山田 兼松(やまだ かねまつ、1903年9月16日 – 1977年8月27日)は日本の男子マラソン選手。香川県坂出町(現・坂出市)出身。1928年のアムステルダムオリンピックのマラソンで4位に入り、日本人として同種目で初めて入賞した。1903年、坂出の塩田業者の家に生まれる。子どもの頃から塩田での作業に従事していた。当時の塩田では広い浜辺を走り回る作業が多く、従事する人々は自然に足腰が鍛えられた。1920年のアントワープオリンピックで、近隣の宇多津出身の大浦留市が5000mと10000mの代表として出場し、帰郷の際に坂出の青年により「オリンピック歓迎マラソン大会」が実施されたことで、塩田勤務者を含めた地元民の間にマラソンや陸上競技への関心が高まることになった。そうした周囲の状況に刺激されて山田も陸上競技を目指した。塩田作業の終わった夜にさらに陸上のトレーニングをしていたという。1927年の阪神国道開通記念クロスカントリーに優勝。翌1928年のオリンピック予選会で優勝して念願の代表の座をつかんだ。8月5日の本番では序盤から先頭集団に入り、中盤からはトップに立った。40km地点では2位に200m近い大差を付け、日本のマラソン初優勝は確実かと思われた。ところが思わぬアクシデントが山田を襲った。右膝が激痛を発したのである。渡欧後、山田はベルリンで練習したときにすでに膝を痛めて2日練習を休んでいたが、完治しないままアムステルダムに入り、全コースの試走もおこなうなど、硬い石畳の道で走り続けたことで膝に重い負担がかかった。山田のスピードは急激に落ち、そこをフランスのエル=ワフィはじめ3人の選手が追い抜いていった。それでも山田は痛みに耐えて2:35:29のタイムで4位でゴールし、マラソンで日本人初の入賞者となった。朝鮮半島出身の孫基禎を別にすると、最終的にメダルにこそ届かなかったものの、ゴールの近くまでトップにいたという点では、日本の男子マラソン史上森下広一と並んでオリンピックの金メダルに近づいた選手である。この記録は公認のマラソンコースにおける当時の日本最高でもあった。オリンピック後も「大阪・東京間400マイルマラソン」を8日間(59時間29分11秒)で走って優勝するなど、健脚を披露した。山田の偉業を称えて、香川丸亀ハーフマラソンにおいて「山田兼松章」の表彰が行われている。
出典:wikipedia
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