乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した。さらに後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた。号としては、静堂、秀顕、石樵および石林子を用いた。軍人として高名になった後には、「乃木大将」または「乃木将軍」と呼称される。嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)と壽子(ひさこ、「壽」とする文献もある)との三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれた。希典の長兄および次兄は既に夭折していたため世嗣となる。幼名は無人(なきと)。兄たちのように夭折することなく壮健に成長して欲しい、という願いが込められている。父・希次は江戸詰の藩士であったため、無人は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活した。なお、この屋敷は、かつて赤穂浪士の武林隆重(武林唯七)ら10名が切腹するまでの間預けられた場所であったので、無人も赤穂浪士に親しみながら成長した。幼少時の無人は虚弱体質であり、臆病であった。友人に泣かされることも多く、無人の名にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名された。父は、こうした無人を極めて厳しく養育した。例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、無人を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。この挿話は、昭和初期の日本における国定教科書にも記載されていた。なお、詳しい時期は不明だが、無人は左目を負傷して失明している。その原因として、一説には、ある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝ている無人を起こそうとしたが、ぐずぐずして起きなかったので、「何をしている」とたしなめ、畳みかけた蚊帳で無人の肩を叩いた際、蚊帳の釣手の輪が無人の左目にぶつかってしまったことによるという。後年、乃木は、左目失明の原因を明らかにしたがらなかった。失明の経緯を明らかにすれば母の過失を明らかにすることになるため、母も気にするだろうから他言したくない、と述べたという。安政5年11月(1858年12月)、父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ、長府(現・山口県下関市)へ下向するよう藩から命じられた上、閉門および減俸の処分を与えられた。無人もこれに同行し、同年12月(1859年1月)、長府へ転居した。安政6年4月(1859年5月)、11歳になった無人は、漢学者の結城香崖に入門して漢籍および詩文を学び始めた。また、万延元年1月(1860年2月)以降、流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術なども学び始めた。しかし、依然として泣き虫で、妹にいじめられて泣くこともあった。文久2年6月20日(1862年7月16日)、集童場に入った。同年12月(1863年2月)、元服して名を源三と改めたが、依然、幼名にかけて「泣き人」と呼ばれ、泣き虫であることを揶揄された。元治元年3月(1864年4月)、16歳の源三は、学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、長府(現・山口県下関市)から70km以上離れた萩(現・同県萩市)まで徒歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。玉木家は乃木家の親戚筋であった。文之進は、源三が希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述べて、源三の弟子入りを拒絶した。しかし結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた。元治元年9月(1864年10月)から、源三は萩藩の藩校・明倫館の文学寮に通学することとなった。一方で、同年11月(同年12月)から一刀流剣術も学び始めた。一刀流については、明治3年1月(1870年2月)に、技術習得を意味する「目録伝授」されている。元治2年(1864年)、源三は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した。慶応元年(1865年)、第二次長州征討が開始されると、同年4月(同年5月)、萩から長府へ呼び戻された。源三は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)に加わった。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げた。しかし、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年(1866年)、長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に入学(復学)した。その後、報国隊は越後方面に進軍して戦闘を重ねたが、これに参加しなかった。明倫館在籍時に講堂で相撲を取り、左足を挫いたことから、藩が出陣を許さなかったのである。源三はなんとしても出陣しようと、脱藩を決意して馬関(現・山口県下関市)まで出たが、追捕され、明倫館に戻された。慶応4年1月(1868年2月)、報国隊の漢学助教となるが、11月(同年12月)には藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ。これは、従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助が、源三に対し、学者となるか軍人となるか意思を明確にせよと迫り、源三が軍人の道を選んだことから、御堀が周旋した結果発令されたという。明治2年7月(1869年8月)、京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治3年1月4日(1870年2月4日)、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官として、馬廻格100石を給された。そして、明治4年11月23日(1872年1月3日)、大日本帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した。当時22歳の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢であったが、これには、御堀を通じて知り合った黒田清隆が関与したとみられている。乃木は少佐任官を喜び、後日、少佐任官の日は「生涯何より愉快だった日」であると述べている。明治4年12月(1872年1月)、正七位に叙された源三は、名を希典と改めた。その後、東京鎮台第3分営大弐心得および名古屋鎮台大弐を歴任し、明治6年(1873年)3月、越前護法大一揆鎮圧に出動する。同年明治6年6月25日には従六位に叙される。明治7年(1874年)5月12日、乃木は家事上の理由から辞表を提出して4か月間の休職に入るが、9月10日には陸軍卿伝令使となった。この職は、陸軍卿(当時は山縣有朋)の秘書官または副官といった役割であった。なお、この時期の乃木は、まっすぐ帰宅することはほとんどなく、夜ごと遊興にふけり、山縣から説諭を受けるほどだった。明治8年(1875年)12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ、小倉(現・福岡県北九州市小倉北区)に赴任した。不平士族の反乱に呼応する可能性があった山田頴太郎(前原一誠の実弟)が連隊長を解任されたことを受けての人事であった。連隊長心得就任後、実弟の玉木正誼(たまき まさよし、幼名は真人。当時、玉木文之進の養子となっていた)がしばしば乃木の下を訪問し、前原に同調するよう説得を試みた。しかし乃木はこれに賛同せず、かえって山縣に事の次第を通報した。明治9年(1876年)、福岡県秋月(現・同県朝倉市秋月)で旧秋月藩士の宮崎車之助らによる秋月の乱が起きると、乃木は、他の反乱士族との合流を図るため東進する反乱軍の動向を察知し、秋月の北に所在する豊津(現・同県京都郡みやこ町豊津)においてこれを挟撃して、反乱軍を潰走させた。秋月の乱の直後、山口県萩(現・同県萩市)で萩の乱が起こった。この乱の最中、弟の正誼は反乱軍に与して戦死し、学問の師である文之進は自らの門弟の多くが反乱軍に参加したことに対する責任をとるため自刃した。萩の乱に際し、乃木は、麾下の第14連隊を動かさなかった。これに対し、陸軍大佐・福原和勝は、乃木に書簡を送り、秋月の乱における豊津での戦闘以外に戦闘を行わず、大阪鎮台に援軍を要請した乃木の行為を批判し、長州の面目に関わると述べて乃木を一方的に非難した。乃木は、小倉でも反乱の気配があったことなどを挙げて連隊を動かさなかったことの正当性を説明し、福原の納得を得た。明治10年(1877年)、鹿児島県で西南戦争が勃発すると、2月19日、乃木は第14連隊を率いて福岡県久留米(現・同県久留米市)に入り、2月22日夕刻、熊本県植木町(現・同県熊本市植木町)付近において西郷軍との戦闘に入った。乃木の連隊は主力の出発が遅れた上に強行軍を重ねていたため、西郷軍との戦闘に入った当時、乃木が直率していた将兵は200名ほどに過ぎなかった。これに対し、乃木を襲撃した西郷軍は400名ほどだった。乃木は寡兵をもってよく応戦し、3時間ほど持ちこたえたが、午後9時頃、退却することとした。その際に、連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が討たれ、西郷軍の岩切正九郎に連隊旗を奪われてしまう。西郷軍は、乃木隊から奪取した連隊旗を見せびらかして気勢を上げた。連隊旗喪失を受けて、乃木は官軍の実質的な総指揮官であった山縣に対し、4月17日付けの「待罪書」を送り、厳しい処分を求めた。これに対し、山縣からは、不問に付す旨の指令書が返信された。しかし、乃木は自責の念を抱いて幾度も自殺を図った。熊本鎮台参謀副長として共に戦っていた児玉源太郎(当時は乃木と同じ陸軍少佐)は自殺しようとする乃木を見つけ、乃木が手にした軍刀を奪い取って諫めたという。その後、乃木は、部下の制止を振り切って連隊を指揮し、重傷を負って野戦病院に入院したにもかかわらず、なお脱走して戦地に赴こうとしたために「脱走将校」の異名をとった。この時の負傷により、左足がやや不自由となる。熊本城を包囲していた西郷軍が駆逐された後の4月22日、乃木は中佐に昇進するとともに、熊本鎮台幕僚参謀となって第一線指揮から離れた。秋月の乱以後、西南戦争に至る一連の士族反乱は、乃木にとって実に辛い戦争であった。連隊旗を失うという恥辱もさることながら、萩の乱では実弟・正誼が敵対する反乱軍について戦死し、師でもある正誼の養父・玉木文之進も切腹するという憂き目に遭ったことから厭世的な感情に苛まれ、現実逃避と言わんばかりの放蕩ぶりを見せるようになる。西南戦争の後、乃木の放蕩ぶりは常軌を逸し、自宅よりも柳橋や新橋、両国の料亭にいる時間の方が長くなるほどであった。その放蕩ぶりを称して「乃木の豪遊」として有名になった。明治11年(1878年)10月27日、旧薩摩藩藩医の娘・お七(結婚後に「静子」と改名した。「静」ともいわれる。)と結婚する。しかし、風采優美な偉丈夫として花柳界に知られていた乃木は、祝言当日も料理茶屋に入り浸り、祝言にも遅刻した。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続いた。明治12年(1879年)12月20日に正六位に叙され、翌年4月29日に大佐へと昇進し、6月8日には従五位に叙された。明治16年(1883年)2月5日に東京鎮台参謀長に任じられ、明治17年(1885年)5月21日には少将に昇進し、歩兵第11旅団長に任じられた。また、7月25日には正五位に叙された。この間、長男・勝典(明治12年(1879年)8月28日生)および次男・保典(明治14年(1881年)12月16日生)がそれぞれ誕生している。明治20年(1887年)1月から明治21年(1888年)6月10日まで、乃木は政府の命令によって、同じく陸軍少将の川上操六とともにドイツ帝国へ留学した。乃木は、ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉デュフェーについて、『野外要務令』に基づく講義を受けた。次いで乃木は、ベルリン近郊の近衛軍に属して、ドイツ陸軍の全貌について学んだ。ドイツ留学中、乃木は軍医として同じく留学中の森林太郎とも親交を深め、その交友関係は以後、長く続いた。帰国後、乃木は復命書を陸軍大臣・大山巌に提出した。この復命書は、形式上、川上と乃木の連名であったが、川上は帰国後に病に伏したため筆を執れず、そのほとんどを乃木が単独で書いた。その内容は、軍紀の確保と厳正な軍紀を維持するための綱紀粛正・軍人教育の重要性を説き、軍人は徳義を本分とすべきであることや、軍服着用の重要性についても記述されていた。その後の乃木は、復命書の記述を体現するかのように振る舞うようになった。留学前には足繁く通っていた料理茶屋・料亭には赴かないようになり、芸妓が出る宴会には絶対に出席せず、生活をとことん質素に徹した。平素は稗を食し、来客時には蕎麦を「御馳走」と言って振る舞った。また、いついかなる時も乱れなく軍服を着用するようになった。こうした乃木の変化について、文芸評論家の福田和也は、西南戦争で軍旗を喪失して以来厭世家となった乃木が、空論とも言うべき理想の軍人像を体現することに生きる意味を見いだしたと分析している。一方、乃木に関する著書もある作家の松田十刻は、上記の「復命書」で軍紀の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく振舞わねばならないと考えての結果という分析をしている。乃木は第11旅団(熊本)に帰任した後、近衛歩兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古屋)となった。しかし、上司である第3師団長・桂太郎とそりが合わず、明治25年(1892年)、病気を理由に2度目の休職に入った。休職中の乃木は、栃木県の那須野に購入した土地(現・同県那須塩原市石林、後の那須乃木神社)で農業に勤しんだ。これより後、乃木は休職するたびに那須野で農業に従事したが、その姿は「農人乃木」と言われた。明治25年(1892年)12月8日、10か月の休職を経て復職し、東京の歩兵第1旅団長となった。明治27年(1894年)8月1日、日本が清に宣戦布告して日清戦争が始まると、10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征した。乃木率いる歩兵第1旅団は、9月24日に東京を出発し、広島に集結した後、宇品港(現・広島港、広島県広島市南区)を出航して、10月24日、花園口(現・中華人民共和国遼寧省大連市荘河市)に上陸した。11月から乃木は、破頭山、金州、産国および和尚島において戦い、11月24日には旅順要塞をわずか1日で陥落させた。明治28年(1895年)、乃木は蓋平・太平山・営口および田庄台において戦った。特に蓋平での戦闘では日本の第1軍第3師団(司令官は桂太郎)を包囲した清国軍を撃破するという武功を挙げ、「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受けた。日清戦争終結間際の4月5日、乃木は中将に昇進して、宮城県仙台市に本営を置く第2師団の師団長となった。また、8月20日には男爵として、華族に列せられることとなった。明治28年(1895年)5月、台湾民主国が独立を宣言したことを受けて日本軍は台湾征討(乙未戦争)に乗り出した。なお、同年4月に日清間で結ばれた下関条約により、台湾は日本に割譲されている。乃木率いる第2師団も台湾へ出征した。明治29年(1896年)4月に第2師団は台湾を発ち、仙台に凱旋したが、凱旋後半年ほど経過した10月14日、乃木は台湾総督に任じられた。乃木は、妻の静子および母の壽子を伴って台湾へ赴任した。乃木に課せられた使命は、台湾の治安確立であった。乃木は、教育勅語の漢文訳を作成して台湾島民の教育に取り組み、現地人を行政機関に採用することで現地の旧慣を施政に組み込むよう努力した。また日本人に対しては、現地人の陵虐および商取引の不正を戒め、台湾総督府の官吏についても厳正さを求めた。しかし、乃木は殖産興業などの具体策についてはよく理解していなかったため、積極的な内政整備をすることができなかった。次第に民政局長・曾根静夫ら配下の官吏との対立も激しくなり、乃木の台湾統治は不成功に終わった。明治30年(1897年)11月7日、乃木は台湾総督を辞職した。辞職願に記載された辞職理由は、記憶力減退(亡失)による台湾総督の職務実行困難であった。乃木による台湾統治について、官吏の綱紀粛正に努め自ら範を示したことは、後任の総督である児玉源太郎とこれを補佐した民政局長・後藤新平による台湾統治にとって大いに役立ったと評価されている。また、台湾の実業家である蔡焜燦は「あの時期に乃木のような実直で清廉な人物が総督になって、支配側の綱紀粛正を行ったことは、台湾人にとってよいことであった」と評価する。台湾総督を辞任した後休職していた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。しかし、明治34年(1901年)5月22日、馬蹄銀事件に関与したとの嫌疑が乃木の部下にかけられたことから、休職を申し出て帰京した。ただし、表向きの休職理由は、リウマチであった。乃木は計4回休職したが、この休職が最も長く、2年9か月に及んだ。休職中の乃木は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごした。農業に勤しみつつも、乃木はそれ以外の時間はもっぱら古今の兵書を紐解いて軍事研究にいそしみ、演習が行われると知らされれば可能な限り出向き、軍営に寝泊まりしてつぶさに見学してメモをとり、軍人としての本分を疎かにはしなかった。日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職した。しかし、乃木にとって「留守近衛師団長」という後備任務は不満であった。5月2日、第3軍司令官に任命された。乃木はこれを喜び、東京を出発する際に見送りに来た野津道貫陸軍大将に対し、「どうです、若返ったように見えませんか? ども白髪が、また黒くなってきたように思うのですが」と述べている。同年6月1日、広島県の宇品港を出航し、戦地に赴いた。。乃木が日本を発つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。乃木は、広島で勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静子に電報で知らせた。電報には、名誉の戦死を喜べと記載されていたといわれる。勝典の戦死は新聞でも報道された。乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団および第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略であった。明治37年(1904年)6月6日、乃木は遼東半島の塩大澳に上陸した。このとき乃木は、大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている。第3軍は、6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回目の、10月26日に第2回目の、11月26日に第3回目の総攻撃を行った。また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した。乃木はこの戦いで正攻法を行い、ロシアの永久要塞を攻略した。第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、乃木の指揮について、例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった。乃木は補充のできない要塞を、正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し、相手を消耗させることで勝利出来ると確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したものの、十分な補給が行われることはついになかった。旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時は乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている。また、大本営は、第3軍に対して、直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を度々出し、混乱させた。特に203高地を攻略の主攻にするかについては、第3軍の他にも、軍が所属する満州軍の大山巌総司令や、児玉源太郎参謀長も反対していた。それでも大本営は海軍側に催促されたこともあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木たちを混乱させた。乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた。この間、9月21日には、伯爵に陞爵した。11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した。6か月前の5月27日の長男・勝典の戦死直後、保典が所属していた第1師団長の伏見宮貞愛親王は、乃木の息子を二人戦死させては気の毒だろうと考え、保典を師団の衛兵長に抜擢した。乃木父子は困って辞退したが、親王は「予の部下をどのように使おうと自由であり司令官の容喙は受けない」と言い張った。保典の戦死を知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と述べたという。長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった。なお、乃木は出征前に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と夫人の静に言葉を残していた。明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり、抵抗は不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される)は、乃木に対し、降伏書を送付した。これを受けて1月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した。なお、この戦いに関する異説として、旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は、作家の司馬遼太郎が著した小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられるほどとなった。しかし、司馬作品で発表される以前にはその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない。203高地は児玉が来る前に一度は陥落するほど弱体化しており、再奪還は時間の問題であった。また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は、後の第一次世界大戦の西部戦線を先取りするような戦いとなった。鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地を、機関銃や連装銃で装備した部隊が守備すると、いかに突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも、塹壕への砲撃はそれほど相手を消耗させないことや、予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能であることなど、第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。しかし、西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り、第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった 。旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は要塞司令官ステッセリと会見した。この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じた。これを受けて、乃木は、ステッセリに対し、極めて紳士的に接した。すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセリに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた。また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた。こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛された。また、この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載された。乃木は、1月13日に旅順要塞に入城し、1月14日、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。その姿は、日本語が分からない観戦武官および従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の抄訳を求めた。乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。このため、旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍も、進軍開始直後には予定通り進撃していた。しかし、西端こそが第3軍であることに気付いたクロパトキンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、自ら所在する第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された。その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。こうした第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上と誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部および中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した。アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォシュバン("Stanley Washburn
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。