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ハッド (潜水艦)

ハッド (USS Haddo, SS-255) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はアメリカ合衆国及びカナダ沿岸に生息するカラフトマス(ピンクサーモン)の通称に因む。ハッドはコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で起工する。1942年6月21日にチャールズ・F・ラッセル夫人によって進水し、艦長ウォーレス・L・レント少佐(アナポリス1925年組)の指揮下110月9日に就役する。ハッドはニューイングランド水域での整調後、1943年4月9日にニューロンドンを出航。最初の哨戒を兼ねてスコットランドのへの大洋航路を警戒巡航する。4月30日、ハッドは21日間の哨戒を終えてロスネースに帰投。第50潜水艦部隊に合流し、ノルウェーに潜むドイツ艦隊の出動に備えた。5月18日、ハッドは2回目の哨戒でアイルランド西方海上に向かった。しかし、この哨戒では敵を見なかった。6月23日、ハッドは37日間の行動を終えてロスネースに帰投。艦長がジョン・コーブス少佐(アナポリス1930年組)に代わった。7月10日、ハッドは3回目の哨戒で大西洋に向かった。この時点で、この方面は獲物が少ないことがはっきりしており、ハッドや僚艦はそのままアメリカ本国に帰ることとなった。7月29日、ハッドは19日間の行動を終えてニューロンドンに帰投。帰投後、ハッドは8月17日から18日にかけて、ニューポートに於いての試験に従事した。その後、ハッドは太平洋艦隊に配属されることとなり、8月21日にニューロンドンを出航。パナマ運河を経由して9月13日にカリフォルニア州メア・アイランド海軍造船所に到着し、オーバーホールに入った。このオーバーホールで、旧式でトラブルが多く信頼性に欠けていたH.O.R.エンジンを、本来搭載されるGM社製278A16気筒エンジンに換装した。オーバーホールが終わると真珠湾に回航され、11月25日に到着した。12月14日、ハッドは4回目の哨戒でタリビー ("USS Tullibee, SS-284") 、ハダック ("USS Haddock, SS-231") 、ハリバット ("USS Halibut, SS-232") とともにフィリピン方面に向かった。ルソン島沿いを行動して敵とのいくつかの接触を得たものの、戦果を挙げることはなかった。1944年2月4日、ハッドは53日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長が太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツの長男であるチェスター・W・ニミッツ・ジュニア少佐(アナポリス1936年組)に代わった。2月29日、ハッドは5回目の哨戒で南シナ海に向かった。ジャワ海、マカッサル海峡を経て哨戒海域に入るコースを進んだハッドは、3月8日にのロンボク海峡で敵艦船を発見して魚雷を3本発射したが、魚雷が早期爆発を起こしたため失敗した。3月14日夜、ハッドはのマカッサル海峡北方でタンカーとその護衛艦を発見するが、その護衛艦は「旧スチュワート」に酷似していた。ハッドはタンカーに対して魚雷を3本、「旧スチュワート」に対して魚雷を3本の計6本発射し、1つの不確実な命中を記録した。ハッドはミンドロ海峡を経由して南シナ海に入り、インドシナ半島沖に進む。3月23日夜、ハッドはのキノン北方25キロの地点で海軍徴傭船第三寿宝丸(入交商店、430トン)を発見し、魚雷を2本発射したが命中した様子がなかったので、浮上して4インチ砲で砲撃し、第三寿宝丸は海岸に座礁した。3月29日未明、ハッドはの海南島近海でレーダーによりタサ13船団を発見。魚雷を4本発射し、輸送船日安丸(日産汽船、6,197トン)に命中させて損傷を与えた。4月1日未明にもハッドはの地点で沿岸輸送船と護衛艦を発見し、魚雷を2本発射して1本を命中させたと判断した。4月4日夜にもレーダーで13ノットで航行中と思われる大きな目標を探知し、翌4月5日未明にの地点で浮上攻撃によりタンカー永洋丸(日本油槽船、8,673トン)と護衛艦に対し魚雷を計7本発射したが、命中しなかった。4月22日、ハッドは54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。5月18日、ハッドは6回目の哨戒で東インド諸島、セレベス海方面に向かった。5月30日にモロタイ島沖で航空機の制圧を受けて潜航避退した後、浮上して観測すると6隻の輸送船団を発見。攻撃を試みたが、どうしても射程圏に接近することができなかった。6月11日、ハッドはの地点で2隻の250トン級トロール船型輸送船を発見し、浮上砲戦で撃沈した。6月14日まではタウィタウィに在泊している第一機動艦隊(小沢治三郎中将)の監視を行った。その後航空機に発見され、以後の10日間は「発見されては潜航して避退」の繰り返しだった。7月16日、ハッドは59日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。8月8日、ハッドは7回目の哨戒でヘイク ("USS Hake, SS-256") 、ハーダー ("USS Harder, SS-257") 、レイ ("USS Ray, SS-271") とウルフパックを構成し、南シナ海およびルソン島近海に向かった。8月18日昼過ぎ、レイがパラワン島沖でミ12船団を発見し、陸軍タンカー南星丸(拿捕船、元イギリス船プレイドン/日東汽船委託、5,878トン)を撃沈した。レイは以後もミ12船団と接触を続けたが、ミ12船団は8月20日にミンドロ島パルアン湾に入泊。同じ日の夜にハーダーからミンドロ島カラビテ岬沖で会合するという連絡が入った。翌8月21日未明、ハッドはハーダーと会合し、レイとギターロ ("USS Guitarro, SS-363") も呼び寄せてあることを教えられる。ミ12船団は朝に航行を再開してマニラに向かった。ウルフパックは、ミ12船団が湾外に出てくるところを見計らって船団を攻め立てた。ハッドは7時30分ごろにの地点で3隻の輸送船に対し魚雷を6本発射し、輸送船のるほうく丸(川崎汽船、6,576トン)の左舷機関室に1本が命中して、輸送船金龍丸(大光商船、4,392トン)にも魚雷が命中。のるほうく丸は急速に沈み、8時過ぎには金龍丸も沈没した。また、2TL型戦時標準タンカーの太栄丸(日東汽船、10,045総トン)にも魚雷1本が向かったものの、魚雷は太栄丸の中央部船底下を通過してルソン島の岩に命中して爆発した。護衛艦は100発以上もの爆雷を投下したものの、ウルフパックにはなんら損害はなかった。攻撃が終わると、ハッドはハーダーとともにマニラ湾に向かった。翌8月22日4時ごろ、ハッドとハーダーはのバターン半島の西方50キロ地点で、レーダーにより3個の目標を探知した。この3個の目標は、ヒ71船団を護衛して8月18日から21日にかけて対潜掃討を行い、その後マニラに向かっていた海防艦佐渡、松輪、日振であった。海防艦はルソン島寄りから松輪、日振が平行し、佐渡はその後ろを航行し三角形の陣形を成していた。2隻は機会をうかがいつつ追尾したが、ハッドからはやや攻撃しにくい態勢だったらしく、ニミッツは攻撃すべきかどうか判断しかねていた。ハーダー艦長サミュエル・D・ディーレイ少佐(アナポリス1930年組)から「(攻撃は)いけそうだ。目標は小さくない」とニミッツにはっぱをかけ、ともに雷撃を行った。ハッドとハーダーが一斉に雷撃を行った結果、魚雷は槍襖のように海防艦に向かっていき、いずれも命中する結果となった。ハッドは魚雷を3本発射し、うち1本は佐渡の中央部に命中し、航行不能に陥らせた。間髪入れず二度目の攻撃で魚雷を3本発射したが、これは命中しなかった。三度目の雷撃でも魚雷を3本発射し、佐渡にふたたび魚雷を命中させて、ついに佐渡を撃沈した。また、後部だけ浮いていた日振には命中せず、日振はハーダーが仕留めた。ハッドは夜に入って別の駆逐艦を発見し魚雷を4本発射したが、命中しなかった。8月23日朝、ハッドとハーダーはのルソン島沖でタンカー二洋丸(浅野物産、10,022トン)と駆逐艦朝風を発見。ハッドは二洋丸を攻撃するつもりで魚雷を5本発射したが、魚雷は朝風に1本が命中。大破し、行動不能となった朝風は付近を通りかかった機帆船の曳航でダソル湾に座礁したが夜になって沈没した。この攻撃でハッドは魚雷を使い果たしたが、今回の哨戒がまだ10日あまりしか経っていなかったので、一旦ミオス・ウンディ島に戻って魚雷を補給してから哨戒を再開することにして、ヘイクと入れ替わるようにハーダーと別れた。ハーダーは翌日討ち取られた。8月30日、ハッドはミオス・ウンディ島に到着し補給を行った。補給を終えたハッドは9月3日に出航。9月7日に輸送船団を発見して攻撃に移ろうとしたが、護衛艦に発見され潜航避退を余儀なくされ、その間に目標の輸送船団は去ってしまった。翌9月8日にはの地点で日の丸を掲げたサンパンを発見し、浮上砲戦で撃ち沈めた。その後スービック湾方面に移動し、フィリピンを空襲する第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の支援に従事した。9月20日、ハッドはのミンドロ島カラビテ岬沖で輸送船団を発見し、魚雷を4本発射して「神風型駆逐艦」に1つの命中があったことを報告。9月21日には病院船高砂丸(大阪商船、9,347トン)を発見したが、当然ながら無視。ニミッツ艦長は高砂丸のことを「美しい病院船」と戦時日誌に記した。その夜、ハッドは小雨が降る中で、ブルネイに向かっていた測量艦勝力を発見。ハッドは魚雷6本を発射し、うち1本が右舷前部に命中した勝力はあっという間に前部につんのめるようにして沈んでいき、の地点で沈没した。9月22日には、第38任務部隊の搭乗員を救助した。10月3日、ハッドは52日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。ニミッツ艦長は一連の哨戒で海軍殊勲部隊章を受章して転勤した。これにより、艦長がフランク・C・リンチ・ジュニア少佐(アナポリス1938年組)に代わった。10月28日、ハッドは8回目の哨戒でルソン島西岸方面に向かった。11月9日午後、ハッドはのミンドロ海峡でB02船団を発見して魚雷を3本発射し、魚雷は特設運送船(給油)第二菱丸(近海油槽船、856トン)に命中して撃沈した。11月25日にはのマニラ湾口西南西海上で海防艦占守と第13号海防艦を発見。魚雷を6本発射し、占守の艦首に魚雷を1本命中させて撃破した。12月6日夜にもの地点でシマ臨時船団を発見し、浮上攻撃で魚雷を計10本発射して3つの爆発を確認し、特設運送船(給油)第三共栄丸(共栄タンカー、1,182トン)と交戦した。敵艦船攻撃の合間には前回に引き続いて搭乗員救助の任務に当たったあと、ハッドは本国への帰還を命じられた。12月27日、ハッドは60日間の行動を終えて真珠湾に帰投。3日後に出航し、1945年1月5日にメア・アイランド海軍造船所に到着してオーバーホールに入った。オーバーホールを終えたハッドは5月16日に真珠湾を出航し、サイパン島に進出した。5月31日、ハッドは9回目の哨戒で東シナ海、黄海方面に向かった。ハッドはティランテ ("USS Tirante, SS-420") 、シーオウル ("USS Sea Owl") 、パファー ("USS Puffer, SS-268") のウルフパックに合流した。前半は長崎近海で哨戒し、6月13日朝にはの地点で海防艦に対して魚雷を3本発射して少なくとも1本を命中させ、目標の撃沈を報じる。後半は朝鮮半島近海に狩場を変えた。7月1日昼ごろ、ハッドはの朝鮮半島西岸長山串付近で、霧の中で大連から徳山に向かっていたタフ船団の接近をレーダーで探知。まず魚雷を計8本発射し、7つの爆発を報じる。この攻撃で3隻の輸送船、坤利丸(政記輸船、3,106トン)、第一大雲丸(大阪商船、2,220トン)および新蜜紹号(蜜紹商船、3,106トン)を一気に撃沈した。続いてマーク28型誘導魚雷を発射して第72号海防艦の艦尾に魚雷を命中させて撃沈。ハッドは浮上してその場を立ち去ろうとしたが、他の護衛艦の射撃を受けて小破したので、ハッドは潜航避退して難を逃れた。翌7月2日夕刻、ハッドはの地点で2隻のジャンクを浮上砲戦で撃沈し、大連沖に向かった。7月3日にもの地点でディーゼルトロール船あるいは小型タンカーを発見し、まず40ミリ機関砲で射撃を行ったのち、浮上したまま魚雷を3本発射したものの命中せず、哨戒艇をうまく交わした。7月16日、ハッドは46日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した。8月10日、ハッドは10回目の哨戒で日本近海に向かったが、間もなく日本が降伏したため哨戒は終了した。終戦を迎えると、ハッドはこの近辺にいた僚艦とともに東京湾に向かい、9月2日に戦艦ミズーリ ("USS Missouri, BB-63") 艦上で行われた降伏文書調印式に参列した。参列後帰路に就き、真珠湾を経由して9月28日にパナマ運河を通過し、10月6日にニューロンドンに到着した。ハッドは1946年2月16日に退役し保管された。そのまま現役に戻ることがないまま1958年8月1日に除籍され、1959年4月30日にスクラップとしてペンシルベニア州フィラデルフィアのルリア・ブラザーズ社に売却された。7回目の哨戒における海軍殊勲部隊章に加えて、ハッドは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。ハッドの第5、第7、第8、第9回目の哨戒は成功として記録された。

出典:wikipedia

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