長の緒方友兄少佐が有明駆逐艦長に任命された。11月15日、緒方(有明艦長)は吹雪型「磯波」駆逐艦長へ転任。後任の有明駆逐艦長は峯風型10番艦「夕風」駆逐艦長吉井五郎少佐となる。同日附で第27駆逐隊司令は渋谷から松原博大佐に交代。渋谷は第一掃海隊司令となる。同日附で第一水雷戦隊旗艦は「川内」より長良型軽巡6番艦「阿武隈」に交代した。1940年(昭和15年)10月15日、吉井(有明艦長)は初春型姉妹艦「若葉」駆逐艦長に転任(翌年、朝潮型「朝潮」駆逐艦長。同艦沈没時に戦死《ビスマルク海海戦》)。後任の有明駆逐艦長は、峯風型10番艦「太刀風」駆逐艦長吉田正一少佐となる。10月19日、松原(27駆司令)は第24駆逐隊(海風、江風、山風、涼風)司令へ転任。後任の第27駆逐隊司令は吉村真武大佐となる。太平洋戦争開戦時、第一艦隊・第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦「阿武隈」)・第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮、有明)に属し、柱島泊地に所在していた。第一水雷戦隊には27駆のほかに第6駆逐隊(雷、電、響、暁)・第21駆逐隊(初春、子日、初霜、若葉)・第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)が所属している。だが「阿武隈」と第17駆逐隊は南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将:旗艦「赤城」)に所属して真珠湾攻撃に参加しており、第27駆逐隊とは別行動であった。12月上旬、第27駆逐隊は山本五十六連合艦隊司令長官が指揮する主力部隊(長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城、鳳翔、瑞鳳)等を護衛して小笠原近海を航海した。1942年(昭和17年)1月下旬から、第27駆逐隊第2小隊(有明、夕暮)は南雲機動部隊の一艦として行動することになった。アンボン攻略作戦、ポートダーウィン攻撃に参加。2月10日、第4駆逐隊第2小隊(萩風、舞風)と共に機動部隊警戒隊に編入された。2月24日、機動部隊補給部隊の警戒艦としてスターリング湾を出発する。27日に合流後、第15駆逐隊(黒潮、親潮)と護衛任務を交代する。警戒隊は、旗艦「阿武隈」・1番隊1小隊(谷風、浦風)2小隊(浜風、磯風)、2番隊1小隊(不知火、霞)2小隊(有明、夕暮)・3番隊(萩風、舞風)という編制で機動部隊を護衛した。インド洋機動作戦中の3月1日、駆逐艦複数隻(磯風、不知火、霞、有明、夕暮)はオランダ商船「モッドヨカード」号を撃沈する。この時、第八戦隊の重巡「筑摩」が砲撃に加わり、20cm砲弾が旗艦「赤城」を飛び越えてゆく事態が起きたという。3月6日、27駆2小隊(有明、夕暮)は機動部隊本隊と分離、燃料補給部隊を護衛してスターリング湾へむかった。3月11日、4隻(有明、夕暮、親潮、黒潮)は機動部隊警戒隊(一水戦司令官)の指揮下を離れた。続いて27駆2小隊(有明、夕暮)は第四戦隊の重巡洋艦2隻(高雄、摩耶)と共にスターリング湾を出港。モルッカ海峡を通過して南太平洋に出たが、燃料の観点から2小隊(有明、夕暮)は重巡2隻(高雄、摩耶)と分離する。その後、横須賀へ向かった。4月18日附で、第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)は第五航空戦隊(翔鶴型航空母艦:瑞鶴、翔鶴)に編入された。また五航戦もポートモレスビー攻略準備のため、空母「祥鳳」、第五戦隊、第7駆逐隊と共に南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官、旗艦「鹿島」)に編入された。翌日、ドーリットル空襲をおこなった米軍機動部隊(ホーネット、エンタープライズ)捕捉のため台湾の馬公より出撃するが、すぐにトラック泊地への回航を命じられた。5月上旬、第27駆逐隊は珊瑚海海戦を戦った。MO機動部隊(総指揮官高木武雄少将)は、本隊:第五戦隊(司令官高木武雄少将、妙高、羽黒)・第7駆逐隊第1小隊(潮、曙)、航空部隊(指揮官原忠一少将):第五航空戦隊(司令官原忠一少将、瑞鶴、翔鶴)・第27駆逐隊、補給部隊:(輸送艦東邦丸)及び第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹 5月7日MO機動部隊編入)という戦力で編制されていた。5月8日、27駆「有明」はインディスペンサブル礁に不時着した翔鶴偵察機(九七式艦上攻撃機2機)を救助するためMO機動部隊から分離しており、「翔鶴」が被弾した戦闘には参加していない。この翔鶴索敵機は前日の戦闘で、米油槽船「ネオショー」を空母と誤認報告したペアである。戦闘後、「夕暮」「漣」及び第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)は「翔鶴」を護衛して内地へ向かった。5月17日、第27駆逐隊は南洋部隊・MO機動部隊の編制から外れ、同時に第五戦隊の内地回航護衛を下令された。27駆(時雨、白露、有明)は第五戦隊を護衛して日本へ帰投した。6月のミッドウェー海戦で、空母「鳳翔」の護衛として参加。6月25日、第27駆逐隊司令は瀬戸山安秀大佐に交代(吉村は7月19日より軽巡洋艦「龍田」艦長)。7月14日、第27駆逐隊は第2艦隊・第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦「由良」)に編入された。当時の四水戦には、27駆のほかに第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)・第9駆逐隊(朝雲、峯雲、夏雲)が所属していた。8月20日、第27駆逐隊第2小隊(有明、夕暮)はトラック泊地を出撃、「有明」は22日21時よりナウル島を砲撃し、「夕暮」は22日20時30分よりオーシャン島を砲撃した。ヤルート環礁で補給したのち「有明」は25日再度ナウルへ出動し、同艦海軍陸戦隊を投入してナウル島を占領した。同島に連合国軍兵力は駐屯していなかった。航空基地調査を行うと、28日到着の駆逐艦「夕月」及び増援陸戦隊とナウル占領任務を交代し、ヤルートへ帰投した。30日、ヤルートを出発してラバウルへ進出、外南洋部隊として行動する。10月1日以降、「有明」はガダルカナル島輸送作戦に従事する。「有明」は第四水雷戦隊各艦および「由良」より四水戦旗艦を継承した秋月型駆逐艦「秋月」等と行動を共にした。輸送作戦従事中の11月6日、「有明」は機関故障を起こし最大発揮速力27ノットに低下、27駆僚艦に護衛されてショートランド泊地へ戻った。ただちに修理を命じられる。7日、「有明」はトラック泊地へ回航され、9日到着後は同泊地にあって修理・整備を実施した。このため「夕立」以下第四水雷戦隊各艦が奮戦した11月12-15日の第三次ソロモン海戦に「有明」は参加できなかった。「有明」のラバウル進出は11月31日の事だった。12月5日、駆逐艦2隻(有明、谷風)は同時に外南洋増援部隊(第二水雷戦隊基幹)に編入された。当時の二水戦は陽炎型駆逐艦と夕雲型駆逐艦で構成されており、二水戦司令官田中頼三少将から「夕暮と有明は他艦に比べて速度が出ないので特別の取り扱いを要した」と評価されている。12月7日午前11時、「有明」は駆逐艦11隻(指揮官/第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐:第4駆逐隊《嵐、野分》、長波、第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、第17駆逐隊《浦風、谷風》、第24駆逐隊《江風、涼風》、有明)から成る第三次ガダルカナル島輸送作戦(ドラム缶輸送)に参加してショートランド泊地発、だが午後4時以降の空襲で第4駆逐隊「野分」が被弾し航行不能となった。「嵐」も小破した。「野分」は「長波」に曳航されて避退、水上機母艦「千歳」搭乗員2名を救助した「有明」は、「嵐」と共にショートランドへ避退した。12月11日、山本五十六連合艦隊司令長官の激励を受けて、田中司令官率いる第四次ガダルカナル島輸送部隊はショートランド泊地を出撃する。その戦力は、秋月型駆逐艦2番艦「照月」(田中二水戦司令官座乗)以下、駆逐艦「長波」、第15駆逐隊(陽炎・黒潮・親潮)、第17駆逐隊(谷風・浦風)、第24駆逐隊(江風・涼風)、第4駆逐隊(嵐)、第27駆逐隊(有明)という陣容であった。輸送隊は第15駆逐隊・第17駆逐隊・「有明」であり、「有明」は単縦陣の最後尾に配置されている。だが輸送部隊は揚陸中に米軍魚雷艇に襲撃されて旗艦「照月」を喪失、輸送作戦も失敗した。12月19日より、2隻(有明、江風)はムンダ輸送作戦に従事した。同日、「有明」は敵潜水艦撃沈を報告。翌日には「江風」が敵潜水艦に爆雷攻撃を実施した。この時、米潜水艦「アンバージャック」は攻撃を受けて損傷、輸送船団攻撃を諦めている。12月25日、ムンダに新飛行場を建設するため駆逐艦「卯月」と輸送船「南海丸」が出動。だが「南海丸」は米潜水艦(シードラゴン)から雷撃されて損傷、さらに「卯月」の船体中央部と衝突、「卯月」は航行不能となる。ラバウルに停泊していた各艦(長波、有明、谷風、浦風)は「卯月」救援のために出動する。「有明」は「卯月」を曳航していたが、午前8時すぎB-24リベレーター爆撃機少数機に攻撃される。至近弾6発を受けて小破。だが、破孔約230箇所、浸水15トン、砲塔内火災発生、電気回路故障のため人力操舵という深刻な被害を受けた。戦死28名、重傷21名(重軽傷計60名)。「有明」はラバウルへ単独回航、「卯月」は第17駆逐隊「浦風」に曳航され、「長波」護衛下でラバウルへ帰投した。宇垣纏連合艦隊参謀長は『ミイラ採りがミイラになる不利なる出来事と云ふべし』と述べている。29日、敷設艦「津軽」・第17駆逐隊(谷風、浦風)・第27駆逐隊(有明、夕暮)、「卯月」は増援部隊から除かれた。応急修理後の1943年(昭和18年)1月7日、駆逐艦6隻(有明、夕暮、磯波、電、天霧、朝潮)は大型艦3隻(戦艦《陸奥》、空母《瑞鶴》、重巡《鈴谷》)を護衛してトラックを出発、内地へ向かった。呉に帰投後、本艦は佐世保へ回航されたのち(陸奥、朝潮、電、雷は横須賀帰投)、同地で修理を行った。1943年(昭和18年)2月14日に修理完成、21日にトラック泊地へ進出した。以降、内地~トラック~ラバウル間の護衛任務を行った。3月9日、第27駆逐隊司令は原為一中佐に交代した(瀬戸山は5月7日より給油艦「鳴戸」特務艦長)。3月21日附で第27駆逐隊の編制がかわり、1番「時雨」-2番「有明」-3番「夕暮」-4番「白露」となる。「有明」と「時雨」は幾度か大鷹型航空母艦(大鷹、雲鷹、冲鷹)の護衛を行っている。5月17日、第27駆逐隊(時雨、有明)及び第61駆逐隊(初月、涼月)・第24駆逐隊(海風)は、連合艦隊旗艦:戦艦「武蔵」・第三戦隊(金剛、榛名)・第八戦隊(利根、筑摩)・第二航空戦隊(空母飛鷹)を護衛して17日にトラック発、22日に横須賀到着。この時「武蔵」には古賀峯一連合艦隊司令長官が座乗しており、さらに海軍甲事件(4月19日)で戦死した山本五十六元帥の遺骨が安置されていた。横須賀到着後、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)、重巡洋艦「最上」、軽巡洋艦「大淀」の横須賀~西日本回航を護衛する。6月2日、27駆(時雨、有明、夕暮)は鹿児島にて第一航空戦隊基地物件を揚陸すると、佐世保に向かった。佐世保から横須賀への移動中、27駆(時雨、有明、夕暮)は米潜水艦らしきものを撃沈したと報告している。横須賀到着後、「時雨」は機関部の故障により第二航空戦隊・空母「飛鷹」の護衛艦から外れ、2隻(有明、夕暮)が選ばれた。6月10日14時、「飛鷹」「有明」「夕暮」は横須賀を出港したが、同日18時53分(出港から約5時間後)、暗号解読により待ち伏せていた米潜水艦の雷撃を受けて「飛鷹」は大破、「五十鈴」に曳航され12日に横須賀へ戻った。なお「夕暮」は「飛鷹」に誤射され、若干の損傷を受けた。また「飛鷹」を雷撃した米潜水艦「トリガー」は「有明」「夕暮」の爆雷攻撃により損傷し、真珠湾へ帰投した。6月16日、2隻(有明、夕暮)は修理を終えた「時雨」と合流。第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、軽巡「五十鈴」、空母3隻(龍鳳、大鷹、冲鷹)、護衛駆逐艦(7駆《潮、曙、漣》、17駆《浜風、谷風》、第24駆逐隊《涼風》、第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》、夕雲型駆逐艦《清波》、秋月型駆逐艦《新月》)という編制で横須賀を出港、21日トラック泊地に到着した。泊地到着と同時に、東方部隊指揮官は第四水雷戦隊「長良」と駆逐艦4隻(雪風、有明、浜風、谷風)に対し『第十四戦隊(那珂、五十鈴)と共にナウル島へ海軍陸戦隊を輸送せよ』と下令した。だが22日附で「有明」と「時雨」は輸送任務を交代した。23日、第七戦隊(鈴谷、熊野)、駆逐艦3隻(有明、涼風、新月)はトラックを出撃。ラバウル到着後、「新月」は同地に残った。「新月」は第三水雷戦隊旗艦となったのち、7月5-6日のクラ湾夜戦で撃沈され、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将以下三水戦司令部は全滅した。7月中旬までの「有明」は四水戦各艦(長良、時雨)等と共に輸送任務に従事した。7月12-13日、コロンバンガラ島沖海戦で伊崎俊二少将以下第二水雷戦隊司令部は旗艦「神通」と共に全滅する。そこで解隊された第四水雷戦隊の司令官高間完少将・司令部並びに旗艦「長良」以下所属兵力をそのまま第二水雷戦隊に転用、第27駆逐隊(時雨/司令駆逐艦、有明、夕暮、白露)も7月20日をもって同水雷戦隊所属となる。だが二水戦編入の前日、第七戦隊(司令官西村祥治少将・旗艦熊野、鈴谷)・第三水雷戦隊(川内、雪風、浜風等)と共にコロンバンガラ輸送作戦に従事していた27駆姉妹艦「夕暮」が米軍機の空襲により沈没。当時、第27駆逐隊4番艦「白露」は内地で修理中のため、最前線の27駆は「時雨」「有明」のみであった。7月15日、有明駆逐艦長は吉田中佐から川橋秋文少佐(6月20日まで吹雪型駆逐艦「敷波」駆逐艦長)に交代する(吉田は8月20日より陽炎型駆逐艦12番艦「浦風」駆逐艦長)。7月23日、第27駆逐隊第1小隊1番艦「時雨」・2番艦「有明」はトラック泊地を出港、ラバウルに向う。「有明」は機関部の故障により最大発揮速力28ノットであった。25日ラバウル到着後、1番艦「時雨」はサンタイサベル島レカタ基地とブイン輸送任務従事のため第4駆逐隊(萩風、嵐)の指揮下に入り、3隻は同日中にラバウルを出港していった。残された2番艦「有明」は、第30駆逐隊司令駆逐艦「三日月」指揮下に入り、ニューブリテン島ツルブへの輸送作戦に従事する。2隻は陸兵約500名・物件50トンを搭載し、大発動艇1隻を曳航してツルブへ向かうことになった。27日午前10時、「三日月」「有明」はラバウルを出撃、ツルブへ向かうが、26ノットで航行中の同日午後11時にニューブリテン島グロスター岬近海でリーフに2隻とも坐礁する。「有明」は28日午前0時45分に離礁に成功するも、左舷推進軸は屈曲し、最大発揮速力6ノットという被害を受けていた。だが「三日月」の被害は更に深刻で、スクリュー破損のため完全に行動不能となっていた。第30駆逐隊司令は「三日月」から「有明」に物資人員を移乗、「有明」は3時30分に単艦でツルブに向かい同地で陸兵510名、軍需品25トンを揚陸、その後10時30分「三日月」座礁現場に戻った。しかし「有明」の最大発揮速力6ノットでは曳航不能であり、13時30分をもって作業を打ち切り、「有明」はラバウルに向かう。だが間もなくB-25爆撃機複数機の空襲を受け、「有明」の一番主砲右舷・三番主砲後部、右舷缶室、左舷機械室水線附近に爆弾各1発が命中、左舷に傾斜して14時40分に沈没した。損傷の激しい「三日月」も放棄命令が出され、自沈処理がとられる。両艦乗組員(三日月170名、有明179名)は救援のため来着した駆逐艦「秋風」に移乗、「有明」駆逐艦長を含む63名が戦死或いは行方不明になったと記録されている。沈没地点。南東方面部隊は零式艦上戦闘機を多数投入して2隻の掩護にあたったが、護衛に失敗した。8月2日深夜、駆逐艦2隻(江風、松風)がツルブに到着。ツルブ行の便では7月28日に座礁沈没した「三日月」を調査するため調査員4名(同艦駆逐艦長ふくむ)が便乗しており、有明生存者のうち56名はラバウルへ帰投する2隻に便乗してツルブを離れた。開戦以来太平洋を奔走してきた第27駆逐隊は一週間のうちに初春型2隻(夕暮、有明)を喪失して白露型2隻(時雨、白露)となり、のちに白露型2隻(五月雨、春雨)を編入して定数4隻を回復した。旧有明型2隻(有明、夕暮)は10月15日附で初春型駆逐艦第27駆逐隊、帝国駆逐艦籍、それぞれから除籍された。

出典:wikipedia

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