長崎の鐘(ながさきのかね)は、永井隆が執筆した随筆。内容は、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく自ら同僚や市民たちの様子を克明に描いている。永井は、この時妻を亡くした。また、救護の際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤状態におちいるが、同僚医師や看護婦たちの努力により一命を取り留める。「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のこと。作品は1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の検閲によりすぐには出版の許可が下りなかった。精神科医の式場隆三郎が創刊に関った『東京タイムズ』に「原爆病患者の手記」の連載を始めると大いに話題になり、1948年、永井隆の『生命の河』がやはり式場隆三郎の経営する日比谷出版社から出版された。『長崎の鐘』は、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年(昭和24年)1月、同じく日比谷出版社から出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。永井自身は、「なかなか出版してくれる出版社がなく、式場隆三郎氏などの尽力により出版にこぎつけた」と本書序文に書いている。同年7月にサトウハチロー作詞・古関裕而作曲で同書をモチーフとした歌謡曲が発売されて大ヒットし、翌1950年(昭和25年)には松竹により映画化された。藤山一郎の楽曲。作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而。1949年(昭和24年)7月1日にコロムビアレコードから発売された。本作品発売の2ヶ月後、永井一家と交流のあった植本一雄の作詞・作曲による藤原義江の歌謡曲が同タイトルで発表されている。古関版「長崎の鐘」は、ソプラノ歌手藍川由美の「古関裕而歌曲集」にも収録されている(同CDには、永井博士の短歌に古関が曲をつけた「新しき朝の」も収録されている。元々その短歌は、「長崎の鐘」を聴いて感動した永井が詠み、古関・サトウ・藤山に贈った歌であった。藤山は自分の作曲による「新しき朝」を「長崎の鐘」に続けてステージで歌っており、古関版の「新しき朝」は藍川のCDが初録音となった)。なお、古関版「長崎の鐘」の歌詞には、原爆を直接描写した部分は全くない(当時の米軍の検閲をはばかったものと思われる)。藤山は1951年(昭和26年)1月3日放送のNHK『第1回NHK紅白歌合戦』で本曲を歌唱し白組トリおよび大トリを務めた。紅白ではその後も1964年(昭和39年)・第15回、1973年(昭和48年)・第24回(特別出演)、1979年(昭和54年)・第30回(特別出演、メドレーの2曲目で歌唱)の3回歌唱された。「長崎の鐘」の吹き込みは最初、池真理子で行おうとレコード会社は考えていたが、歌詞を見た池は「『長崎の鐘』は永井隆博士のご心境を歌ったものであるから、男の人が歌うべき。」と思い、尊敬していた藤山一郎へ吹き込みを切望し、会社側を説得。自身は母の気持ちを歌ったB面「いとし吾が子」を吹き込んだ。サトウハチローの詞は単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞である。古関裕而が作曲し、藤山一郎が優秀な音楽技術で格調高く美しく歌い上げた。なお、ハチローの弟も広島の原爆の犠牲者となっている。『長崎の鐘』(ながさきのかね)は、1950年(昭和25年)9月23日公開の日本映画である。松竹製作・配給。監督は大庭秀雄。モノクロ、スタンダード、94分。戦後、日本人によって原爆を取り扱った劇映画第1号である。GHQによる検閲の為、原爆及び被爆状況等について真正面から取り上げる事が出来ず、永井隆博士の生涯を描いた作品という形で製作された。1977年(被爆から33回忌にあたる)につくられた、軍需工場で働いていた人々の慰霊のためのモニュメントである。被爆地となった浦上には当時いくつもの軍需工場があり、そこで働いていた学生など多くの人々が原爆によって亡くなった。
出典:wikipedia
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