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許国雄

許 国雄(きょ こくゆう)は台湾(中華民国)の政治家・教育家・医学博士。歯学博士。元国民大会代表。東方工商専科学校(専科学校は日本の短期大学に相当)の創設者・学長。元台湾省教育会理事長。中華民国全国教育会監事長。陳水扁政権僑務委員会顧問。中国国民党評議委員(かつて宋美齢ら国民党の重鎮が就任していた)。許は、2.28事件で国民党軍から市参議員(市会議員のこと)であった父親を虐殺されたが、その後蒋経国(後の中華民国総統)と談判し、台湾の「政治改革」を訴えた。蒋経国から国民党への入党をすすめられ、入党している。許は、国民党の中から台湾の政治改革を推進し、自称「李登輝派」として活動した。現在の日本では、国外に亡命して台湾の改革運動に取り組んだ台湾人にばかりスポットが当てられているが、実際は許のように国民党の中からこれを推進した人も数多く存在した。米国が台湾を軍事的に防衛できる法律「台湾関係法」が米議会で成立するよう努力した。台湾の国民党政権は米国の共和党政権と強いパイプを持っていたが、民主党とのパイプが弱かった。許は民主党出身のジミー・カーター大統領(当時)と友人であり、就任式にも台湾から唯一正式に招待されている。許の母親とカーターの母親が、産婆仲間として知己であったため、二人は友人となったという。許は、カーター大統領の実家に宿泊した際、母親のリリアン・カーターから「台湾関係法」成立についての確約を取っている。この後、「台湾関係法」は、在米台湾人団体からの強い働きかけもあり成立した。台湾の学校における日本語教育を推進した。まず、自らの経営する学校に日本語教育の学科をつくり、後に国会議員として台湾の多くの学校に日本語学科を設置することを推進した。1972年、日本政府と中華民国政府(台湾)が正式な国交を断絶した後、国会で「日華(台)交流」の必要性を訴え、予算を獲得、民間団体同士による日本との教育交流を推進した。日華断交に危機感を抱いて台湾へ乗り込み、教育交流を申し込んだ日華交流教育会(2007年現在の会長は小堀桂一郎、事務局長は草開省三)が日本側の受け入れ団体となった。また、許は両国の航空路線の再開維持のために努力した。日本アジア航空の台北行き第1便に乗った岸信介や灘尾弘吉を空港で最初に出迎え、握手したのは許であった。特に親しく交流した日本人は、奥野誠亮、村尾次郎、櫻井勝之進、小田村四郎、小堀桂一郎、名越二荒之助、草開省三、倉前盛道、副島博之、高橋史朗、勝岡寛次等。現在は日台交流を実践している団体も多いが、戒厳令が敷かれていた当時から交流を続けている団体は少ない。最近の親台湾団体は、台湾独立派との関係が深く(台湾正名運動の関係もあって)、「華」の字(中華民国の「華」)を使いたがらないが、交流の古い団体は、「日台」とは名乗れず(戒厳令のため)、「日華」という名前を使って粘り強く活動を続けてきた。日華交流教育会(現在は日台交流教育会)もその一つである。台湾で高速鉄道が導入される際、ドイツの機関車とフランスの列車を入れることがほぼ決まりかけたが、許は、「機関車も列車も日本の新幹線を導入すべき」との論陣を張った。日本の新幹線のトンネルの岩盤が崩落して列車の天井に落下する事故が起こり、安全性に対する批判が出た際には、「岩盤の崩落はトンネルの問題。新幹線は岩盤が落下しても壊れない丈夫な列車」と、事故を逆手にとって擁護の発言を行った。その後、日本製新幹線は、李登輝総統(当時)もこれを強く推進したため逆転採用となった。1972年に日本の山陽新幹線が開通し、大阪―岡山間を走った際には、試乗をおこなっている。

出典:wikipedia

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