五木の子守唄(いつきのこもりうた)は、熊本県球磨郡五木村に伝わる子守唄である。現在では熊本県を代表する民謡としても知られる。日本の民謡や童歌などで、「子守唄」とされる歌には、本来の子守唄(子供を寝かしつけるための歌」と、守り子唄(もりこうた)と呼ばれる唄とがあるといわれており、五木の子守唄は、守り子唄のひとつである。守り子唄とは、子守をする少女が、自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで子供に唄って聴かせ、自らを慰めるために歌った歌である。かつて子守の少女たちは、家が貧しいために、「口減らし」のために、預けられることが多かったという。歌詞には「おどま勧進勧進」という言葉が出てくる。ここに出てくる「かんじん」とは、「三十三人衆」と呼ばれる地主層に対しての「勧進」(小作人)という意味で、ここでは「物乞い」「乞食」という意味で用いられている。歌の意味は「私は乞食のようなものだ。(それにくらべて)あの人たちは良か衆(お金持ち、旦那衆)で、良い帯を締めて立派な着物を着ている」となる。伝承によれば、治承・寿永の乱(源平合戦)に敗れた平氏一族が五家荘(八代市)に定着したので、鎌倉幕府は梶原氏や土肥氏など東国の武士を送って隣の五木村に住まわせ、平氏の動向を監視させたという。その後、これら武士の子孫を中心として「三十三人衆」と呼ばれる地主層が形成され、「かんじん」と呼ばれた小作人(名子小作)たちは田畑はもちろん、家屋敷から農具に至るまで旦那衆から借り受けて生計を立てなくてはならなかった。娘たちも10歳になると、地主の家や他村へ子守奉公に出された。五木の子守唄はこの悲哀を歌ったものである。現在一般に「五木の子守唄」として知られているメロディーは、戦後に古関裕而が採譜し、民謡歌手の音丸によって初めてレコーディングされたものである。1953年にキングレコードの日本調歌手照菊が吹き込み大ヒットさせたことで、一般的に知られることとなった。この曲調は、お座敷唄と呼ばれる、芸妓が酒席などで歌っているものである。正調の歌は、五木村在住の堂坂よし子歌唱のものが、CDとして発売されており、五木村公式ホームページ内でも聴くことができるが、子供の背中を軽くたたきながら、語りかけるように唄うもので、楽譜ではとても書き表せない。お座敷唄・正調の歌の他にも、五木村ではいろいろな歌詞の子守唄が古老らによって伝承されている。村などがそれらの唄の採集に力を入れており、外部リンクの「五木の子守唄の歌詞いろいろその2」は人吉高等学校五木分校の高校生たちが聞き取り調査を行ったものである。おどま盆ぎり盆ぎり盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よもどるおどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆よか衆ゃよか帯 よか着物おどまいやいや泣く子の守りにゃ泣くといわれて憎まれる泣くといわれて憎まれるねんねした子のかわいさむぞさ起きて泣く子の面憎さ起きて泣く子の面憎さねんねいっぺんゆうて眠らぬ奴は頭たたいて尻ねずむ頭たたいて尻ねずむおどまお父つぁんなあの山おらすおらすともえば行こごたるおらすともえば行こごたるこの子守唄には、いくつかの謎が提起されている。この歌が日本を代表する子守唄になる前に、この歌は1930年に、田辺隆太郎(人吉市の小学校教師)によってはじめて発見されて、採譜、編集されたといわれている。 しかし、この歌は当時すでに五木村では歌われなくなっており、どのようにして発見されたかは謎とされる。五木の子守唄は伝承者により様々な歌詞が伝えられており、どの歌詞が元歌かはっきりしていない。似た内容の歌詞が、五木だけではなく熊本県の他地域にも散見されている。
出典:wikipedia
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