住居表示に関する法律(じゅうきょひょうじにかんするほうりつ、昭和37年5月10日法律第119号)は、住居表示の制度とその実施についての措置を定めた日本の法律である。略称は住居表示法(じゅうきょひょうじほう)。この制度が実施される区域内の住所は、町名・字名と地番ではなく、町名・字名と街区符号と住居番号または道路の名称と住居番号で表される。明治以来の日本では、町名・字名と地番によって住所を表示するのが慣習となっている。しかしながら、町の区域の境界が複雑で不明確である、同一市町村内に同一・類似の町名がある、土地の並ぶ順序と地番の順序とが一致しない、同一地番の土地の上に多数の家屋がある、などの問題があるために、住所を頼りに訪問先を探し当てたり郵便物を配達したりするのが困難で、町名・地番の混乱が住民の日常生活・経済活動や行政事務の障害となっている地域が全国の市街地に見られた。本法は、このような状況を解消するために制定されたものであり、住居表示の方法(第2条)、住居表示の実施手続(第3条)、町・字の区域の合理化(第5条第1項)、住居表示の使用義務(第6条)、街区表示板の設置義務・住居番号の表示義務(第8条)などを規定する。また、本法の施行後、住居表示の実施に際して、従来の町名と縁もゆかりもない新町名の採用や従来の町区域の全面的改編が住民の反発を招いた事例があったことから、町・字の変更手続の特例(第5条の2)、旧町名・字名の継承措置(第9条の2)などの規定が追加されている。住居表示法制定の経緯は次のとおりである。江戸時代以前の検地でも、土地の区画ごとに番号を付けることがあったようだが、その番号を住所の表示に利用することはなかったようである。明治初期に発行された地券でも、持主の住所は「何国何郡何村字何」と記載されており、住所に地番は使われていない。1860年9月29日(万延元年8月15日)に江戸幕府の代表と欧米の領事とが結んだ「長崎地所規則」では、外国人が長崎の外国人居留地の土地を借り受けるときは、土地の番号を彫刻した境界石が設置されることになっていたので、江戸時代に地番が一切なかったわけではない。1871年5月22日(明治4年4月4日)に布告された戸籍法では、住所は番号によって「何番屋敷」と記すことが定められた。1872年2月21日(明治5年1月13日)の太政官布告には、戸籍の番号には土地ごとに付す番号を用いるが、戸ごとに番号を付しても構わない、という意味に解釈できる規定がある。1886年(明治19年)には、戸籍法の細則を定める、という建前で、内務省令と内務省訓令により、戸籍制度の実質的改正が行われた。これにより、戸籍の住所(現代でいう本籍でもあり、住民票の住所でもある)には地番が採用された。地方によっては、この改正後もなお、戸籍の住所に屋敷番が使われた。実際、戸籍の記載には、土地の番号(何番地)、戸番(何番戸)、屋敷ごとの番号(何番屋敷)のいずれかが用いられ、地方によりまちまちであったという。1898年(明治31年)、戸籍法が全面改正された。この戸籍法では、戸籍は地番の順に綴って帳簿とすること、地番の変更があったときは戸籍の地番の記載は更正されたものとみなすこと、が定められた。このような経緯で、明治初期に登場した戸番、屋敷番は廃れ、日本では町名・字名と地番との組合せで住所が表示されるようになった。その後、日本の都市では、町名・地番の混乱により、郵便物の配達が困難であるなどの社会的な問題が生じた。昭和初期、藤井崇治の発案で逓信省では「郵便戸番」の研究が行われた。藤井は、町名・地番の混乱のために日本の郵便配達が効率的でないことを指摘し、六大都市とその周辺では街路ごとに整然と付けた戸番を郵便の宛先に使うべきであると論じた。東京電力は、検針・集金のために地番があてにならないとして、独自の「画標制度」を考案し、1958年(昭和33年)から使用した。画標制度は、航空写真に基づいて、街区に番号を付け、街区ごとに家々に戸番を付けるというものであった。1959年(昭和34年)3月、郵政省など多数の団体によって番地整理促進協議会が結成された。同年12月15日、第33回国会で、参議院地方行政委員会は、町名地番の混乱に対する対策を政府に求める決議をした。自治省は、当初、地番を「ブロック地番方式」で整理することにより地番の混乱が解消できると考えた。そこで、町名を所管する自治省と地番を所管する法務省は、1960年度(昭和35年度)、荒川区、川越市、塩竈市を町名地番整理実験都市に指定し、その一部区域で町名地番整理を実施した。実験の結果、町界・町名の整理はともかく、地番の付け替えは、測量が必要になる場合もあり、時間と経費を要することが明らかになった。法務省民事局第三課長香川保一は、当時、「いわゆる番地が乱れていることは事実だが、これをいじるなら土地を再測量しなければ困る。しかし、現状からすると巨額な費用がかかるから不可能。」と述べた。法務省の登記所は、当時、土地台帳・家屋台帳を不動産登記簿に統合する作業に忙しく、地番整理に取り組む余裕がなかった。1960年(昭和35年)6月、総理府は自治省の依頼により町名地番の整理に関する世論調査を実施した。調査は、人口20万人以上の市の世帯主3,000人を対象に行われた。回答者中の56%が「現在の町名地番は一般にわかりにくという印象」と答えた。町丁の境界については、「道路、河川などを基準としてきめた方がよい」と回答した人が61%、「商店会、自治会、町内会等を基準とした方がよい」と回答した人が16%であった。過去10年間に町名地番整理を経験した回答者のうち56%が「よかった」と答え、3%が「悪かった」と答えた。しかしながら、回答者自身が当時居住していた町丁の町名を変えた方がよいと答えた人は4%にすぎず、83%は「今のままでよい」と答えた。1961年度(昭和36年度)にはまた、福岡市、甲府市、伊勢崎市など5市が実験都市に指定され、町名地番整理が行われ、また、住居表示に関する実験が行われた。1961年(昭和36年)5月、町名地番制度についての根本方針について審議させるため、総理府に「町名地番制度審議会」が設置された。この審議会の委員は次の15名であった:青木均一(東京電力社長)、大野木克彦(東京市政調査会理事)、荻田保(地方財政審議会委員)、辰野隆(東京大学名誉教授)、戸塚文子(評論家)、牧田弥太郎(弁護士)、松方三郎(共同通信社顧問)、森昌也(島田市長)、川島武宜(東京大学教授)、高山英華(東京大学教授)、田上穣治(一橋大学教授)、馬場義続(法務事務次官)、石田正(大蔵事務次官)、加藤桂一(郵政事務次官)、小林與三次(自治事務次官)。審議会の第4回総会では、東京電力の営業課長が画標制度の説明をした。そして、審議会は、内閣総理大臣からの諮問を受けて、1961年(昭和36年)11月に「町名地番制度の改善に関する答申」を出した。その答申では、財産番号である地番の整理には困難と多額の経費を要するので、市街地の住居表示のためには、地番ではなく、諸外国のハウスナンバーのような住居表示自体の目的のための番号を採用すべきであるとされた。この答申を受けて、住居表示法案が1962年(昭和37年)の第40回国会に内閣から提出され、成立した。参議院本会議では、住居表示事業について「住民の理解と協力を得るに遺憾なさを期すること」、「出来得るかぎり短期間に完了し得るよう計画的に行なうこと」などを政府に求める附帯決議がなされた。附帯決議では、「町および字の区域あるいは名称の合理化、平明化をはかるべきものである」とされた。東京電力の社報では、街区方式の住居表示は「当社の画標制度をモデルとして」生まれたものとされている。住居表示法は1962年(昭和37年)5月10日から施行された。1962年度(昭和37年度)は全国のモデル都市で住居表示の実験が行われた。実験と並行して、自治省に設置された住居表示審議会で住居表示の実施基準についての審議が行われた。1963年(昭和38年)7月8日、住居表示審議会は「住居表示実施基準に関する答申」を出した。同月30日、答申を受けて自治大臣は、住居表示法第12条の規定に基づく「街区方式による住居表示の実施基準」を告示した。以後、全国各都市で本格的に住居表示が実施された。制定当初の住居表示法附則第2項は、1962年(昭和37年)5月10日時点で市街地である区域では1967年(昭和42年)3月31日までに住居表示事業を完了することを努力目標として規定していた。住居表示法の施行当初数年間は、住居表示の実施について、自治省から市町村に補助金が交付されていた。また、郵政省からは、住居表示を実施する市町村に対して、住居番号表示板の寄贈、はがき(住居表示が実施される区域内の各戸に配布して住所表記の変更通知に使ってもらうためのもの)の寄贈などの支援が行われた。1965年(昭和40年)7月1日現在の住居表示の進捗率は、全国で15.6%、東京都の特別区で29.4%であった。1967年(昭和42年)5月1日現在では、全国で40%程度、特別区で60%程度、政令指定都市6市で8%程度であった。このように、当時、全国の大都市の中では東京都の特別区において際立って急速に住居表示が実施された。東京都は、自治省の「街区方式による住居表示の実施基準」よりも厳しい独自の基準で各区を指導した。当時、この指導は、国の機関としての東京都知事の権限で行われた(住居表示法第10条の機関委任事務)。その結果、特に東京都の特別区において、住居表示実施に伴う町界・町名変更に関する紛争が頻発した。1960年(昭和40年)には、文京区向ヶ丘弥生町2番地・3番地の住民83名が、根津一丁目への編入を不服として、町区域名称変更処分の取消しを求める訴えを提起した。この訴訟の原告には団藤重光(東京大学法学部長)、勝本正晃(東北大学名誉教授)、サトウハチロー(詩人)も加わっていた。この訴訟を嚆矢として、特別区内では、町界・町名変更の取消しを求める訴訟が数件提起された。このうちの1件が1960年(昭和40年)に提起された「目白地名訴訟」であり、1973年(昭和48年)1月19日の最高裁判所第2小法廷判決により、住民は町界・町名変更の取消しを求める訴えの原告適格を欠くとして住民の訴えを却下した第1審判決が確定した。また、訴訟に至らないまでも、町界・町名変更の反対運動が特別区の各地で起こった。東京がこのような状況にあった1965年(昭和40年)6月、自治省からは「街区方式による住居表示の実施基準」の運用に関する通知が出された。この通知では、町の名称について「関係住民の意向をも尊重するように配慮すること」、町の規模について「地域社会の実態についても配慮すること」、町の境界について「住居表示実施区域の状況等によっては、公共溝渠、コンクリート塀等であっても、それが恒久的な施設として認められるものについては、これらによって町の境界とすることもさしつかえない」、丁目について「町名を親しみ深いものにするため、丁目を用いることの利害得失を十分検討して定めること」としている。1966年(昭和41年)11月、内閣総理大臣佐藤榮作は官房長官愛知揆一に対して、「複雑な町名などを整理するための自治省の行政指導が、部分的には行き過ぎもあるようなので、町名変更に関しては自治省からあまりに強い圧力的なものはかけないよう」に指示をした。愛知は記者会見で「住居表示に関する法律の適用は佐藤首相の指示でお役所の画一的な運用で歴史的、文化的な町名が失われることのないよう自治省に注意を促す」と述べた。その後、自由民主党衆議院議員の岡崎英城の構想に基づき、各党協議の上、住居表示法の改正案が準備され、1967年(昭和42年)の第55回国会(特別会)に衆議院地方行政委員会から提出された。提案の理由は、「これまでの実施状況を見ますと、往々にして町の区域の全面的な変更のなされるきらいがあるのみならず、町の名称につきましても、従来の町の名称と縁もゆかりもない画一的な名称をつけられることが間々あり、このため各地区で住民感情を傷つけ、また、由緒ある町名の消滅を招くため、関係住民はもとより、世の識者からも批判を受ける事例が少なくない」ことから、「住居表示の実施のための町または字の区域の変更にあたっては、できるだけ、従来の区域及び名称を尊重するものとするとともに、住民の意思を尊重しつつ慎重に行なうよう手続を整備しようとする」ためである。改正は同国会で成立し、1967年(昭和42年)8月10日から施行された。第1次改正後の1979年(昭和54年)に実施された住居表示に伴う町界・町名変更の無効確認または取消しを求める訴えの上告審において、最高裁判所第1小法廷は、1983年(昭和58年)3月3日に「目白地名訴訟」の判決を踏襲する判決をした。1983年(昭和58年)9月16日に自治省振興課長は各都道府県の部長に通知を出した。この通知によると、第1次改正後も、「なお一部の市町村において、法改正に伴う住居表示に関する手続規定の手直しが行われていない等のため、町名について従来の名称と縁もゆかりもない画一的な名称をつける等必ずしも適正とはいいがたい事例も見受けられ」た。そして、この通知では「現在の町区域及び町名はそれ自体が地域の歴史、伝統、文化を承継するものである」から、「今後の住居表示の実施に当たっては、住民の意思を尊重しつつ、みだりに従来の町区域を全面的に改編し、整一化を図ったり、また、町名を全面的に変更するということのないよう」都道府県が市町村を指導することを求めた。1984年(昭和59年)6月26日、住居表示法の改正を目指す超党派の「地名保存議員連盟」が発足した。同日の第1回総会には、国会議員とその代理合計約120名が出席し、総会では、自由民主党の宇野宗佑が会長に、日本社会党の細谷治嘉が副会長に、自由民主党の与謝野馨が事務局長に選出された。そして、安易な地名変更を阻止するために、次の通常国会における議員立法による住居表示法改正を目指して活動することが決められた。この議員連盟の活動の結果、「なお一部の市町村におきましては、町名について従来の名称と縁もゆかりもない名称をつける等必ずしも適正とは言いがたい事例も見受けられる」状況を踏まえ、「町名等はそれ自体が地域の歴史、伝統、文化を承継するものであることにかんがみ、住居表示の実施に当たって旧来の町名等がより一層尊重されるよう、町名等を定めるときは従来の名称に準拠することを基本とするとともに、住居表示の実施に伴い変更された由緒ある町名等の継承のための措置を講じようとする」ため、住居表示法の第2次改正案が第102回国会に衆議院地方行政委員会から提出された。改正は同国会で成立し、1985年(昭和60年)6月14日から施行された。自治省振興課編『住居表示制度の解説(改訂版)』(政経書院、1986年)は、住居表示法の逐条解説、住居表示の実施基準、住居表示に関する自治省からの通知などを含む住居表示制度の解説書である。なお、2015年(平成27年)現在、住居表示制度を所管するのは総務省自治行政局住民制度課である。
出典:wikipedia
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