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ボーンフィッシュ (SS-223)

ボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の12番艦。艦名はソトイワシ科に属する大型回遊魚の一種、ボーンフィッシュに因む。ボーンフィッシュは1942年6月25日にコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。1943年5月31日にフリーランド・A・ドービン少将夫人によって進水し、艦長トーマス・W・ホーガン少佐(アナポリス1931年組)の指揮下の1943年5月7日に就役した。就役後はコネチカット州ニューロンドンおよびロードアイランド州ニューポート沖で整調訓練を行う。7月23日に太平洋へ向けて出航し、8月4日にパナマ運河を通過、30日にオーストラリアのブリスベンに到着する。同所で一週間の訓練の後、モートン湾に向かい訓練を再開する。その後、ブリスベンからダーウィンに進出する。9月16日、ボーンフィッシュは最初の哨戒でビルフィッシュ ("USS Billfish, SS-286") およびボーフィン ("USS Bowfin, SS-287") とウルフパックを構成し南シナ海に向かった。9月22日にバラバク海峡を通過し、南シナ海に入った。3日後の9月25日朝、ボーンフィッシュは二列縦隊の輸送船5隻と、1隻の護衛艦を配する輸送船団を発見する。この輸送船団、サ12船団にはボーフィンとビルフィッシュも取り付いており、午後に入ってからの攻撃で、ボーフィンは特設運送船(給油・応急タンカー)霧島丸(国際汽船、8,267トン)を撃沈し、その後もビルフィッシュとともに追撃を続けていた。ボーンフィッシュは夜に入ってから、爆雷攻撃による制圧で深深度潜航に移る前にの地点で特務艦足摺に対して魚雷を4本発射し、3つの爆発を確認するが実際には被害はなく、ビルフィッシュもタンカー誠心丸(日本油槽船、5,239トン)に対して魚雷を5本発射して1本の命中を報告したが、実際には命中していなかった。2日後の9月27日未明、ボーンフィッシュはのカムラン湾近海で、シンガポールに向かっていた第324船団を発見。第324船団側もボーンフィッシュを発見して船団各船は避退行動に移っていたが、船団最大の船舶であった輸送船鹿島丸(日本郵船、9,908トン)は全速力で避退しつつあったところ、前を航行する応急タンカー千早丸(日本郵船、4,701トン)との距離がわずか約200メートルとなり、追突を避けるため速力を落とした。その時、の地点に至ったボーンフィッシュは、鹿島丸に向けて魚雷を4本発射。魚雷は2本が鹿島丸の四番船倉と五番船倉に命中し、鹿島丸は15分程度で沈没した。船団中にあった輸送船第一興南丸(日本海洋漁業、455トン)は、曳航していた特殊油槽船を放り出して救助作業を行いつつボーンフィッシュに迫ったが、ボーンフィッシュは逃げることが出来た。10月6日朝にはの地点で3つ目の輸送船団を発見して魚雷を6本発射し、2隻の大型輸送船に魚雷を命中させたようだと判断された。しかし、この時も実際には、第431船団に加入してサンジャックから高雄に向かう途中の輸送船対馬丸(日本郵船、6,754トン)に魚雷が向かっていったものの、6本のうちの3本が対馬丸の船底を通過していっただけだった。10月7日夜にもの地点で輸送船岳陽丸に対して魚雷を6本発射したが、命中しなかった。10月10日午前、ボーンフィッシュはのカムラン湾北東約110キロの海域で高雄に向かっていた第432船団を発見する。ボーンフィッシュは後方から第432船団に迫り、に至った所で距離2,400メートルから魚雷を4本を発射。うち2本が輸送船五十鈴川丸(東洋海運、4,214トン)に命中して撃沈し、五十鈴川丸被雷を見て40度に回頭して魚雷を避けようとしていた輸送船帝美丸(帝国船舶、元フランス船 Bernardin Saint-Pierre /大阪商船委託、10,085トン)にも2本命中。うち左舷後部に命中した1本は不発だったが、船尾に命中した魚雷による被害が甚だしく15時21分に沈没した。10月14日夕刻には、の地点で2本マストの10トン級スクーナーを発見し、2基の20ミリ機銃の掃射で撃沈した。10月21日、ボーンフィッシュは45日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。11月22日、ボーンフィッシュは2回目の哨戒でセレベス海方面に向かった。11月28日にロンボク海峡を抜けフローレス海に入る。その翌日である11月29日朝、ボーンフィッシュはの地点で2隻の輸送船団を発見。2隻のうち1隻は「野島型給炭艦」と推定された。ボーンフィッシュは潜航し、の地点に至った所で魚雷を4本発射。魚雷は2本が輸送船すゑず丸(栗林商船、4,645トン)に命中し、すゑず丸は後部から急速に沈没していった。護衛艦が向かってきたものの、ボーンフィッシュは上手くまいて逃げた。しかし、ここで悪い話があった。当時すゑず丸は546名のイギリス軍捕虜を乗せていた。後年書かれた書物によれば、捕虜のほとんどは海中に放り出された挙句、日本人遭難者を救助した護衛の第12号掃海艇に機銃掃射され、少なくとも250名の捕虜が死んだ。12月1日未明、ボーンフィッシュはのセレベス島トリトリ北方海域で、バリクパパンからパラオに向かう第2612船団を発見。追跡の後攻撃位置についたボーンフィッシュは、22時過ぎにの地点で艦首発射管から魚雷を6本、直ちに反転して艦尾発射管から魚雷を4本発射した。魚雷は輸送船日遼丸(三菱汽船、2,721トン)に1本が命中し、日遼丸は沈没した。ボーンフィッシュは追撃を行い、12月2日明け方に二度目の攻撃で魚雷を4本発射して1つの爆発を確認した。12月4日から6日まではサンダカン沖で潜航哨戒を実施し、次いでタラカン沖でも潜航哨戒を実施した。12月11日午前、ボーンフィッシュはの沖で小型輸送船を発見し、浮上砲戦を挑む。しかし、発射した4インチ砲弾57発のうち7発を命中させたものの、相手は逃げ去ってしまった。12月12日午前にもの地点で3,000トン級輸送船を発見し、魚雷を二度にわたり3本ずつ計6本発射したが、成功しなかった。12月19日、ボーンフィッシュは27日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。改装と訓練を実施した。1944年1月12日、ボーンフィッシュは3回目の哨戒で南シナ海に向かった。1月22日朝、ボーンフィッシュはのマカッサル海峡で60トン級帆船を発見する。ボーンフィッシュは帆船に接近して交信を試みたが、帆船の7人の乗組員が不審な動きをした挙句、船を捨てることをよしとしなかったため、ボーンフィッシュは20ミリ機銃で帆船を射撃。帆船に乗り合わせた原住民は海中に飛び込み、帆船が沈むその時に、39人の日本軍兵士が船底から脱出するのを確認した。バラバク海峡を抜けて南シナ海に入り、哨戒海域に到着した。2月6日午前、ボーンフィッシュはのカムラン湾沖でおそらくは17隻はあろうかと思われる輸送船団を発見。ボーンフィッシュは時間をかけてこの輸送船団、第357船団をつぶさに観察し、午後に入っての地点に至ったところでタンカーと輸送船を目標に魚雷を6本発射。次に艦尾発射管から魚雷を発射しようと旋回したところ、護衛艦が急接近。ボーンフィッシュは潜望鏡を引っ込めて深深度潜航に入るため、9トンの海水が前部に注入された。発射した魚雷は、タンカーに2本と輸送船に少なくとも1本は命中したように思えたが、いずれにせよ目標は沈没には至らなかったものと判断された。実際には輸送船うすりい丸(大阪商船、6,385トン)に魚雷が向かったものの、被害はなかった。第357船団はほとぼりが冷めるまでカムラン湾に避難し、3日後の2月9日に航行を再開する。ボーンフィッシュは湾内から出てきた第357船団と再び接触し、の地点で海軍徴傭タンカー第二図南丸(日本海洋漁業、19,262トン)に向けて魚雷を5本発射。攻撃直後、ボーンフィッシュは護衛艦と航空機の制圧を受け、海底で反撃が止むのをひたすら待ったため戦果を確認できず、夕方になって浮上したが、その頃には第357船団の姿はなかった。日本側では、第二図南丸に魚雷が命中して小破したと記録された。ボーンフィッシュはその後1ヵ月近く哨戒を行って目標を探し続ける一方、2月16日未明にはパダラン岬沖に浮上し、灯台に対して艦砲射撃を行った。3月15日、ボーンフィッシュは60日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。4月13日、ボーンフィッシュは4回目の哨戒でセレベス海方面に向かった。4月26日午後、ボーンフィッシュはのサランガニ海峡で、ミンダナオ島沿岸を航行する4隻の輸送船団を発見。護衛艦の目をかいくぐって十分な追跡を行い、夜に入ってから「妙義丸級輸送船」に対して魚雷を4本発射。うち2本の魚雷が「妙義丸級輸送船」の中部と後部に命中して目標は沈没した。翌4月27日朝にも4,500トン級輸送船を発見し、魚雷を4本発射して少なくとも3つの命中を得たと考えられたが、目標は沈まなかった。5月4日朝、ボーンフィッシュはのスールー海入り口で輸送船団を発見し接近したが、上空に哨戒の二式水上戦闘機がいたので潜航。二式水上戦闘機はボーンフィッシュに対して対潜爆弾2発を投下し、この攻撃でボーンフィッシュは小破した。ボーンフィッシュは修理をするため浮上したが、2隻の艦船が向かってきたので再び潜航し、爆雷攻撃に備えた。2隻は爆雷を25発投下した後遠くに去っていった。一連の反撃が止むと、ボーンフィッシュはバシラン海峡の北で哨戒を続けた。5月7日、ボーンフィッシュはフラッシャー ("USS Flasher, SS-249") からの情報に基づいて哨区を修正する。間もなく陸岸沿いを航行する輸送船団を発見し、護衛艦の動きに注意しながら追跡を行い、夕刻にの地点で輸送船に向けて魚雷を4本発射して3つの命中音を聴取したが、護衛艦が反転してきたので最終的な結果を確認することは出来なかったが、撃沈と推定された。5月9日未明、ボーンフィッシュは30トン級セイルボートを発見し、ピジン英語を話す原住民と会話した。原住民の言から、ボートはカガヤンからパラワン島に向かっており、途中パナイ島で米を積んでいたもので、クルーの中には2人の元フィリピン軍兵士がいること、日本の輸送船が地域の水路を使用していること、プエルト・プリンセサに500名、コロン島に300名、タイタイに40名の日本軍がいることなどが分かった。2日後の5月11日未明にはの地点で、「千鳥型水雷艇」を付した「厳島型敷設艦」を発見して魚雷を4本発射したが、命中しなかった5月14日未明、ボーンフィッシュはのシブツ海峡で、駆逐艦2隻と3隻の特設運送船(給油)からなる船団を発見した。特設運送船(給油)は日栄丸(日東汽船、10,021トン)、あづさ丸(石原汽船、10,022トン)、建川丸(川崎汽船、10,090トン)で、駆逐艦は響と電であり、あ号作戦に備えてマニラからバリクパパンに燃料を取りに向かっていたものであった。ボーンフィッシュは船団後方から攻撃を仕掛け、4時11分に魚雷を5本発射。当初は6本発射する予定であったが、1本が発射管の故障で発射できなかったため5本の発射となった。目標はタンカーだったが、魚雷はタンカーとは別の目標、すなわち電の後部と中央部に命中。電は煙と炎に覆われ、船体をV字型に折って沈没した。響が反撃に出たが、ボーンフィッシュは深深度潜航で反撃から逃れた。ボーンフィッシュは電を撃沈したとは思わず、当時はタンカーを撃沈したと報告した 。電を撃沈したと分かったのは戦後のことであった。電を撃沈した後もシブツ海峡で哨戒していたボーンフィッシュは同じ5月14日の午後、タウィタウィに入る日本艦隊を観測。3隻の戦艦、1隻の空母、3隻の重巡洋艦、1隻の軽巡洋艦を確認し、その周囲を8隻の駆逐艦が警戒していた。5月17日にはタウィタウィ湾内に3隻の戦艦、3隻の重巡洋艦、2隻の軽巡洋艦、9隻の駆逐艦が在泊しているのを確認し、5月19日にも湾内に入るタンカー船団を確認した。一連の情報は直ちに司令部に通報された。任務を終えると、ボーンフィッシュは南に針路を向けた。5月30日、ボーンフィッシュは48日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がローレンス・L・エッジ少佐(アナポリス1935年組)に代わった。6月25日、ボーンフィッシュは5回目の哨戒でフィリピン方面に向かった。7月5日午後、ボーンフィッシュはの地点で100トン級木造スクーナーを発見し、浮上砲戦で撃沈。2日後の7月7日にものタラカン沖で200トン級木造スクーナーを、同じく浮上砲戦で撃沈。7月8日朝、ボーンフィッシュはのボルネオ島マンガリハット岬近海で小型船の集団を発見する。少なくとも10隻以上の群がるような小型船の中を縫った後に海軍徴傭船龍栄丸(日本製鐵、207トン)を目標として定め、の地点に至った所で艦首発射管から魚雷を4本、艦尾発射管から魚雷を4本発射したが、全て命中しなかった。2時間後、ボーンフィッシュは浮上して龍栄丸を追い求め、夕刻になって再度発見して浮上砲戦により撃沈した。7月10日朝にはのホロ島近海で50トン級サンパンを砲撃で撃沈し、7月12日未明にはの地点で300トン級を機銃掃射で撃ち沈め、7月16日朝にもの地点で150トン級ラガーを砲撃で沈めた。7月17日夜、ボーンフィッシュはの地点でレーダーにより目標を探知し、距離を詰めた上で翌7月18日未明に夜間浮上攻撃で魚雷を3本発射し、1本が命中したと判断される。7月19日から7月26日までは、ベルデ島水路で哨戒を行った。7月29日午前、ボーンフィッシュはトゥバタハ岩礁近海で2隻の駆逐艦あるいは海防艦に守られた特設運送船(給油)国洋丸(国洋汽船、10,026トン)を発見し、近在にいたカブリラ ("USS Cabrilla, SS-288") との連携を期待して追跡を行った。日付が7月30日に変わって後、ボーンフィッシュはの地点で魚雷を5本発射し、「4つの美しい命中」を確認して国洋丸を撃沈した。ボーンフィッシュはシブツ海峡とタウィタウィの北方、ミンダナオ島方面で哨戒を続け、8月2日午後にはの地点で4隻の輸送船団を発見し、タンカーに向けて魚雷を3本発射して1本の命中と判定される。ボーンフィッシュは引き続きこの船団に接触し、翌8月3日明け方にの地点で再びタンカーに対して魚雷を4本発射して1本命中させたと判断された。フリーマントルへの帰途の途中の8月7日、ボーンフィッシュはのロンボク海峡で「千鳥型水雷艇」を発見し、最後にただ1本残った魚雷を差し向けようとする。しかし、異常が発生して発射できず、ボーンフィッシュは「千鳥型水雷艇」に探知されないようにその場を立ち去った。8月13日、ボーンフィッシュは49日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。弾薬を補給し乗組員をリフレッシュさせた。9月5日、ボーンフィッシュは6回目の哨戒でフィリピン方面に向かった。9月10日から12日までダーウィンに寄港の後、最初はシブヤン海方面で哨戒したが、この海域では敵の姿を全く見ず、ボーンフィッシュは9月24日にシブヤン海を去った。9月27日未明、ボーンフィッシュはのマニラ西方240海里の海域で1隻のタンカーと2隻の護衛艦を探知し、魚雷を4本発射して1本命中させた。この攻撃で、特務艦神威を大破させた。翌9月28日未明には、のミンドロ島沖で2隻の護衛艦に護衛されたタンカー 安城丸 (拿捕船、元オランダ船アンジェリーナ/飯野海運委託、2,086トン)を発見し、魚雷を6本発射して2本命中させた。ボーンフィッシュは、魚雷が命中した安城丸が急速に速力が低下していく姿を観測し続けた。戦後の日本の記録では、安城丸はこのまま沈没したと結論付けられた。9月30日、ボーンフィッシュはフラッシャー、レイポン ("USS Lapon, SS-260") と合流してウルフパックを構成した。10月10日、ボーンフィッシュはレイポンとともにのルソン島ボリナオ岬近海でタマ29船団を発見、4,000トン級輸送船に対して魚雷を6本発射し、3つの命中を得たと判断された。レイポンは輸送船江尻丸(日本郵船、6,968トン)を撃沈した。この後、ボーンフィッシュはルソン島を攻撃する第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に対する救助配備任務にも就く。10月14日、ボーンフィッシュはのリンガエン湾南西沖で2隻の輸送船と護衛艦を発見し、二番目の目標に対して魚雷を4本発射。魚雷は輸送船伏見丸(東洋海運、2,546トン)に命中してこれを撃沈した。10月19日未明には、空母バンカー・ヒル ("USS Bunker Hill, CV-9") 所属の2名のパイロットを救助した。その夜、ボーンフィッシュは哨戒海域を去り、10月27日にサイパン島に入港して燃料を補給した。11月8日、ボーンフィッシュは62日間の行動を終えて真珠湾に帰投。サンフランシスコに回航され、11月18日から1945年2月13日までベスレヘム・スチールでオーバーホールに入った。終了後、モントレーで訓練を行い、3月20日に真珠湾に戻った後、次期哨戒のためグアムアプラ港に回航された。4月6日、ボーンフィッシュは7回目の哨戒で東シナ海に向かった。しかし、この哨戒ではわずかな接触しかなかった。そのほとんどは対潜艦艇であり、4月13日夜にはの地点で、そのうちの1隻を撃沈しようと接近し、魚雷を3本発射したものの命中せず、目標は大急ぎで去っていった。4月16日には、朝鮮半島南方で2人の日本人パイロットを救助。4月21日から22日にかけては、対馬海峡のうちからに至る海域における機雷の敷設状況を調査した。5月7日、ボーンフィッシュは31日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した。5月28日、ボーンフィッシュは8回目の哨戒でバーニー作戦に参加して日本海に向かった。このバーニー作戦は、この時点の日本に残されたほぼ唯一の重要航路に打撃を与えるものであり、対馬海峡の機雷原突破と日本海を悠然と航行する日本船は、目標の減少に嘆いていた潜水艦部隊にとっては絶好のスリルであり獲物であった。この作戦には9隻の潜水艦が投入され「ヘルキャッツ」 Hellcats と命名された。各潜水艦は三群に分けられ、シードッグ ("USS Sea Dog, SS-401") 艦長のアール・T・ハイデマン少佐(アナポリス1932年組)が総司令となった。ボーンフィッシュはタニー ("USS Tunny, SS-282") 、スケート ("USS Skate, SS-305") と共にウルフパック「ピアースズ・ポールキャッツ」 "Pierce's Polecats" を組み、第一陣「ハイデマンズ・ヘップキャッツ」 "Hydeman's Hep Cats" が5月27日に出撃してから24時間後に出航し、対馬海峡に進出した。リレー式に対馬海峡を突破したシードッグ以下の潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時と定められていた攻撃開始を待った。「ピアースズ・ポールキャッツ」は能登半島以西の沿岸部に進出した。6月16日朝、ボーンフィッシュはの丹後半島の沖でタニーと会合して戦果報告を行ったが、その報告と日本側資料によれば、6月13日にの能登半島輪島の沖合い120キロ付近で、新潟から清津に向かっていた輸送船牡鹿山丸(三井船舶、6,892トン)を発見し、ボーンフィッシュは牡鹿山丸を雷撃によりあっさり撃沈した。牡鹿山丸はバーニー作戦で撃沈した最も大きな艦船だった。ボーンフィッシュとタニーは十分な間合いを取りながら6月18日朝まで共に哨戒を行い、またボーンフィッシュは日本と羅津、清津間の交通路を断つべく富山湾での白昼潜航哨戒の許可を求めた。6月18日朝、富山湾での哨戒の許可を得たボーンフィッシュは、の若狭湾北方でタニーと別れた。これが、アメリカ側がボーンフィッシュを見た最後であった。6月23日、利尻島沖で集結した潜水艦の中にボーンフィッシュがいないことに気づき、タニーは先任艦の務めとして幾度と無くボーンフィッシュとの交信を試みたが徒労に終わった。7月30日、ボーンフィッシュは喪失したと判定された。6月19日、能登半島松波に面する七尾湾で輸送船坤山丸(興国汽船、5,488トン)がボーンフィッシュの雷撃により撃沈された。この時、近くの富山湾では海防艦沖縄と第207号海防艦、第63号海防艦の3隻の海防艦で編成されていた第三十一海防隊が訓練を実施していたが、「商船(坤山丸)一隻敵潜雷撃を受け七尾沖にて沈没」の報を受けて現場に急行。坤山丸の生存者を発見することは出来なかった。しかしその時、沖縄の三式水中探信儀が潜水艦の強いエコーを捉えた。沖縄は爆雷の爆発深度を90メートルと120メートルに設定し攻撃を開始。第207号、第63号もこれに続いた。また、近くを航行中だった2隻の海防艦、第75号海防艦と第158号海防艦が応援に駆けつけ爆雷攻撃を実施した。執拗に攻撃した結果エコーが消滅し、翌日になると周辺の海面にはおびただしいコルク片や重油の帯が流出していた。これがボーンフィッシュの最期だった。ボーンフィッシュの沈没位置は、アメリカ側記録ではとなっている。ボーンフィッシュを撃沈した5隻の海防艦は舞鶴鎮守府司令長官田結穣中将から以下のような感状を授与された。ボーンフィッシュは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。また第1、第3、4、5、6回目の哨戒の功績で海軍殊勲部隊章を受章している。なお、ボーンフィッシュの撃沈に貢献した殊勲の5隻の海防艦は、沖縄が1945年7月30日、舞鶴にて空襲を受け大破着底した以外はすべて無事に終戦を迎えた。

出典:wikipedia

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