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東京都電車

東京都電車(とうきょうとでんしゃ)、通称都電(とでん)は、東京都電車条例に基き東京都交通局が経営する路面電車である。2016年4月現在、荒川区の三ノ輪橋停留場から新宿区の早稲田停留場を結ぶ荒川線12.2kmの1路線1系統のみが運行されている。1903年から1904年にかけて当時の東京馬車鉄道を電化した東京電車鉄道と、新規開業の東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社が相次いで路面電車を開業し、1909年3社が合併して東京鉄道となった。さらに1911年に当時の東京市が同社を買収したことで東京市電となり、さらに1943年の東京都制施行によって都電となった。かつては荒川線のほかにも多くの路線を有し、最盛期(1955年)には営業キロ約213km、40の運転系統を擁し一日約175万人が利用する日本最大の路面電車であったが、1960年代以降はモータリゼーションの進展や営団地下鉄、都営地下鉄の発達もあって利用者の減少と採算性の悪化が深刻化していった。1967年に運営母体である東京都交通局が財政再建団体に指定されると、再建策の一環として1972年までに荒川線以外の全路線が地下鉄および都営バスに転換され廃止とされたが、1974年荒川線の恒久的な存続が決定し今日に至っている。東京では市内交通を目的とする鉄道として東京馬車鉄道が1882年(明治15年)に開業し、繁忙時には1時間に60から70台ほどと1分間に1台以上の頻度で運行されていた。しかし頻繁な運転で道路が著しく損壊すること、動力が馬匹である以上輸送力に限界があることや、馬糞が道路上に散乱するという衛生上の問題から沿線住民の苦情が絶えない状態であった。そのため1889年(明治22年)には早くも路面電車の敷設計画が持ち上がり、大倉喜八郎、藤岡市助ら東京電燈関係者を中心とするグループが架空単線式、立川勇次郎を中心とするグループが蓄電池式の路面電車敷設計画を出願した。もっとも当時は電気鉄道に関する技術が確立されて間もない時期であり、この時点ではどちらの出願も却下された。その後、1890年(明治23年)に東京・上野恩賜公園で開催された第三回内国勧業博覧会において、東京電燈が行った日本初の電車の展示運転が来場者の好評を博したことで電気鉄道に対する認識を高めることに成功した。東京でも1893年(明治26年)頃には再び路面電車の敷設計画が相次いで出願されるようになり、当初は多くの計画が乱立して互いにけん制しあっていたが、最終的に東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社に特許が与えられ、最初の路線として東京電車鉄道が1903年(明治36年)8月22日に品川 - 新橋間、東京市街鉄道が同年9月15日に数寄屋橋 - 神田橋間、東京電気鉄道が1904年(明治37年)12月8日に土橋 - 御茶ノ水橋間をそれぞれ開業させた。しかし開業後間もない1904年(明治37年)2月8日に日露戦争が勃発すると、戦費調達のための臨時増税として鉄道運賃に通行税が課せられることになり、さらに1905年(明治38年)5月からは内務省の要請で学生、労働者向けに早朝割引を行うことになった。これらの負担で3社の経営が圧迫される一方、市民の間では異なる会社間で乗り換える場合にはその都度運賃を支払わなければならないことへの不満が高まっており、運賃を3社共通化すべきという声が大きくなっていた。そこで3社は市民の声に応えると同時に経営改善を図るため、1906年(明治39年)3月12日に運賃の共通化と3銭均一から5銭均一へ値上げを東京府を通じて内務省に出願した。これに対し東京市会が府知事からの諮問に4銭均一を主張する答申を提出するなど値上げ反対の動きを見せたため、3社の出願は「含意不備」として却下された。そこで3社は同年7月6日、合併して合理化に努めることなどを条件に4銭均一への値上げを再度出願し、市会の答申内容にも適うことから8月1日に合併と値上げを認可された。しかし日露戦争に伴う増税が相次ぐ情勢下での値上げに市民の反発は大きく、市会への陳情や市民集会などの反対運動が連日行われるようになった。9月5日には日比谷公園で開かれた反対集会の参加者が暴徒化して電車が投石、焼き討ちされる事件まで発生したが、3社は9月11日に東京鉄道(東鉄)を設立して合併し、翌9月12日に4銭均一への値上げを実行した。この一件を境に路面電車の市有化を求める機運が高まり、かねてから市有化を主張していた尾崎行雄市長ら市参事会員が中心となって、1907年(明治40年)12月から東鉄との間で買収交渉が開始された。交渉の結果、12月15日には東鉄を総額6750万円で買収する仮契約が結ばれ、市会や株主総会の議決も得られたことから、東京市は翌1908年(明治41年)1月に買収の認可を内務省に申請した。ところが買収原資に市債を発行する計画であったため、巨額の市債が東京市の財政を圧迫するばかりでなく日露戦争で増加していた国債にも悪影響があるという理由から、1908年(明治41年)7月6日に申請は却下されてしまった。これを不服とした東京市は再度申請しようとしたが、東鉄が意見を翻して反対にしたため不首尾に終わり、7月13日には尾崎市長以下助役3人など市参事会員全員が引責辞任し最初の買収交渉は失敗に終わった。買収交渉が失敗に終わった同年の12月、東鉄は5銭均一、一回につき1銭の乗り換え手数料徴収などからなる値上げ案を出願し、やはり市民の強硬な反対運動を招いていた。この頃、独占企業に対する市民運動が活発化しており、監督官庁である内務省と逓信省も反対運動を無視できなかったことから東鉄の出願を却下し、さらに当局内でも東鉄の公有化が本格的に検討されるようになっていった。1909年(明治42年)10月26日には後藤新平逓信大臣が尾崎市長に対しの3項目からなる覚書を示し、条件を守れる場合には市有化を認めるとしたため、東京市は二度目の買収交渉が開始したが買収条件の折り合いがつかず妥結にはいたらなかった。しかし東鉄による未成線建設が遅々として進んでいないことも事実であり、内務省も今後の市内交通の改善を営利企業である東鉄には期待できないと判断し、1911年(明治44年)6月には平田東助内務大臣一木喜徳郎内務次官、後藤逓相らが尾崎市長に対し買収方法や会計処理などについての命令条項を示して東鉄買収を勧告するに至った。この勧告を基に東京市は同年7月1日から三度目の買収交渉が開始し、貯蔵品や建設費の評価について対立があったものの、7月5日には買収総額6416万5518円で妥結し仮契約を結んだ。ただし買収後の建設費などを含めた市債発行額は8934万円にのぼったため、買収価額が過大であるという批判もあったが、東京市会は7月9日に賛成43対範囲7の賛成多数で買収案を可決し、東鉄の路面電車事業および電力事業は8月1日より有楽町の旧東鉄本社屋に開庁した東京市電気局に引き継がれ東京市電が発足した。区間ごとの正式な線路名称を基準に記し、当該区間または複数の区間をまとめた通称がある場合は付記する。運転系統は1962年を基準とする(26系統を除く)。電停の名称は、最終運行時のものである。高円寺線・荻窪線は杉並線の通称を持っていた。これらは軌間が1067mmであった。戦後全盛期(1955 - 1963年ごろ)の系統数41は日本の路面電車史上最多である。とはいえ、放射状に広がる広大な路線網を効率的に運行するため、各系統の独立性が高く、単一系統しか通過しない区間も多かった。同じ理由により、他の大都市(例:京都市電)で見られた循環系統も存在しない。なお、この全41系統は一時期にすべて揃っていたわけではない(26系統の廃止後に41系統が新設された)。1974年10月1日をもって、それまで残っていた27系統と32系統が「荒川線」として統一され、系統番号は消滅した。都電は道路を運行していたため、廃線跡はほとんどの場合道路に埋もれてしまい、現存していない。しかし、一部の専用軌道など、廃線跡として残っているものもある。港区芝浦二丁目にあった、都電の車両工場へ繋がる専用の橋である船路橋は、21世紀初頭まで残っていた都電の数少ない廃線跡であった。対岸の工場跡には難民やホームレスの収容施設が建てられたこともあった。しかし、工場跡地を含む一帯が芝浦アイランドとして再開発されるのに伴い撤去された。小松川線は東京地下鉄道(旧・城東電気軌道)の路線を継承したもので、錦糸町起点は1947年9月までは江東橋線錦糸堀電停とは繋がっておらず、錦糸町駅前交差点南東角の白木屋錦糸町店の1階に位置しており、そこから京葉道路(国道14号)に出ていた(小松川線の項参照)。建物はその後東京都交通局の外郭団体が経営する「江東デパート」という名のショッピングビルになっていたが、老朽化のため隣接する富士銀行(現・みずほ銀行)錦糸町支店とともに1990年に東京トラフィック錦糸町ビルに建て替えられ、痕跡は残っていない。砂町線は水神森から大島一丁目までは明治通りに沿うような形の専用軌道となっており、途中竪川を専用橋で渡っていたが、廃線後は竪川を境に以北は亀戸緑道公園、以南は大島緑道公園として整備され、専用橋は「竪川人道橋」としてそのまま歩行者専用橋に転用された。その後、竪川河川敷公園の整備と橋の老朽化に伴い、2011年9月に竪川人道橋は撤去され遊歩道の一部となり、橋のあった部分にはレールの装飾が設置されている。また、橋の北詰には、亀戸九丁目付近で使われていた実際のレールと、車輪のモニュメントとともに説明板が設置されており、南詰には橋のデータの説明板(橋の撤去後に設置)が設置されている。砂町線は南砂三丁目から南砂二丁目までも専用軌道になっていた。南砂三丁目交差点附近から西へ入って小名木川貨物線を潜り、江東南砂団地(旧:汽車会社東京支店工場跡地)をぐるりと囲むように東陽町まで延びていた専用軌道跡は、南砂緑道公園として整備されている。小松川線も亀戸九丁目より国道14号から外れて終点の西荒川まで専用軌道が続いていた。廃線後もしばらくの間空き地となっていたが整備され、江東区側の大部分は「浅間通り」と言う名称の道路として整備された。旧中川を渡っていた専用橋跡は1995年同じ場所に「亀小橋」という名称の道路橋が架橋された。道路橋から先は再開発事業に伴い、江戸川区さくらホールと新築移転後の小松川第二小学校の敷地、区道、病院の敷地にそれぞれ取り込まれ、また終点西荒川駅跡は首都高速7号小松川線の高架脇の側道となっているが、これも再開発事業に伴い周囲が更地となり、かつ2002年までにスーパー堤防として整備されたため地形も変形しており、面影はまったく残っていない。東荒川より今井橋までの全線は今井街道上ではなく、専用軌道であった。現在の起点の東荒川は首都高速7号小松川線の高架下で児童公園になっており、南に折れる形で道路として続いている。小松川境川親水公園を跨ぎ、東小松川二丁目西児童遊園を経て、船堀街道から先は一旦民地(宅地)に取り込まれる。途中廃線跡に設置された貞明児童遊園がある。また、一之江境川親水公園の上にガーダー橋が掛けられているが、都電設置時と位置が異なっている。この先廃線跡は保育園敷地や道路となり、また新中川開削時に水没している。終点の今井橋は新大橋通りの高架下付近となっている。なお、都営新宿線の一之江駅は一之江線の一之江電停跡ではなく、瑞江電停跡付近に立地している。上野公園前より池ノ端二丁目までの区間。不忍池の畔の専用軌道跡は、入り口付近が下町風俗資料館となり、そのまま上野動物園までは公園内歩道として跡を辿ることができるが、モノレール高架下より先は動物園敷地のほか、上野グリーンクラブ敷地等の民地となっている。専用軌道から不忍通りに出る池之端二丁目電停跡地は台東区の手により池之端児童公園として整備され、線路が敷かれてその上に東京都交通局7500形電車(7506号)が設置され、静態保存されている。荒川線面影橋電停は1949年12月1日から1968年9月29日までは15系統戸塚線が分岐していて、北へ曲がる32系統早稲田線(現・荒川線)に対し、暫く専用軌道で直進し、南に曲がり、すぐ西に曲がって東京都道305号芝新宿王子線(明治通り)上に出ていた。
この分岐点は専用軌道であったが、東京都道8号千代田練馬田無線(新目白通り)が拡張されて道路敷地に取り込まれた。また現存する荒川線の軌道敷も道路中央に移設され、それまでの専用軌道は早稲田方面への車路になった。明治通りに出るまでの軌道敷跡は高戸橋交差点南東角の歩道になっている。この部分の歩道敷は植栽があり、他の部分より広い。靖国通りから大久保車庫に向かう回送線用専用軌道の跡である。もともとは13系統が運行されていたが、1948年12月25日に13系統は明治通りから四谷三光町交差点で靖国通りに入る路線に付け替えられ、従来の軌道は翌1949年4月1日より回送用軌道として運用された。新宿区役所前交差点から新宿六丁目交差点(新田裏)へ抜ける遊歩道として整備されていて、新宿ゴールデン街を囲むような線形となっている。13系統は角筈から先も新宿通りに線路が向かっており、新宿通りとの交点に角筈終点があった。1953年6月1日に廃止され、跡地は区画整理され、現在は道路(新宿区道11-60号線)となっている。東大久保(抜弁天)より新田裏(新宿六丁目交差点)までの区間。牛込より新宿駅方向にかけて下る坂道で、途中に大久保車庫があった。道路として整備され、現在は牛込より新宿駅方面への一方通行道路となっている。信濃町駅南口に、中央線をまたぐ専用橋があった。現在は外苑東通りの道路敷に取り込まれているが、都電運行時はこの箇所にのみ道路が無く、道路は西側に外れて迂回しており都電の線路だけが南へ直進していた。若葉一丁目から赤坂見附までの区間。専用軌道は両端から坂を下る形で見附跡のトンネルをくぐっていた。なお、このトンネルは都電唯一の専用トンネルだった。1963年7月にトンネルは廃止され、赤坂方は首都高速4号新宿線の敷地となり、トンネル入口は首都高速の赤坂トンネル入口に改築されている。四谷方は桜並木となっている。1963年より1967年12月までの同区間は外堀通り脇の専用軌道を単線で運行していたが、こちらは外堀通りの歩道となっている。1911年8月3日、前身の東京市街鉄道が渋谷地区まで延伸した際の終点は「中渋谷」であった。宮益坂下から渋谷川を渡り、山手線をくぐらずそのまま直角に向きを変えて山手線に沿い、現在の玉川通りを越えたところに中渋谷終点が位置していた。2016年現在は渋谷駅西口の工事現場となっている。1923年3月29日より1957年3月25日まで、青山線の渋谷駅前電停は渋谷駅西口に位置していた。1938年からは東急百貨店東横店西館1階に食い込むように存在していたが、これは従来あった線路の上に建物が建築されたためである。建物は現存しているが、改装されて売り場の一部になっており電停時代の痕跡は残っていない。線路跡やホーム跡は渋谷駅西口駅前広場となり、渋谷地下街の大階段出入口が建設されている。一方、1937年7月27日に玉川電気鉄道(玉電)の渋谷駅が玉電ビル(上述の東急百貨店東横店西館)建設のため、玉川・下高井戸方面と天現寺橋方面に二分され、玉川・下高井戸方面は新築建物の二階に乗り入れることになり、天現寺橋方面は東口の東横百貨店(東急百貨店東横店東館)前に乗り場が新設される。1938年11月19日以降、玉電天現寺線が東京市に運行委託され市電路線に編入されると、今度は市電乗り場が従来の青山線(西口)と引き取った天現寺線(東口)で二分されることになった。1957年3月26日以降は天現寺橋線の渋谷駅前電停に集約された。ただし、どういうわけか青山線と天現寺線のレールは最後まで繋がっていなかった。このターミナルは、都電廃止後形状を若干変更しただけで(34系統用停留所をバスに転用するため、行き止まりとなっていた部分を通り抜けられるようにした)そのまま都営バスのバスターミナルに転用され、このまま長らく使用されたが、1990年代後半に明治通りの交通運用改善を狙った駅前広場整備が実施され(バスターミナル部を西側、一般車線を東側に集約)、その際、残置されていたホーム、軌条、架線柱などはすべて撤去された。以降も同位置で都営バス乗り場として機能していたが、2016年現在は降車専用停留所となっている。戦前に廃止された区間であり、天現寺橋より伊達跡までの間は外苑西通りになっており、その先は一部が道路になっているほかは民地(宅地)になっている。開業以来、天現寺橋から西麻布を経て北青山一丁目までは専用軌道であったが、東京オリンピック関連街路整備の一環として環状4号線(外苑西通り)・補助6号線・環状3号線等の道路敷地として利用されることとなり、街路整備以降は全線にわたり併用軌道区間となった(なお、青山一丁目 - 南町一丁目間など街路中央から微妙に偏心している区間、広尾車庫前のように明確に偏側している区間もあった)。廃止時においても西側に大幅に偏側し、計画道路区域をはみ出していた広尾車庫周辺は現在、都営広尾五丁目アパートの敷地となっている。なお、開業当初については、地形上の問題や周辺施設との関連から若干廃止時の線形と異なっている部分があり、例えば当初、南青山一丁目 - 墓地下付近は陸軍の射撃場を避けるため大きく西側に回り込んでいたが、戦後すぐの段階で線形が修正されていることが確認できる。この部分は現在青山葬儀所の敷地となっている。1925年3月11日に、それまで八ツ山橋南詰にあった北品川終点に京浜電気鉄道の軌道が接続。京浜電鉄の車両が市電軌道に乗り入れて、途中の高輪南町から分岐して品川駅前の同社ターミナル・高輪駅まで、市電の車両が京浜電鉄に乗り入れて同社北品川駅までそれぞれ乗り入れた。京浜電鉄はこの直通運転のために軌間を従来の1,435mmから1,372mmに改軌した。しかしながら、1933年に京浜電鉄は横浜以南の湘南電気鉄道(1,435mm軌間)と相互直通運転を行うために、軌間を1,435mmに再改軌。市電との直通運転と高輪駅への乗り入れは打ち切られ、このとき市電の終点は品川駅前まで後退した。八ツ山橋を渡った先にはもともと京浜電鉄の物である1,435mmに改軌された併用軌道が1956年(昭和31年)6月30日まで存在しており、京急電車が通っていた。市電北品川終点跡地は京急電鉄の手で開発され、分譲マンションになっている(現在の北品川駅北側には保線車両用の側線があるが、これは市電跡地ではなく1956年7月の移設時に新設されたもの)。併用軌道を廃止する場合、事業者は原状を回復する必要があるため、原則として軌条類は撤去される必要がある。しかし、都電の大規模廃止が実施された時期は、全国的に事業者の経営問題による軌道の廃止が相次いでおり、現状復旧費用が事業者の収支をさらに悪化させる懸念があったことから、特例として軌条の上に5センチのオーバレイ舗装を行うのみで原状復旧とみなしてよいこととなっていた。このため、経年により線路のある部分が浮き出し、軌道がわかるような箇所がいくつかあったが、そのような箇所は舗装改修の際の撤去や街路拡幅工事により2000年代前半までに概ね処理された。現在も残っている部分としては、墓地下 - 学術会議前の港区道、橋梁に組み込まれている部分(中央区築地橋、勝鬨橋)などがある程度である。なお、銀座通り(通三丁目 - 新橋)については、使用していた軌条をすべて共同溝の立杭に転用しているほか、御影石は整備のうえ歩道の舗石としてリサイクルしており、大規模撤去の対象区間でありつつも、例外的に完全な撤去が行われた。若干性格は異なるが、博物館明治村に移築保存されている新大橋(一部)の橋上には、現役当時敷設されていた都電の軌道が再現されている。都電が廃止されると、その系統ごとに代替バスが運行されるようになる。系統ごとの代替バスは次のとおり。2016年(平成28年)8月現在、都電の車両は以下の6形式が使用されている。いずれもワンマン車、冷房車であり、また荒川線は停留場のホームを車両床面と同じ高さまでかさ上げしてあるため、他事業者にみられるような超低床電車の類は導入されていない。これらの車両のうち7000形については、2017年(平成29年)までに全車が8900形および7700形に置き換えられる予定である。また営業用車両ではないが、花電車として7500形を改造した花100形1両が在籍している。路線廃止に伴い余剰車両は大量に廃車され多くが解体されたが86両は他の交通機関や地方自治体、学校、企業に譲られた。函館市へ7000形10両、長崎電気軌道へ2000形6両が営業用として使用され、1000形1両は西武所沢車両工場で客車に改造され羽後交通横荘線で使用された。また5501が上野公園に展示され(のち荒川車庫での保管を経て現在は都電おもいで広場で保存)、葛飾区、調布市、板橋区、豊島区、大田区などへ公園展示用として、企業には従業員休憩所や倉庫として、ほかには幼稚園、小学校に寄贈され、千葉県は団地児童対策として15両を譲り受けている。都電の大規模撤去が開始される前の1960年(昭和35年)の時点では、都電の営業所は17か所、車庫は16か所、さらに派出所が1か所存在していた。その後都電撤去の進捗に合わせて営業所、車庫は順次廃止されていき、1972年(昭和47年)11月12日に柳島電車営業所・柳島電車車庫および錦糸堀電車営業所・錦糸堀電車車庫が廃止されて以降は、それぞれ荒川電車営業所と荒川電車車庫の1か所ずつのみとなった。各営業所が担当した運転系統は、1962年(昭和37年)時点のものである。戦前には新宿電車車庫が併設されていたが太平洋戦争の戦災で焼失し、その後大久保電車車庫に統合されたために11、12系統の車両は大久保電車車庫に収容されていた。現存する荒川線を含め、ほとんど(高円寺線・荻窪線を除く)の路線が1372mm軌間である。東京電車鉄道の前身である東京馬車鉄道がニューヨークの馬車鉄道にならってこの軌間を採用したといわれ、東京市街鉄道、東京電気鉄道も追随した。馬車鉄道に由来することから馬車軌間と呼ばれることが多い。この軌間はJR(旧国鉄)在来線の1067mmとも標準軌1435mmとも異なる特殊軌間であり、国内で東京圏以外では函館市電が採用しているのみであり、世界的に見ても珍しい。東京の私鉄では、路面電車との直通運転をもくろんでこの軌間を採用したところが少なくない。都内に残るもう一つの軌道線である東急世田谷線(旧玉川電気鉄道、開業時は1067mm)のほか、軌道線として開業し、後に鉄道路線となった京王電鉄京王線(旧京王電気軌道)は現在もこの軌間である。過去の例としては、京浜急行電鉄(戦前、京浜電気鉄道時代の一時期、現在は標準軌)、京成電鉄(旧京成電気軌道 都営地下鉄浅草線《当時は1号線》・京急線と直通運転を行なうため標準軌に改軌する以前)、新京成電鉄(1067mm→馬車軌→標準軌と2回改軌している)、東急玉川線(大部分が廃止され、現存する東急世田谷線はその支線)・横浜市電(関東大震災により多大な被害を受けた横浜市電は急遽京王電気軌道より車両を譲り受け、車両を京王電気軌道→東京市電→京浜電気鉄道というルートで自力走行させて調達した)などがある。

出典:wikipedia

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