ウィルバート・ロビンソン(Wilbert Robinson、1863年6月29日 - 1934年8月8日) は、1880~1920年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの選手、および監督。選手時代の主なポジションは捕手。マサチューセッツ州ボルトン生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Uncle Robbie"(アンクル・ロビー)。1945年にアメリカ野球殿堂入りを果たした。1885年にマイナーのニューイングランドリーグから、アメリカン・アソシエーションのフィラデルフィア・アスレチックス (現在のオークランド・アスレチックス及び、ナショナル・アソシエーション/ナショナルリーグに所属していたフィラデルフィア・アスレチックスとは無関係)に入団。主に捕手と一塁手をしていた。アスレチックスでの打率は.230から.240程度で、かつリーグ最多のパスボールを記録したことがある(1887年)など最初は目だった活躍はできず、1890年シーズン中にアスレチックスから放出される。同年1899年まで活動していたナショナルリーグのボルチモア・オリオールズ(現存球団とは別)に移籍。当時のオリオールズはネッド・ハンロン監督の元で1894年からリーグを3連覇する強豪チームとなり、ロビンソン自身もこの時期4度の3割を記録するなど、打撃面でも活躍しチームに貢献した。1899年のオリオールズ解散の後、ジョン・マグローとともに1900年にカージナルス、1901年からはアメリカンリーグに創設されたボルチモア・オリオールズ(後にニューヨークに移転したヤンキースの前身のチームで、これも現存球団とは無関係)と転々とする。選手としては1902年までプレーしていた。1902年に現役を退いたロビンソンは、1903年から1913年まで、かつてのチームメイトだったジョン・マグロー率いるニューヨーク・ジャイアンツの投手コーチを勤めた。投手を育てる手腕に優れていたとされるロビンソンは、ジャイアンツ在籍時に後の殿堂入り投手となるジョー・マクギニティやルーブ・マーカードを大成させている。1914年からはブルックリンの監督を勤め、ここでもダジー・ヴァンスやバーリー・グライムスといった後の殿堂入り投手を育て上げた。当時のロビンズは同じニューヨークに常勝のジャイアンツがあったこともあり、チーム成績は5割そこそこという年が多かったものの、ロビンソンは決して戦力に恵まれているとはいえなかった当時のロビンズを、1916年と1920年の2回リーグ制覇に導いている。ロビンズの監督は1931年まで勤め、監督引退後はアトランタでマイナーリーグ球団を経営していた。1934年にアトランタにて71歳で亡くなる。1945年にベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り監督に選出した。
出典:wikipedia
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