ハロルド・ダグラス・ベインズ(Harold Douglas Baines , 1959年3月15日 - )はアメリカ合衆国メリーランド州イーストン出身の元プロ野球選手(右翼手及び指名打者)。左投左打。現在はMLBのシカゴ・ホワイトソックスでコーチを務める。ニックネームは「静かな男」。のドラフト会議で、ホワイトソックスから全体1位で指名され入団。シカゴ・ホワイトソックスの名物オーナー、ビル・ベックは、12歳のベインズがリトルリーグでプレイしているのを見て、マークしていたという。4月10日にメジャーデビューを果たし、弱冠20歳ですぐにレギュラーに定着。には161試合に出場して25本塁打、105打点を記録。は29本塁打、99打点でチームの地区優勝に貢献。には自己最多の29本塁打をマーク。長打率.541はア・リーグ1位であった。は打率.309、本塁打22、打点113(自己最高)で初のオールスター出場を果たす。頃より膝の故障に悩まされた。以後はほぼ指名打者(DH)での起用が中心となる。すでにこの時点で、将来背番号「3」が永久欠番になるのが決定していた。また、「静かな男」のニックネームで、当時もっとも無口なメジャーリーガーと言われていたぐらいだった。しかし、球場には誰よりも一番先に着いて黙々と練習に励み、若いころから人望が厚かった。「よく、昔の名選手の誰かが僕に似ていると言うけど、僕としてはそんな風に比較されるのは好きじゃない。僕はハロルド・ベインズなんだ。ファンが球場に足を運んで見てみたいと思う選手になりたいだけだ」と述べている。前後するが、1984年5月8日のコミスキー・パークで行われた対ミルウォーキー・ブルワーズ戦は延長戦に入り、午前1時を過ぎたところでアメリカンリーグの規定により、サスペンデッドゲームとなった。翌9日に正規の試合前に続きが行われ、8時間6分に及ぶMLB史上最長時間試合となったが、延長25回裏にチャック・ポーターから中堅方向へサヨナラ本塁打を放つ。この時のバットはアメリカ野球殿堂入りしている。シーズン途中、2対3の交換トレードでテキサス・レンジャーズに移籍(この際、レンジャーズからホワイトソックスに移った3選手のうち1人が当時ルーキーのサミー・ソーサであった)。のシーズン途中には2選手との交換でオークランド・アスレチックスに移籍。この年初のワールドシリーズ出場を果たすが、シンシナティ・レッズに1勝もできぬまま4連敗を喫する。は、打率.295、20本塁打、90打点の活躍で4年ぶりにオールスターに出場。は、地区優勝を経験したにマイナー2投手との交換でボルチモア・オリオールズに移籍した。には古巣ホワイトソックスにフリーエージェント(FA)で復帰。同年は、打率.313、本塁打22、打点95と活躍する。シーズン中に再びオリオールズに移籍し、チームのプレイオフ進出に貢献。には8年ぶりのオールスター出場を果たす。1999年シーズン途中でクリーブランド・インディアンスに移籍したが、この年は40歳にして25本塁打、103打点の活躍。は、オリオールズで開幕を迎えた。2000年のシーズン途中に、古巣シカゴ・ホワイトソックスに2度目の復帰しを果たした。に、現役を引退を表明した。引退後、3月にホワイトソックスのベンチコーチ(日本のプロ野球でいうヘッドコーチに相当)に就任。には、現役時代に果たせなかったワールドチャンピオンを、コーチとして成し遂げた。指名打者としての出場試合1,652はメジャーリーグ記録である。メジャー歴代50位(終了時点)の通算384本塁打を打っているが、シーズン30本塁打を打ったことのない選手の中では歴代2位である。通算1,628打点はメジャー歴代26位だが、22シーズンずっとア・リーグのチーム所属だったため、ア・リーグ歴代に限定すると第11位である(順位はいずれも2006年終了時点)。ただし、7月末時点ですでにフランク・トーマスに抜かれており、順調なら1 - 2年内にマニー・ラミレス、アレックス・ロドリゲスも追い抜く。ベインズは2007年にアメリカ野球殿堂入りの候補者資格を得たが、初年度の殿堂入り投票では29票(得票率5.3%)しか得られなかった。2008年度以降の投票でも殿堂入りに必要な得票率75%には届かず、むしろ足切りラインの得票率5%(これを下回ると候補者資格を失い、次年度以降の候補者リストから外される)を辛うじて上回る程度であった。2011年の投票で得票率が4.8%(得票数28票)と5%を下回り、殿堂入りの資格を失った。
出典:wikipedia
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