耿 純(こう じゅん、? - 37年)は後漢の武将。字は伯山(はくざん)、鋸鹿郡宋子の人(『後漢書』列伝11・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の13位に序せられる(『後漢書』列伝12)。父の耿艾は済平尹(新制における定陶郡太守)となり、耿純は長安に学び、納言の士(新制における尚書)となる。王莽が敗れて更始帝が立つと、更始帝は配下の李軼を遣り、耿艾もこれに降り済南太守となった。耿純は李軼に諫言することがあり、李軼は耿純が使える人物と思い、鋸鹿の豪族の出であるので騎都尉とし、趙、魏を帰順させようとした。行大司馬劉秀が河北に渡り邯鄲に至るにあたり、耿純は宋子から陣幕を訪れて謁見し、劉秀は丁重に扱った。他の更始帝の将と異なり、劉秀の兵士の規律が整っているのを見て、耿純は劉秀と結びつこうと貢物を献じた。劉秀は耿純を邯鄲に残して中山に向かったが、更始1年(23年)12月、群雄の王郎が挙兵する。王郎は劉秀に賞金を賭け、耿純らにも追討を掛けるが、耿純は邯鄲を脱出し、宋子へ戻る。劉秀を探して盧奴にいると知ると、従兄弟たちと盧奴に向い、王郎の挙兵を告げた。劉秀は一旦北上して薊に進み、耿純は南に戻る。劉秀は騒乱する薊を南下し、苦難の末、ようやく迎え受けてくれる信都郡に入った。一方、耿純は従兄弟の耿訢、耿宿、耿植らと共に一族郎党を率いて、育県にて劉秀を迎え恭順する。劉秀は耿純を前将軍として侯位を授け、耿訢、耿宿、耿植を偏将軍とした。劉秀らは宋子を降し、耿純らは従いて下曲陽及び中山を攻めた。劉秀は王郎の将李育が立てこもる栢人県を攻めるが、長く落せなかった。栢人を攻めるより鋸鹿を攻めるべしという進言に従って、劉秀は鋸鹿県を囲むが、太守王饒は固守し、数十日しきりに攻めるも勝てずにいた。耿純は劉秀に「いつまでも王饒の攻撃に執着すると、兵士は疲弊してしまいます。そうではなく、大兵の精鋭を進めで邯鄲を攻めましょう。王郎を誅すれば王饒は戦わずして、自ら投降致しましょう」と進言した。劉秀はこの案を採用し、鄧満を守将として残すと、邯鄲を攻め、ついにはこれを破り、王郎を斬った。さらに、耿純は劉秀に従いて銅馬を撃った。更始帝軍と正面から戦うことになったため、諸将は劉秀に皇帝への即位を促すが、劉秀はなかなか肯んじない。中山に至って、諸将が再びこの議を上奏するが、やはり劉秀は受けない。諸将が退出しようとしたところ、耿純は進んで諫言し、耿純の意見が甚だ誠実だったので、劉秀は深く感じて「我このことを考えん」と答えた。建武1年(25年)、光武帝は即位し、耿純は劉永を済陰に撃ち、定陶を降した。光武帝の陣営にいたで耿純の叔父である真定王劉楊(揚)は予言の書を捏造し、民衆を惑わせようとした。建武2年(26年)春、光武帝は騎都尉陳副と游撃将軍鄧隆を遣わして劉楊を召し出すが、彼はこれに応じない。そこで、光武帝は耿純に節を持たせて遣わし、各王侯を労いさせ、密かに「劉楊が謁見するようであれば、これを捕えよ」と命じた。結局、耿純は、劉楊が挙兵する前に謀殺した。耿純は京師に帰ると、自分は将となり侯位を受たが、元々は官吏の出であり、天下はあらかた安定してきたといって、自ら文官として地方行政の道を望んだ。光武帝は耿純を東郡太守とする。その時、東郡は治安が悪化していたが、、耿純が就任して数ヶ月にして、盗賊は沈静化した。また、更始帝の東平郡太守に、泰山、済南、平原の賊を平らげた。勤めたること4年、取調べていた者が、判決の降る前に自殺した事を罪に問われ、太守を罷免された。建武6年(30年)、東光侯となり国に就いた。建武8年(32年)、東郡に盗賊が決起したので、光武帝は耿純を太中大夫の位につけ、大軍とともに東郡に遣わした。すると九千余人の盗賊たちが、耿純が来たと聞くや官軍に降り、大軍は戦わずして帰ってきた。光武帝は耿純にそのまま東郡太守を務めさせ、役人民衆は耿純に服した。建武13年(37年)、在職のまま死去。謚は成侯。
出典:wikipedia
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