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陽炎 (陽炎型駆逐艦)

陽炎(かげろう/かげろふ)は、日本海軍の駆逐艦。陽炎型駆逐艦(一等駆逐艦陽炎型)の1番艦(ネームシップ)である。この名を持つ日本海軍の艦船としては東雲型駆逐艦「陽炎」に続いて2隻目となる。本艦の沈没後、陽炎型駆逐艦は不知火型駆逐艦と改名された。舞鶴海軍工廠で1937年(昭和12年)9月3日に起工。1938年(昭和13年)4月15日、舞鶴工廠で建造中の駆逐艦に『陽炎』、浦賀船渠の駆逐艦に『不知火』、藤永田造船所の駆逐艦に『黒潮』、東京石川島造船所の測天型敷設艇2番艇に「白神」等の艦名が正式に与えられた。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐艦』が新設され、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同型に類別された。「陽炎」は同年9月27日に進水した。1939年(昭和14年)2月2日、吹雪型駆逐艦敷波駆逐艦長山本岩多中佐は陽炎の艤装員長に任命された。2月6日、舞鶴海軍工廠に陽炎艤装員事務所を設置。8月10日附で山本艤装員長は陽炎駆逐艦長(初代)となる。「陽炎」は11月6日に竣工した。起工・進水とも2番艦「不知火」の方が1番艦「陽炎」より早かったが(不知火起工1937年8月30日、進水1938年6月28日)、竣工は「陽炎」の方が先である。舞鶴工廠で建造された陽炎型は、1番艦「陽炎」の他に4番艦「親潮」、9番艦「天津風」、15番艦「野分」、16番艦「嵐」が存在する。竣工後の「陽炎」は、ただちに第18駆逐隊(霞、霰)に編入された。当時の第18駆逐隊司令は久宗米次郎大佐。11月1日、山本(陽炎駆逐艦長)は軽巡洋艦鬼怒副長へ転出。駆逐艦複数隻(蓬、疾風、有明、綾波)の艦長を歴任した天野重隆中佐が、陽炎駆逐艦長(2代目)に任命された。11月15日、第18駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊に編入。同時に第二水雷戦隊司令官も後藤英次少将から五藤存知少将に交代した。また久宗大佐(18駆司令)も川内型軽巡1番艦川内艦長へ転任。新たな18駆司令として佐藤寅治郎大佐が着任した。12月20日、陽炎型2番艦「不知火」が竣工して第18駆逐隊に編入、同隊は定数4隻(霞、霰、陽炎、不知火)を揃えた。1940年(昭和15年)10月15日附で天野(陽炎駆逐艦長)は第13駆逐隊司令へ転出(第61駆逐隊司令として、レイテ沖海戦で初月沈没時に戦死)、朝潮型駆逐艦朝潮駆逐艦長横井稔中佐が陽炎駆逐艦長(3代目)に就任した。12月6日、第18駆逐隊司令は佐藤大佐から荒木傳大佐に交代した(佐藤大佐は翌年3月31日、第4駆逐隊《嵐、萩風》司令)。1941年(昭和16年)9月1日、荒木大佐(18駆司令)は軽巡洋艦北上艦長へ転任。新司令として宮坂義登大佐(前職第30駆逐隊司令)が着任する。9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将も第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転出、後任の二水戦司令官は田中頼三少将となった。太平洋戦争開戦時には、同型2番艦「不知火」、朝潮型2隻(霞、霰)と共に引続き第18駆逐隊を編制し、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)に所属していた。当時の第二水雷戦隊は川内型軽巡洋艦2番艦「神通」を旗艦とし、第8駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮)、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊(雪風、時津風、初風、天津風)、第18駆逐隊で編制されていた。しかし、第18駆逐隊は南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将)の警戒隊に編入され、第二水雷戦隊本隊とは別行動だった。機動部隊警戒隊指揮官(旗艦)は第一水雷戦隊司令官大森仙太郎少将(長良型軽巡洋艦阿武隈)。この警戒隊には、陽炎型姉妹艦4隻で構成された第一水雷戦隊・第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)と陽炎型19番艦「秋雲」が加わっていた。1941年(昭和16年)11月26日、ハワイ攻撃機動部隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した。帰投後、横井駆逐艦長が脳溢血で倒れる。12月22日附で横井艦長は職務を解かれ、陽炎型姉妹艦「秋雲」駆逐艦長有本輝美智中佐が陽炎駆逐艦(4代目)に任命された。1942年(昭和17年)1月5日、呉を出港し機動部隊とラバウル攻撃に従事。1月29日、2隻(浜風、陽炎)は空母「翔鶴」を護衛して横須賀に向かった。2月3日、横須賀着。その後も南雲機動部隊の空母と行動を共にする。2月には第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)のポートダウィン攻撃を護衛、さらにジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った。同時期、空母機動部隊護衛隊(第十戦隊)の新設にともない、陽炎以下第18駆逐隊は第一水雷戦隊の指揮下を離れ、第二水雷戦隊に復帰した。第18駆逐隊は第1小隊(不知火、霞)、第2小隊(陽炎、霰)という編制である。また二水戦からは第8駆逐隊が除かれた。5月下旬、陽炎以下第二水雷戦隊(神通、第15駆逐隊、第16駆逐隊、第18駆逐隊)はサイパンに進出、6月上旬のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加した。主力空母4隻炎上後、第二水雷戦隊はミッドウェー島に急行して炎上する空母「赤城」を見たという陽炎軍医長の回想があるが、実際は不明である。6月8日、18駆は第七戦隊(司令官栗田健男少将)の指揮下に入る。この後、第18駆逐隊は大破した最上型1番艦「最上」をトラック泊地まで送り届けた。6月23日、第18駆逐隊は第七戦隊の重巡2隻(熊野、鈴谷)を護衛して呉に帰投する。この後、第18駆逐隊は第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将:旗艦「那智」)の指揮下に入った。6月23日、大本営はアッツ島(熱田島)およびキスカ島(鳴神島)の長期確保を指示し、連合艦隊および北方部隊は兵力増強のため輸送部隊(千代田、あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制した。6月28日、第18駆逐隊(不知火、霞、霰)は水上機母艦「千代田」、輸送船「あるぜんちな丸」と共に横須賀を出撃、本艦は日本近海の対潜掃蕩作戦に従事した。しかし6月23日には東京湾沖合で白露型駆逐艦8番艦「山風」(第24駆逐隊)が米潜水艦ノーチラス ("USS Nautilus, SF-9/SS-168") の雷撃で撃沈され、28日には「千代田」(当時霞護衛中)も襲撃されている。「陽炎」は出動した部隊と協同でノーチラスに損傷を与え、ノーチラスを追い払った。7月5日、アリューシャン方面作戦に従事して千代田・あるぜんちな丸と共にキスカ島に停泊していた第18駆逐隊3隻(不知火、霞、霰)は、米潜水艦グロウラー("USS Growler, SS-215")に襲撃された。同艦の攻撃により「霰」が沈没、「不知火」・「霞」が大破航行不能という大損害を受けた。7月9日、「陽炎」は特設水上機母艦「君川丸」の護衛として横須賀を出発した。19日にキスカ島へ到着し、大破した僚艦2隻(不知火、霞)を目撃した。7月14日、第16駆逐隊(雪風、時津風、天津風、初風)は第二水雷戦隊から除かれ、第十戦隊に編入された。それと共に第24駆逐隊(海風、江風、涼風)が第二水雷戦隊に編入された。7月14日附で宮坂大佐は第18駆逐隊司令職を解かれた。7月20日、無傷で残存していた「陽炎」は第二水雷戦隊所属の第15駆逐隊に編入される。開戦時の第15駆逐隊(昭和16年6月18日より駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐)は、陽炎型4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)で編制されていたが、1942年(昭和17年)2月9日に米潜水艦「S-37」の雷撃で「夏潮」を喪失し、3隻体制になっていたのである。7月27日、救難資材および修理要員を乗せた夕雲型駆逐艦4番艦「長波」がキスカに到着、翌日、「陽炎」は「雷」(第6駆逐隊)に曳航される「霞」(18駆僚艦)を護衛してキスカを出発した。8月3日、3隻(陽炎、雷、霞)は幌筵島片岡湾に到着、ここで霞曳航駆逐艦は「電」(第6駆逐隊)に交代した。「陽炎」は横須賀に向かい、8月8日着。同日附で第二水雷戦隊に復帰した。8月9日、北海道石狩湾で霞曳航艦は「電」から「富士山丸」に交代、8月13日に舞鶴へ到着した。8月15日、第18駆逐隊は解隊された。1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まった。8月11日、「陽炎」は軽巡洋艦「神通」(第二水雷戦隊旗艦)を護衛してトラックへ進出、8月18日夜、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐指揮のもと陽炎型6隻(嵐、萩風、陽炎、谷風、浦風、浜風)は、一木支隊をガダルカナル島へ揚陸した。一木支隊の将兵は「大急ぎでいかないと敵(推定兵力2000)は逃げてしまう」と自信を語り、士気は極めて高かったという。第17駆逐隊(浦風、谷風、浜風)はポートモレスビー作戦にともなうレ号作戦(ラビの戦い)に参加するため、ラバウルへ戻った。有賀司令は駆逐艦3隻(嵐、萩風、陽炎)をひきいて泊地警戒と敵脱出阻止を行う。19日昼、B-17重爆の空襲により「萩風」が大破、「嵐」の護衛下でトラック泊地に避退したため、ガ島ルンガ泊地周辺に残る駆逐艦は陽炎1隻となった。「陽炎」はアメリカ軍機の空襲を受けつつ、ツラギ方面の偵察と対地砲撃を実施。このような状況下、田中二水戦司令官は輸送船団護衛部隊から第24駆逐隊の白露型駆逐艦9番艦「江風」を引き抜き、「陽炎」と任務を交代するよう命じた。21日、「陽炎」は「江風」と交代し、ショートランド泊地へ向かった。なお陽炎等が輸送した一木支隊は同日のイル川渡河戦で全滅、一木清直大佐も戦死している。外南洋部隊(第八艦隊)は「陽炎」に対し、ショートランド泊地で水上機母艦「秋津洲」から燃料補給を行うよう命じた。同時期、アメリカ軍は既に完成させていたヘンダーソン飛行場に航空隊を進出させることを試み、米護衛空母ロング・アイランドが戦闘機F4Fワイルドキャット19、急降下爆撃機SBDドーントレス12機を輸送した(8月20日進出)。8月22日、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は駆逐艦部隊(陽炎、夕凪、江風、睦月、望月)にガ島に対する米軍の補給増援阻止を命じ、駆逐艦「卯月」にはガ島日本軍守備隊への補給を命じた。23日夕刻、外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、磯風)がショートランド泊地に到着。重巡2隻(鳥海、衣笠)は駆逐艦「夕凪」を伴って輸送船団掩護のために出撃し、「磯風」はガ島夜襲のために残された。「陽炎」は単艦で出撃し、23日深夜にガ島とツラギに突入、対地砲撃を行うが米艦艇とは遭遇しなかった。8月24日、第30駆逐隊司令安武史郎大佐指揮のもと、駆逐艦5隻(睦月〔旗艦〕、弥生、江風、陽炎、磯風)でガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地を砲撃する。「陽炎」は米潜水艦1隻の撃沈を報告した。10分間の砲撃後、艦隊は北上して第二水雷戦隊(旗艦「神通」)及び輸送船3隻の一木支隊第二梯団との合流を目指す。8月25日午前6時、安武大佐指揮下の駆逐艦5隻(睦月、弥生、磯風、江風、陽炎)は、神通(二水戦司令官田中頼三少将座乗)、第24駆逐隊(海風、涼風)、旧式駆逐艦改造の哨戒艇4隻、輸送船3隻(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)と合流する。直後、急降下爆撃機SBDドーントレスとB-17の空襲を受け2隻(睦月、金龍丸)が沈没、軽巡「神通」が大破した。「神通」(田中司令官)は駆逐艦2隻(陽炎、涼風)を直衛として、輸送船団から離脱。その後、田中司令官は戦闘不能になった「神通」から「陽炎」に移動して将旗を掲げ、一時「陽炎」が第二水雷戦隊旗艦となった。2隻(神通、涼風)はトラックへ避退、「陽炎」は船団に戻った。また沈没艦生存者を救助した3隻(弥生、哨戒艇1号《旧島風》、哨戒艇2号《旧灘風》)がラバウルへ避退、ここに輸送船団によるガダルカナル島揚陸作戦は頓挫した。8月26日夕刻、南東方面部隊の作戦方針転換にともない、田中司令官は輸送船団の指揮を磯風に委任し、「陽炎」は燃料不足の「海風」を率いてショートランド泊地へ向かった。外南洋部隊(三川中将)は田中司令官が旗艦設備のない駆逐艦から輸送作戦の指揮をとるのは困難と判断し、第六戦隊より青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」を派遣する。28日朝、第二水雷戦隊司令部は「衣笠」に移動した。以後、「陽炎」はガダルカナル島輸送作戦に従事する(鼠輸送)。同日午前6時、第24駆逐隊(海風、涼風、磯風)はガ島揚陸予定の陸兵を乗せてショートランド泊地を出撃、また北方からは第20駆逐隊(天霧、朝霧、夕霧 、白雲)が陸軍川口支隊を乗せてガ島へ向け南下しつつあった。昼以降、ガ島から飛来したSBDドーントレスの空襲により「朝霧」沈没、「白雲」航行不能、「夕霧」小破(戦死32名、重軽傷40名)、第20駆逐隊司令山田雄二大佐も戦死という大損害を出した。第24駆逐隊によるガ島揚陸も中止するに至った。陽炎は第20駆逐隊救援のため出動し、29日昼頃合流。30日朝、駆逐艦4隻(陽炎、天霧、夕霧、白雲)はショートランド泊地に戻った。一連の輸送作戦をめぐり増援部隊指揮官(田中二水戦司令官)と外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一中将)の対立が深まり、三川中将は田中司令官を更迭。外南洋部隊増援部隊指揮官は第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将(旗艦川内)に移った。田中司令官は「夕霧」に乗艦し、トラック泊地へ去った。9月2日深夜、駆逐艦2隻(陽炎、夕暮)と敷設艦「津軽」・哨戒艇2隻(1号、2号)によるガ島輸送が行われ、駆逐艦3隻(吹雪、白雪、天霧)が掩護をかねて飛行場砲撃を行った。帰途、「津軽」がアメリカ軍機の空襲を受けて小破した。9月5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)によるガ島揚陸が実施された。9月8日、ガ島の日本陸軍部隊よりアメリカ軍が川口支隊の背後に上陸作戦を行い、苦境に陥ったとの報告が入った。増援部隊(指揮官橋本三水戦司令官)は連絡にあったアメリカ軍輸送船団迎撃のためにショートランド泊地を出撃。9月13日、「陽炎」を含む増援部隊はガダルカナル島飛行場に対する日本陸軍総攻撃支援のため出撃したが、総攻撃失敗により引き返している。9月21日、第19駆逐隊司令大江覧治大佐を指揮官とする駆逐艦4隻(浦波、白雪、陽炎、浜風)はガ島揚陸のため出撃。夜になり揚陸に成功するが、月齢11で雲もないためアメリカ軍機の夜間空襲を受ける。「陽炎」は機銃掃射をうけて艦首水線上に破孔を生じ、高速航行により浸水がはじまり、揚錨機が使用不能になった。この損傷が原因で外南洋部隊は「陽炎」の原隊復帰を下令。9月22日、各艦(陽炎、嵐、第7駆逐隊《潮、曙、漣》)は外南洋部隊から除かれた。また月明時の鼠輸送も中止されるに至った。9月25日、「陽炎」はトラック泊地へ戻る。工作艦「明石」での修理を実施するため「神通」に横付けした。同日附で「神通」は呉鎮守府部隊に編入され、かわりに長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」が第二水雷戦隊に編入され、二水戦旗艦となった。10月以降は、第二水雷戦隊の各隊と行動を共にする。当時の第二水雷戦隊は、旗艦「五十鈴」、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎、早潮)、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)、第31駆逐隊(高波、巻波、長波)および吹雪型駆逐艦2隻(磯波、電)で構成されていた。10月中旬の第三戦隊(金剛、榛名)によるヘンダーソン基地艦砲射撃支援(第二航空戦隊《飛鷹、隼鷹》、駆逐艦3隻《陽炎、電、磯波》)や、10月下旬の南太平洋海戦に参加。10月27日、敗走する米艦隊を追撃していた2隻(陽炎、巻波)は、漂流中の空母エンタープライズおよびホーネット航空隊搭乗員各1名を捕虜にした。11月上旬、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将はショートランド泊地へ進出、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将から外南洋部隊増援部隊指揮官を引き継いだ。本艦も増援部隊として輸送作戦に従事する。一方、第三水雷戦隊は次期作戦のためトラック泊地に帰投していった。11月6日深夜、甲増援隊(第15駆逐隊《親潮、早潮、陽炎》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《巻波、高波、長波》、第十駆逐隊《夕雲、風雲》)はショートランドを出撃。途中でB-17重爆の空襲を受け、「高波」は軽傷者1名、「長波」は負傷者16名を出した。輸送作戦は成功。帰路において第15駆逐隊(親潮、早潮、陽炎)は輸送隊上空直掩中に撃墜された水上戦闘機6機・零式水上観測機1機の捜索を行ったが何も発見できず、8日午後になり甲増援隊は全隻ショートランドに帰投した。この時、「陽炎」は日本陸軍のヘンダーソン飛行場総攻撃を指導していた陸軍参謀辻政信中佐を収容。辻はふるまわれた戦闘配食に感激している。11月12日、増援部隊(早潮《二水戦旗艦》、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、長波、巻波、天霧、望月)は第三十八師団(佐野忠義中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船とともにショートランドを出撃した。しかし第三次ソロモン海戦第一夜戦と昼間空襲で3隻(戦艦比叡、駆逐艦暁、夕立)が沈没しヘンダーソン飛行場砲撃が中止されたことを受け、命令に従い輸送船団は一旦ショートランド泊地に戻った。11月14日に再出撃するが、空母エンタープライズ ("USS Enterprise, CV-6") の艦載機やB-17重爆の反復攻撃を受けた。11隻の輸送船は6隻が沈没、佐渡丸が駆逐艦2隻(天霧、望月)に護衛されて退避した。第二水雷戦隊は残る輸送船4隻(廣川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)を護衛してガ島へ進撃中、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)と交戦中の米戦艦ワシントンと遭遇する(第三次ソロモン海戦第二夜戦)。田中司令官は第15駆逐隊(親潮、陽炎)に突撃命令を出しており、2隻はワシントンを補足した。「親潮」は酸素魚雷を発射したが命中せず(1本命中と誤認)、「陽炎」は敵味方識別が遅れて発射できなかった。高田(陽炎水雷長)によれば、混戦の中で陽炎は霧島型戦艦らしき艦影を発見、艦長は敵味方識別信号を送った。そのうち距離1000mほどですれちがった際に米戦艦(おそらくサウスダコタ)と気付くが、取り逃がしたという。高田は「魚雷を発射しなくても大砲や機銃を撃てば良かったのかもしれないが、日本海軍は事前にそういう訓練はしてないので、撃つという発想がなかった」と回想している。15日午前2時頃にガ島に擱座した輸送船4隻も昼間の空襲で全隻炎上し、輸送作戦は完全に失敗した。第三次ソロモン海戦に勝利した連合軍は反攻に転じ、11月16日にパプアニューギニアのブナへ上陸作戦を敢行、東部ニューギニア方面の戦況も一挙に悪化した。第三次ソロモン海戦に参加した各艦は15-16日にショートランド泊地へ戻ったばかりだったが、連合軍ブナ上陸を受けて対応を迫られた。11月17日夜の駆逐艦5隻(夕雲、風雲、巻雲、陽炎、親潮)の陸兵1000名のブナ輸送は成功した。11月18日、ニューギニア方面輸送作戦従事中の駆逐艦3隻(朝潮、江風、海風)は空襲により「海風」が大破した。航行不能となり、「海風」は「朝潮」に曳航されてラバウルに戻った。ラバウルに停泊中だった第15駆逐隊2隻(親潮、陽炎)も海風救援のため出撃している。11月24日、ニューギニア島のラエ輸送作戦に従事していた第15駆逐隊僚艦「早潮」が空襲により沈没している(駆逐艦白露による砲撃処分)。15駆は3隻編制(親潮、黒潮、陽炎)になった。外南洋部隊が東部ニューギニア方面とガダルカナル島の二正面作戦を強いられる中、第二水雷戦隊はガ島へのドラム缶輸送に参加することになった。11月29日夜、第一次ドラム缶輸送部隊(長波《二水戦旗艦》、高波、親潮、黒潮、陽炎、巻波、江風、涼風)はカールトン・H・ライト少将率いる米艦隊と交戦(ルンガ沖夜戦)。「陽炎」は輸送隊に所属していたため予備魚雷8本を降ろしており、魚雷8本のみを搭載していた。駆逐艦1隻(高波)の喪失に対し米重巡1隻を撃沈・3隻大破という戦果をあげるも、輸送作戦は失敗した。第二次ドラム缶輸送は12月3日から4日にかけて駆逐艦10隻(長波《旗艦》、巻波、親潮、黒潮、陽炎、江風、涼風、嵐、野分)によって行われ、「巻波」小破のみでドラム缶1500個を投入した。だが陸軍側の報告によれば、回収されたドラム缶は310個に過ぎなかったという。12月7日-8日、第15駆逐隊司令を指揮官として第三次輸送作戦が駆逐艦11隻(親潮、黒潮、陽炎、長波、江風、涼風、嵐、野分、浦風、谷風、有明)によって実施された。往路での空襲により「野分」(第4駆逐隊)が航行不能となり、「長波」に曳航され退避、この護衛に2隻(嵐、有明)がついてショートランド泊地へ撤退した。残る駆逐艦はガ島海域に突入するも、アメリカ軍魚雷艇と夜間空襲を受け、揚陸を断念するに至った。12月11日-12日、第四次輸送作戦は増援部隊指揮官田中頼三二水戦司令官直率下で実施された。田中少将は秋月型駆逐艦2番艦「照月」を旗艦とし、駆逐艦11隻(照月、長波、嵐、江風、涼風、親潮、黒潮、陽炎、谷風、浦風、有明)でガ島へ向かった。揚陸中にアメリカ軍魚雷艇の襲撃を受け「照月」が沈没、田中少将は「長波」」に移動した。1200個投下されたドラム缶のうち、220個が回収された。続いて第二水雷戦隊はニュージョージア島ムンダ基地への輸送に従事した。12月16-17日、田中少将直率下の駆逐艦6隻(長波、巻波、親潮、黒潮、陽炎、谷風)によるムンダ輸送を実施。揚陸中にアメリカ軍双発爆撃機の夜間空襲を受け、「陽炎」は重軽傷6名を出した。12月21日、第17駆逐隊司令の指揮下、駆逐艦4隻(浦風、谷風、巻波、陽炎)でムンダ輸送を実施した。12月29日附で第二水雷戦隊司令官(増援部隊指揮官)は田中頼三少将から小柳冨次少将(前職、戦艦金剛艦長)に交代。12月30日、二水戦司令官に着任した小柳少将は「長波」を旗艦とした。また第15駆逐隊司令も佐藤寅治郎大佐から牟田口格郎大佐に交代。なお田中少将は翌年2月5日附で舞鶴海軍警備隊司令官に補職され、10月1日附でラングーンの第十三根拠地隊司令官となり、終戦まで海上勤務に戻ることはなかった。1943年(昭和18年)1月2日-3日、駆逐艦10隻(長波、江風、涼風、巻波、荒潮、親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)によるガ島ドラム缶輸送を実施する。往路の空襲で「涼風」が被弾、「電」に護衛されてショートランド泊地へ戻った。各方面の支援により、揚陸作戦は完全に成功した。この頃、第二水雷戦隊各艦は激戦により艦や機関部に故障を抱え、作戦行動に支障をきたす事態になった。二水戦と第八艦隊の報告を受けた連合艦隊は秋月・初風・時津風と親潮・陽炎・涼風・長波を入れ替えることを決定する。また増援部隊指揮官も二水戦司令官から第十戦隊司令官木村進少将(旗艦「秋月」)に交代する。前進部隊に復帰した4隻はトラック泊地へ戻った。1月16日、それまで第二水雷戦隊旗艦だった軽巡「五十鈴」は第十六戦隊に編入されて二水戦から除かれ、入れ替わる形で修理を終えた「神通」が第二水雷戦隊に編入、1月23日にトラック泊地へ到着した。神通航海中の1月19日、秋月型1番艦「秋月」(第十戦隊旗艦)が米潜水艦(ノーチラス)の雷撃で大破、その際に十戦隊司令官木村進少将が負傷したため、1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将は第十戦隊司令官に転属。後任の二水戦司令官として伊崎俊二少将が任命された。小柳少将は1月23日に退隊、伊崎司令官は1月30日に到着。旗艦を神通に指定した。2月上旬、「陽炎」はガダルカナル撤収作戦に支援隊として旗艦/重巡洋艦「愛宕」、空母2隻(隼鷹、瑞鳳)、戦艦2隻(金剛、榛名)、軽巡洋艦2隻(神通、阿賀野)、第二水雷戦隊・第四水雷戦隊各艦と共に参加する。ケ号作戦成功を受けて連合艦隊司令長官山本五十六大将は、トラック泊地の主力艦の内地帰投を決定していた(指揮官栗田健男第三戦隊司令官)。2月12日、第15駆逐隊司令を務めていた佐藤寅治郎大佐は二水戦旗艦「神通」艦長に補職される。2月15日、第三戦隊(金剛、榛名)、空母2隻(隼鷹、冲鷹)、水上機母艦「日進」、重巡2隻(鳥海、利根)、駆逐艦5隻(時雨、大波、黒潮、陽炎、嵐)はトラック泊地を出港して内地へ向かうが、悪天候のため航空隊を収容できず、3隻(隼鷹、陽炎、黒潮)のみトラックへ引き返した。2月16日、改めて3隻は日本本土へ向かった。内地到着後、第15駆逐隊は入渠・整備・休養を実施した。1943年(昭和18年)3月22日、駆逐艦4隻(第61駆逐隊《涼月、初月》、第15駆逐隊《陽炎》、第27駆逐隊《夕暮》)は、第二航空戦隊(司令官角田覚治中将・海兵39期)の空母2隻(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(司令官岸福治少将)の重巡洋艦2隻(利根、筑摩)を護衛して日本本土を出撃。28日、トラック泊地に到着。トラック泊地で待機したのち、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は4月24日附で外南洋部隊に編入された。同時期、ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が行われることになった。第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は奇数回、陽炎型駆逐艦17番艦「萩風」(第4駆逐隊)および白露型駆逐艦7番艦「海風」(第24駆逐隊)は偶数回で、交互に駆逐艦輸送を行うことになった。「陽炎」は4月29日の第一回、5月3日の第三回と参加したが、毎回同じ航路を取ったため5月6日にアメリカの機雷敷設艦3隻(ブリーズ、プレーブル、ギャンブル)がブラケット水道に機雷約250個を敷設した。5月7日夕刻、第15駆逐隊(陽炎、親潮、黒潮)とともにブインから第五回の輸送に出発した。第15駆逐隊の司令駆逐艦(司令牟田口格郎大佐、兵44期)は親潮で、黒潮が2番艦、陽炎は3番艦である。2隻(萩風、海風)に見送られながらの出撃であった。15駆の3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道を通って8日1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せると3時10分ごろに出港した。3時49分(3時59分)、アウェイ島北西約0.6海里で「親潮」が触雷した。それを潜水艦の雷撃と考えた健在2隻(黒潮、陽炎)は爆雷を投下した。ところが親潮触雷から数分後、「陽炎」(親潮から北方2000m地点航行中)は触雷。機関部艦底付近で起爆したため、航行不能となる。なおも「黒潮」は盛んに爆雷を投下していたが、間もなく午前5時5分頃に触雷、轟沈した。「黒潮」が目の前で沈没した事による親潮・陽炎の乗組員の衝撃と落胆は大きかったという。その頃、沿岸監視員(コースト・ウォッチャーズ)から「日本駆逐艦が航行不能となって漂流中」との報告を受けたマーク・ミッチャー少将は急降下爆撃機SBDドーントレス19機、雷撃機TBFアベンジャー3機、戦闘機F4Uコルセア32機、P-40戦闘機8機を攻撃に向かわせた。F4UとTBFは荒天のため引き返したが残りは攻撃を行う。司令駆逐艦「親潮」に命中弾1があり、「陽炎」では機銃掃射により負傷者が出て艦橋附近に小火災が発生したものの、両艦とも空襲による損害は限定的であった。その後、北西方向に漂流していた「陽炎」は18時17分にブラケット水道北西口で沈没した。船体が分断されたり転覆することもなく、そのまま水没していったという。沈没までに時間があったた為に食糧や医薬品を持ちだす余裕があり、また島にも近かったため避難上陸は容易だった。戦死者18名、重傷者11名、軽傷者25名。「陽炎」沈没の直前、17時55分に「親潮」も沈没していた。第15駆逐隊は1日で全滅した。第8連合特別陸戦隊は、海軍兵618名、各艦に分乗していた陸軍兵153名を救助したとされる。第15駆逐隊遭難の一報を受けた第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐は指揮下2隻(萩風、海風)を指揮し、司令部の下令に従い遭難現場へ向かった。翌日午前2時頃に到着。機雷敷設海面のため決死的状況だったが、「萩風」に大発動艇に乗った陽炎先任将校が移乗、3隻の沈没と生存者の陸上収容を報告した。任務終了と判断した杉浦司令の下令により2隻(萩風、海風)はラバウルへ帰投した。同年6月20日、駆逐艦陽炎は姉妹艦2隻(黒潮、親潮)と共に除籍された。また同日附をもって第15駆逐隊も解隊。陽炎型駆逐艦の名称も『不知火型駆逐艦』に変更された。

出典:wikipedia

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