ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス(, 紀元前228年 - 紀元前174年頃)は、共和政ローマの軍人、元老院議員。第二次ポエニ戦争後のマケドニア遠征で主に活躍した。彼が最初に歴史に登場するのは第二次ポエニ戦争時期、トリブヌス・ミリトゥムとしてである。そして紀元前205年には。紀元前203年にはアエディリスに、紀元前199年にはクァエストルを就任、そして当時基準の年齢30歳よりも若かったが、紀元前198年には執政官に選ばれた。ティトゥス・リウィウスによると、フラミニヌスはいまだクァエストルを経験したばかりであったために、彼が執政官に立候補する事に対して護民官などから反対が少なからずあったという。執政官として軍団指揮権を保持した彼はプブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムスの後継としてアンティゴノス朝との第二次マケドニア戦争に従軍、マケドニア王ピリッポス5世を追撃し、アオウスの戦いで勝利した。しかしながら戦役の最中に彼の執政官の任期が切れ掛かっていたために休戦交渉を始め、この休戦期間を利用して彼は前執政官に就任、戦争を継続し、紀元前197年にキュノスケファライの戦いでマケドニアを破った。この戦いでローマで生まれた軍制であるレギオはギリシア古来の軍制ファランクスよりも優れていることが証明された。ピリッポス5世はローマに降伏、彼が攻め落としたすべての都市を放棄することとさらに1,000タレントゥムの賠償金をローマに支払う約束をさせられた。このローマが下した判断は、しかしながら、マケドニアを敵視していたアカイア同盟には不満であった。紀元前196年にはフラミニヌスはコリントスの運動競技会に出席、ここでマケドニアからのギリシアの解放を宣言する。フラミニヌスはギリシア語に堪能で、またギリシア文化の信奉者であったため、ギリシア人は彼を解放者として一部の都市では神と崇められるまでに褒め称え、横顔を刻印した硬貨を発行するほどであった。またリウィウスによれば、フラミニヌスのこの行動は彼の純真なギリシア人への尊敬から出ていたというが、同時に彼はギリシアを解放することによってマケドニアに対抗する形でローマの影響力をギリシアで強力にすることができるという利点も理解していたという。そしてアカイア同盟とともに彼はローマ軍を率いてスパルタとのナビス戦争に勝利し、ローマに帰還し凱旋式を挙げた。アッタロス朝のエウメネス2世がセレウコス朝のアンティオコス3世の侵略に対しての助力を要請してきたのに応じて、紀元前192年フラミニヌスは交渉のため再び東方へ赴き、アンティオコス3世に対しこれ以上のギリシアへの干渉を中止するよう警告する。東方に広大な領土を持ち諸部族を治め「大王」を自認していたアンティオコス3世は、ローマ人であるフラミニヌスが何故ギリシアを代表して警告を発するのが理解できなかったという。交渉の末に、ローマが干渉をやめるのならセレウコス朝も手を引くと約束したが、この約束は守られず、すぐにローマはセレウコス朝と武力衝突に発展する。そして紀元前191年フラミニヌスはテルモピュライの戦いでアンティオコスを破った。紀元前183年にカルタゴから亡命したハンニバルを捕らえるためにビテュニアへ赴くが、ハンニバルは自害、目的は果たせなかった。以後の彼の行動はよく分かっていない。紀元前174年頃に没した。
出典:wikipedia
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