山口 弘定(やまぐち ひろさだ、生年不詳 - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は、戦国時代後期から江戸時代初期の武将である。加賀大聖寺城主山口宗永の次男。左馬助。兄に右京亮山口修弘。木村重成の妹婿。子女は松平正綱室。父山口宗永と兄山口修弘は、慶長5年(1600年)8月3日、関ヶ原の戦いの前哨戦において、東軍前田利長の前に籠城したが大聖寺城を落とされ戦死した。弘定は父の遺志を継いで、豊臣秀頼に仕え、大坂城に入城することになる。大坂の陣では義兄の木村重成隊に属し奮戦したが、若江の戦いで井伊直孝隊に討ち取られた。弘定と兄の修弘の名前には、大内氏の通字である「弘」が含まれている。織田氏・徳川氏に仕えた山口重政に始まる大内氏庶流の山口氏(牛久山口氏)も通字として「弘」を使っているが、彼らとの関係は定かではない。弘定を討ち取った井伊勢の先鋒に山口重政・重信・重克親子が加わっており、重信は木村重成に討ち取られ、重克もまたそこで戦死した。また、木村重成の子孫は、牛久藩に召し抱えられたという説がある。墓は第二寝屋川の南側、八尾市幸町の公園にある。木村重成の墓の左横。
出典:wikipedia
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