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不知火 (陽炎型駆逐艦)

不知火(しらぬい、しらぬひ)は、日本海軍の駆逐艦。陽炎型駆逐艦(一等駆逐艦)の2番艦である。この名を持つ日本海軍の艦船としては東雲型駆逐艦の「不知火」に続いて2隻目。ネームシップである陽炎型1番艦「陽炎」の沈没以降、陽炎型は『不知火型駆逐艦』として登録された。1937年(昭和12年)8月30日、本艦は浦賀船渠で起工。これは陽炎型全19隻の中で最初の起工だった(陽炎は舞鶴海軍工廠で9月3日起工)。また浦賀船渠は陽炎型全19隻中、6隻(2番艦《不知火》、5番艦《早潮》、10番艦《時津風》、13番艦《浜風》、17番艦《萩風》、19番艦《秋雲》)を建造した。1938年(昭和13年)4月15日、日本海軍は舞鶴海軍工廠で建造中の駆逐艦を『陽炎』、浦賀船渠の同型駆逐艦を『不知火』、藤永田造船所の本艦を『黒潮』、東京石川島造船所の測天型敷設艇2番艇を「白神」と命名する。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐艦』が新設され、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同型に類別された。同年6月28日、「不知火」は進水。進水も1番艦「陽炎」(同年9月27日)より早かった。1939年(昭和14年)8月1日、日本海軍は朝潮型駆逐艦5番艦「朝雲」艦長中村謙治中佐を不知火艤装員長に任命。朝潮型6番艦「山雲」艦長有馬時吉少佐が、山雲艦長と朝雲艦長を兼務する。同月、不知火艤装員事務所を設置。12月20日、陽炎型2番艦「不知火」は竣工。中村謙治中佐は制式に不知火駆逐艦長(初代)となる。初代幹部は、白石信秋大尉(砲術長)、福山修大尉(航海長)、生永邦雄大尉(水雷長)、服部知一機関少佐(機関長)。呉鎮守府在籍。竣工のみ、1番艦「陽炎」が先行した(同年11月6日)。1939年(昭和14年)12月20日の竣工と同時に、本艦は新鋭駆逐艦3隻(朝潮型9番艦霞、朝潮型10番艦霰、陽炎型1番艦陽炎)で編制された第18駆逐隊(昭和14年6月28日編制)に編入。同隊は定数4隻(霞、霰、陽炎、不知火)を揃えた。駆逐隊司令は、後日「神通」艦長として戦死する佐藤寅治郎大佐。第18駆逐隊は、第二艦隊・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将。旗艦神通《艦長木村昌福大佐》)に所属していた。1940年(昭和15年)10月15日、不知火駆逐艦長は中村謙治中佐から、吹雪型駆逐艦17番艦「朧」艦長赤澤次壽雄中佐に交代。中村謙治中佐は第11駆潜隊司令を経て青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」副長となり、同艦がサボ島沖海戦で大破した際に、第六戦隊司令官五藤存知少将と共に戦死した(海軍大佐に昇進)。12月7日、第18駆逐隊司令は佐藤寅治郎大佐から荒木傳大佐に交代。佐藤大佐は翌年3月31日より第4駆逐隊初代司令となる。第18駆逐隊はおもに内地で訓練に従事した。1941年(昭和16年)9月1日、荒木(18駆司令)は球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」艦長へ転任(荒木は11月28日より重巡「古鷹」艦長。サボ島沖海戦で同艦沈没)。新司令として、駆逐艦複数隻(初霜、漣、電)艦長等を歴任した宮坂義登大佐(前職、第30駆逐隊司令)が着任した。9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転出(五藤は、サボ島沖海戦で旗艦「青葉」大破時に戦死。その際、青葉副長中村謙治中佐《不知火初代艦長》戦死)。後任の二水戦司令官は神通艦長等を歴任した田中頼三少将となった。また第18駆逐隊司令駆逐艦は臨時移動以外「霰」に指定されていたが、9月29日より「不知火」に変更される。太平洋戦争開戦時の第18駆逐隊(駆逐隊司令 宮坂大佐)は朝潮型駆逐艦2隻(霰、霞)、陽炎型駆逐艦2隻(陽炎、不知火)で編制されていた。18駆が所属する第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)は軽巡洋艦「神通」を旗艦とし、第8駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮)、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊(雪風、時津風、初風、天津風)、第18駆逐隊という戦力である。だが第8駆逐隊は第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦:重巡洋艦「愛宕」)直率の南方部隊本隊に編入されている。第18駆逐隊も第二水雷戦隊の指揮下を離れ、南雲機動部隊(第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将)警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官:旗艦「阿武隈」)に編入。陽炎型姉妹艦4隻(谷風、浦風、浜風、磯風)で編制された第一水雷戦隊・第17駆逐隊と、第五航空戦隊所属の陽炎型19番艦「秋雲」も警戒隊に所属して18駆と行動を共にした。1941年(昭和16年)11月18日、佐伯湾出撃。11月26日、ハワイ攻撃機動部隊の空母6隻(《赤城、加賀》、第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第五航空戦隊《翔鶴、瑞鶴》)の護衛艦として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した。1942年(昭和17年)1月5日、第18駆逐隊(不知火《司令駆逐艦》、霞、陽炎、霰)は呉を出発。南雲機動部隊とラバウル攻撃に従事、以後、2月には第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)のポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦に参加した。3月1日、南雲機動部隊はオランダの商船モッドヨカード(8020トン)と遭遇。「不知火」は国籍を示さぬモッドヨカードに対し砲撃を開始し、僚艦(17駆《磯風》、27駆2小隊《有明、夕暮》)と共同してオランダ商船を撃沈した。なお機動部隊護衛艦の砲撃に対し大森(一水戦司令官)や草鹿龍之介機動部隊参謀長は「射撃距離が遠すぎる。弾薬を節約せよ」と苦言を呈している。3月―4月のセイロン沖海戦を終えると、不知火以下第18駆逐隊は日本本土に戻り、呉で入渠修理を行った。4月20日をもって各隊は元所属部隊指揮下に戻り、第18駆逐隊も警戒隊(第一水雷戦隊)から第二水雷戦隊に復帰した。5月上旬、日本軍はミッドウェー島攻略を企図してミッドウェー作戦を発動。第二水雷戦隊(旗艦《神通》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、早潮》、第16駆逐隊《雪風、時津風、初風、天津風》、第18駆逐隊《不知火、霞、陽炎、霰》)は攻略部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属。ミッドウェー島上陸部隊輸送船団の護衛としてサイパンに進出(5月24日到着)、6月上旬のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加した(早潮は航空隊所属)。海戦後、衝突と空襲により大破した最上型重巡洋艦1番艦「最上」を護衛、トラック泊地まで護衛した。6月23日、呉に帰投。1942年(昭和17年)6月28日、「陽炎」を除く第18駆逐隊3隻(霰、霞、不知火)はアリューシャン方面作戦に参加するため第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将:旗艦那智)の指揮下に入り、横須賀から水上機母艦「千代田」と貨客船「あるぜんちな丸」の護衛としてキスカに向かった。「陽炎」は対潜掃蕩に従事し、また本来護衛する予定の「鹿野丸」出港準備が遅れ、7月9日に「菊川丸」を護衛して横須賀を出発した。7月5日夕刻、護衛対象2隻(千代田、あるせんちな丸)はキスカ島キスカ湾に入港したが、18駆(不知火、霞、霰)は折からの濃霧のため投錨位置が予定と大幅に異なって湾外に仮泊。当時の18駆司令宮坂義登大佐(兵47期)は、乗員の疲労を考えて転錨を遅らせたこと、霧のため予想より沖合に停泊してしまったこと、米潜水艦の活動は仮泊地には及ばないと考えていたこと、などが大被害の要因になったと回想している。また第五艦隊参謀長中澤佑大佐は、南方からきて疲労していた第18駆逐隊が北方地域の日の出の時刻を勘違いしていたのでは…と推測している。この時、ハワード・W・ギルモア艦長指揮下の米潜水艦グロウラー("USS Growler, SS-215")が第18駆逐隊を襲撃した。グロウラーはまず先行艦2隻(不知火、霞)に魚雷を1本ずつ発射し、そして3番目の艦(霰)に魚雷2本を発射した。「霰」に向けて発射した魚雷は1本目は外れたものの、2本目が霰の前檣下に命中するのを確認した。「霰」は主砲で反撃を試みたが、逆にもう1本魚雷を打ち込まれて沈没。「霞」は艦首一番砲塔下に命中、浸水と大火災が発生し艦首が右に屈曲沈下し、即時の自力航行や曳航が不可能なほど大破。「不知火」も第一缶室に被雷し第一、第二缶室が浸水した上、後甲板も屈曲、龍骨も切断、「霞」同様に即時の自力航行や曳航が不可能なほど大破した。第18駆逐隊の大被害により、第18駆逐隊司令宮坂義登大佐は更迭された(後日、予備役に編入)。なお同日、アッツ島沖で初春型駆逐艦2番艦「子日」が米潜水艦トライトンの雷撃で撃沈されている。わずか1日で駆逐艦2隻(霰、子日)喪失、2隻(霞、不知火)大破という事態に、宇垣纏連合艦隊参謀長(戦艦大和座乗)は各方面に苦言を呈することになった。米潜水艦の活発な行動に危機感を覚えた北方部隊(第五艦隊)は、アメリカ軍機動部隊が出現しないこともあり、空母瑞鶴・瑞鳳・龍驤以下増援部隊各艦を内地に帰投させた。駆逐隊司令不在となった第18駆逐隊(不知火、霞)は、「日産丸」の残骸を楯として応急修理を続けた。「不知火」の船体は、艦橋と一番煙突間で切断することになった(8月2日実施)。7月15日、キスカ島にてアメリカ潜水艦グラニオンが三隻の駆潜艇を攻撃し、そのうちの第25号駆潜艇と第27号駆潜艇を一撃で撃沈した。7月19日、「陽炎」は「菊川丸」を護衛してキスカへ進出。大破した僚艦2隻(不知火、霞)に遭遇した。7月20日、18駆唯一の健在艦となった「陽炎」は、南方作戦で陽炎型6番艦「夏潮」を喪失して3隻編制(黒潮、親潮、早潮)になっていた第15駆逐隊に編入される。残存した2隻(霞、不知火)は同日附で第五艦隊附属となる。現地では2隻(不知火、霞)の応急修理を行うが対処しきれず、就役したばかりの夕雲型駆逐艦4番艦「長波」が救難資材と工員を乗せて横須賀を出発、7月27日にキスカ島へ進出した。7月27日、曳航可能な状態までに応急修理をおこなった「霞」は吹雪型駆逐艦23番艦「雷」(第6駆逐隊)に曳航され、「陽炎」の護衛の元でキスカ島を出発、8月3日幌筵島にて曳航任務は吹雪型24番艦「電」(第6駆逐隊)に変更、続いて8月9日に石狩湾で「富士山丸」に引き継がれた。一方、「不知火」は横須賀で修理することを予定していたが、最終的に舞鶴での修理に決まる。8月15日、第18駆逐隊は解隊(第五艦隊附属)。同日、不知火救援のため「電」がキスカ湾に到着。駆潜艇26号護衛のもと「電」は「不知火」を曳航してキスカを出発、幌筵島まで曳航した(8月20日着)。8月21日、「不知火」は「神津丸」(摂津商船)に曳航されて同地発。「神津丸」曳航下、9月3日に舞鶴へ到着。修理に従事する航海中の8月31日、2隻(霞、不知火)は戦時編制から除かれ、特別役務駆逐艦に指定された。「不知火」は1942年(昭和17年)9月3日から1943年(昭和18年)11月15日まで舞鶴工廠で修理を実施した(詳細後述)。1942年後半当時の舞鶴海軍工廠は、島風型駆逐艦島風、秋月型駆逐艦(初月)や夕雲型駆逐艦複数隻(浜波、沖波)の建造、バリ島沖海戦で損傷した朝潮型2番艦「大潮」やクリスマス島攻略作戦で大破した川内型軽巡洋艦3番艦「那珂」《翌年3月下旬修理完了》、駆逐艦複数隻の修理整備工事を抱えており、不知火・霞の修理もその中でおこなわれた。9月10日附で、大潮駆逐艦長および霞駆逐艦長職務は友重丙中佐から杉岡幸七中佐(陽炎型12番艦「磯風」初代駆逐艦長。吹雪型16番艦「狭霧」沈没時艦長)に交代。また同日附で不知火駆逐艦長赤澤次壽雄中佐は秋月型駆逐艦3番艦「涼月」艤装員長へ転出。杉岡中佐は駆逐艦3隻(大潮、霞、不知火)艦長を兼務した。11月6日、キスカ島沖で空襲を受け大破した初春型駆逐艦1番艦「初春」(10月17日大破)が舞鶴に到着。11月15日附で杉岡中佐は陽炎型16番艦「嵐」駆逐艦長を命じられる(杉岡はベラ湾夜戦で「嵐」沈没時に戦死)。また「初春」艦長牧野担中佐も免職(後日、牧野は沖波艤装員長・初代艦長)。吹雪型17番艦「朧」艦長山名寛雄少佐が(朧は初春と行動中の10月17日に沈没)、駆逐艦4隻(大潮・霞・不知火・初春)の艦長を兼務することになった。12月20日、廣瀬弘中佐が大潮駆逐艦長に任命され、山名少佐の艦長兼務は駆逐艦3隻(霞、不知火、初春)となった。12月27日、霞・不知火に先駆けて「大潮」の修理が終わり、舞鶴を離れた。1943年(昭和18年)1月19日、天龍型軽巡洋艦2番艦「龍田」が舞鶴工廠に到着、修理に入った。1月20日には夕雲型17番艦「早霜」が舞鶴海軍工廠で起工。3月31日、不知火・霞に先駆けて「那珂」の修理が終わった(4月5日、舞鶴を出発)。春には北方戦線に従事する軽巡2隻(阿武隈、多摩)がそれぞれ舞鶴に到着(阿武隈4月17日着、多摩5月4日着)、修理に入る。4月24日、ガダルカナル島撤退作戦で損傷した夕雲型駆逐艦5番艦「巻波」が舞鶴に到着、不知火・霞と共に修理に従事する。同艦機関部の損傷は深刻で、人見(巻波艦長)は舞鶴海軍工廠で修理中の「不知火」用機関を流用するよう提案している。5月8日、コロンバンガラ島への輸送作戦に従事していた第二水雷戦隊・第15駆逐隊の陽炎型3隻(親潮《司令駆逐艦》、黒潮、陽炎)がアメリカ軍の機雷により沈没、一挙に全滅した。3隻と第15駆逐隊は6月20日に除籍されたが、その際に『陽炎型駆逐艦』の名称も『不知火型駆逐艦』に改定された。5月10日、新鋭駆逐艦「島風」(艦長廣瀬弘中佐)が竣工。5月12日、アメリカ軍はアッツ島に上陸、アッツ島の戦いが勃発したため舞鶴で整備中の軽巡2隻(阿武隈、多摩)は急遽修理を終わらせて出撃した。5月20日、「霞」の修理は完成目前となる。同日、夕雲型5番艦「巻波」駆逐艦長人見豊治中佐は、巻波艦長に加えて不知火・初春艦長の兼務を命じられ、山名(霞艦長)は兼務職を解かれた。6月1日、米潜水艦トートグの雷撃で大破した長良型軽巡洋艦3番艦「名取」が舞鶴に到着、第四予備艦に指定され修理に入った。キスカ島撤退作戦の任務を終えた夕雲型4番艦「長波」(第31駆逐隊)は6月5日舞鶴に到着、23日に修理を終えて出撃した。6月30日、「霞」の修理が完了。同艦は第十一水雷戦隊に編入され、舞鶴での試験と内海西部での訓練をおこなったあと、9月1日附で第9駆逐隊に編入。北方の最前線に進出した。9月10日、人見(巻波艦長)は不知火・初春艦長兼務を解かれ、巻波艦長に専念。後任の初春艦長は海軍水雷学校教官飛田清少佐。「巻波」の修理は9月15日に完了。第31駆逐隊の夕雲型3隻(長波、巻波、大波)は順次舞鶴を離れた。巻波修理完成と同日、友重丙中佐(舞鶴防備隊副長と軽巡「名取」副長兼務)は、不知火駆逐艦長も兼務することになった。10月5日、友重中佐は第一南遣艦隊司令部附となり、安並正俊中佐が舞鶴防備隊副長・名取副長・不知火駆逐艦長を引き継ぐ。10月15日、呉鎮守府第四予備艦だった「不知火」は第一予備艦に改定される。舞鶴鎮守府部隊に編入。10月20日、のちに「不知火」沈没を目撃する夕雲型17番艦「早霜」が舞鶴で進水。10月31日、安並中佐は不知火艦長の職務を解かれる。日本海軍は、長良型軽巡4番艦「由良」水雷長、千鳥型水雷艇「友鶴」艇長、妙高型重巡洋艦2番艦「那智」水雷長、第八戦隊参謀(真珠湾攻撃時)等を歴任した荒悌三郎少佐を不知火駆逐艦長に任命した。対空機銃、レーダー、水中聴音機、他各部の装備改良をおこなったのち、11月中旬に「不知火」の修理は完了した。1943年(昭和18年)11月15日、「不知火」は新編された第九艦隊(司令長官遠藤喜一中将、第二根拠地隊司令官鎌田道章少将/12月10日より緒方眞記参謀長兼務、第七根拠地隊司令官工藤九八少将)に加入した。敷設艇「白鷹」と共にニューギニア(NGB)部隊(指揮官第九艦隊司令長官)・護衛部隊(指揮官三木高秀白鷹艦長)に所属、同部隊はパラオからウェワク諸島間の海上護衛に投入予定だった。「不知火」は内海西部に回航後、訓練に従事。11月下旬から12月下旬にかけて、第十一水雷戦隊各艦(龍田、浜波、山城、伊勢、朝霜、岸波、沖波、満潮、春雨)等と訓練および整備を実施した。1944年(昭和19年)1月5日以降、ウェワク輸送に従事する。2月23日、「不知火」は第九十警備隊(司令鬼束鐡夫大佐)約300名をホーランジア(ニューギニア島北岸)に輸送した。3月1日、本艦は第五艦隊(司令長官志摩清英中将:旗艦「那智」)所属、第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将:旗艦「阿武隈」)麾下の第9駆逐隊(駆逐隊司令井上良雄大佐)に編入。本艦編入後の第9駆逐隊は、吹雪型駆逐艦2隻(薄雲、白雲)、満潮型1隻(霞)、不知火型1隻(不知火)の混成部隊となった。なお「不知火」転出直後に敷設艇「白鷹」(排水量約1500トン)も第一海上護衛隊に編入され、所属大型艦2隻(不知火、白鷹)を引き抜かれた第九艦隊はホーランジアの戦いにおける陸上戦闘で全滅した(司令部以下玉砕)。3月16日、米潜トートグの雷撃で「白雲」が撃沈され、第9駆逐隊は4隻が一同に揃うことなく3隻体制となった。3月31日をもって第9駆逐隊は第18駆逐隊に改称された。第9駆逐隊司令井上良雄大佐はそのまま第18駆逐隊司令となり、井上は「不知火」を司令駆逐艦に指定した。「不知火」と「霞」は再び「第18駆逐隊」として活動する事になった。南方方面での輸送任務を終えた「不知火」は呉工廠で探信儀装備工事を実施(3月22日から28日)。4月以降は大湊、千島方面の護衛活動を行った。6月、アメリカ軍はマリアナ諸島に来襲しサイパンの戦いが始まった。大本営は6月17日未明のサイパン守備隊の反撃の失敗の報に接し、これ以上の事態の重大化を抑える事と、先日に東条英機参謀総長が天皇にサイパンは確実に防衛できるとの上奏した手前もあり、サイパン失陥は絶対に防がないといけないとの意志で、6月17日夜には速射砲5個大隊や20糎臼砲大隊等の増援部隊や武器弾薬を送り込む事を決定し、第五艦隊に準備を指示している(イ号作戦と呼称、い号作戦とは別)。これに対し神重徳連合艦隊参謀は、戦艦山城と第五艦隊(巡洋艦《那智、足柄、多摩、木曽、阿武隈》、第7駆逐隊《曙、潮》・ 第18駆逐隊《不知火、霞、薄雲》)を主力とするサイパン島殴り込み作戦を立案していた。海軍陸戦隊をサイパンへ強行輸送しつつ、艦隊は浮き砲台となって陸上砲撃をおこなう計画であった。神は山城艦長となって自ら陣頭に立つことを希望した。連合艦隊の命令により各部隊は横須賀に集結、「不知火」は6月21日に入港した。機銃およびレーダーを整備。大本営は「イ」号作戦に加えて、6月19日に開始される予定の機動部隊と基地航空隊による「あ」号作戦でのアメリカ艦隊撃滅を期待した。だが6月19-20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は大敗し、空母機動部隊は壊滅する。「イ」号作戦については海軍に積極的意図があればやってもよいという消極的な対応となったが、陸海軍の間でサイパンへの対応について6月22日~23日の2日間に渡って協議がなされた結果、もはや連合艦隊にマリアナ海域に突入できる戦力はないことや、制空・制海権が無い中での増援部隊の海上輸送は困難との事で、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には陸海軍総長が中部太平洋方面に対する今後の作戦指導について上奏したが、これによりサイパンは実質的に放棄が決定された。6月27日、18駆(不知火、霞)は輸送船団の対潜哨戒任務に投入された。その後、18駆(不知火、霞)は第21戦隊1小隊(那智、足柄)と共に大湊へ移動。7月7日、薄雲が米潜水艦スケートの雷撃で撃沈され、第18駆逐隊は2隻編制(不知火、霞)となった。8月2日、横須賀帰投。以降、硫黄島輸送に従事。8月12日、木曾艦長指揮下の4隻(軽巡2隻《木曾・多摩》、第18駆逐隊《不知火、霞》)は父島への輸送任務に従事した。8月14日、呉に到着。その後、不知火以下第五艦隊(第二遊撃部隊)は瀬戸内海で小沢機動部隊(第三艦隊)を訓練を実施。10月14日、台湾沖航空戦での過大な戦果報告により、大損害を受けた(と思われる)米機動部隊攻撃のため、連合艦隊司令部は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将/第五艦隊司令長官、通称志摩艦隊)に対し台湾東方へ進出し、「好機をとらえて敵損傷艦の補足撃滅及び搭乗員の救助に当れ」と命令、豊田副武連合艦隊司令長官も『敵機動部隊はわが痛撃に敗退しつつある。基地航空隊と第二遊撃部隊は全力を挙げて残敵を掃討せよ』と命じる。10月15日、志摩艦隊は重巡2隻(那智、足柄)、第一水雷戦隊(軽巡《阿武隈》、第7駆逐隊《曙、潮》・、第18駆逐隊《不知火、霞》第21駆逐隊《若葉、初春、初霜》)を引き連れ瀬戸内海を出撃した。一方、アメリカ軍のハルゼー提督は暗号解読により日本艦隊(志摩艦隊)が出撃したと知ると、損傷巡洋艦2隻に空母を含む護衛部隊をつけ、偽装電報を発信して日本艦隊を誘因しようとした。しかし日本艦隊の動きが鈍い事を知ると、艦隊戦闘に向けての準備をやめ、レイテ上陸支援に専念するよう命じた。16日、連合艦隊司令部はアメリカ軍機動部隊が健在である事にようやく気付き、志摩艦隊に台湾の馬公に入港するよう命じる。17日、志摩艦隊(那智)は奄美大島薩川湾に入港、18日に出航、20日馬公に進出した。10月21日、第二航空艦隊長官から駆逐艦3隻派遣の要請を受け、第二航空戦隊の高雄~マニラ輸送に協力するよう命じられていた志摩長官は第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)を派遣し、これにより志摩艦隊戦力は巡洋艦3隻(那智、足柄、阿武隈)と駆逐艦4隻(第7駆逐隊《曙、潮》・ 第18駆逐隊《不知火、霞》)に減少してしまう。志摩艦隊は連合艦隊と南西方面艦隊の命令に振り回されており、その指揮系統は非常に複雑であった。同日、志摩艦隊はレイテ湾に来襲したアメリカ軍攻撃のため出撃。23日夕刻にコロン湾に到着すると、24日午前2時に出港、第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊)の後を追うようにスリガオ海峡に向かったが、指揮系統の違う両艦隊の間で情報の交換は全く行われなかった。また別行動を取っていた第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)も空襲により「若葉」喪失、「初霜」損傷という被害を受けた。25日日付変更直後、那智以下志摩艦隊はスリガオ海峡に突入。当初は、駆逐艦2隻(曙、潮)が2km先行して並列して進み、後方中央に那智―足柄―阿武隈―不知火―霞が単縦陣を形成して26ノットを発揮していた。午前3時頃、西村艦隊と米艦隊との戦闘音や閃光を視認する。直後、アメリカ軍魚雷艇の攻撃により第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」(司令官木村昌福少将)が3時24-25分に被雷落伍した。6隻(那智、足柄、不知火、霞、潮、曙)は単縦陣を成形して航行し、4時10分に海峡中央部で炎上する艦艇2隻(艦によっては3隻)を発見するが、それはスリガオ海峡で真っ二つになって炎上する扶桑型戦艦1番艦「扶桑」であった。炎上する「最上」も4つの炎上艦艇を視認している。西村艦隊は米艦隊の砲撃雷撃の集中攻撃により戦艦2隻(山城、扶桑)、第4駆逐隊2隻(満潮、山雲)を撃沈され、最上型重巡洋艦1番艦「最上」と朝潮型駆逐艦5番艦「朝雲」は大破して微速退避中、中破した白露型駆逐艦2番艦「時雨」は舵故障と修理を繰返しながら撤退中で、健在艦は一隻も残っていなかった。海峡へ向かう志摩艦隊は「時雨」から艦名を問われて『われ那智』と返答する。志摩長官は『那智の後に続け』と命じたが、時雨河は『舵故障中』と返答して、単艦で避退していった。4時15分、「那智」のレーダーが方位25度、距離11kmに敵艦らしき目標2つを探知、重巡2隻(那智、足柄)は各艦魚雷8本を発射した。アメリカ軍はヒブソン島で日本軍の魚雷2本を発見しているため、那智・足柄は島に向けて魚雷を撃ったとみられるが、雷跡を視認して報告したアメリカ軍駆逐艦部隊も存在する。雷撃後の「那智」は炎上中の西村艦隊の重巡「最上」の前方を通過しようとしたが、停止したと思われていた「最上」は速力8ノットで前進しており、両艦は同航体勢で衝突した。「那智」は艦首を損傷し、最大速力約18-20ノットに低下してしまう。志摩長官は突入中止を決定、4時25分に『当隊攻撃終了、一応戦場を離脱して後図を策す』と打電する。那智・足柄は扶桑の残骸のそばを通過、再び「時雨」と遭遇して合流を指示したが、時雨は続行できなかった。また、「最上」に対しては「曙」が護衛についた。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将以下司令部は「阿武隈」より「霞」に移乗し、「阿武隈」は「潮」の護衛下で退避した。夜が明けると、志摩艦隊と西村艦隊残存艦はアメリカ軍魚雷艇群、アメリカ軍水上艦艇、アメリカ軍機動部隊艦載機、アメリカ軍基地航空隊の反復攻撃を受け、「朝雲」が米艦隊の砲撃で沈没、「最上」も空襲により25日午後1時に自沈、「阿武隈」も26日の空襲で沈没した。一方那智以下志摩艦隊はマニラを目指して避退中、志摩長官は栗田艦隊(第一遊撃部隊)から落伍・航行不能となっていた最上型重巡洋艦4番艦「熊野」(第七戦隊)を発見し、2隻(足柄、霞)に救援を命じた。「那智」と「不知火」は26日14時にコロン湾に到着、3隻(熊野、足柄、霞)は16時28分にコロン入泊を果たした。サミュエル・モリソンは著書「モリソンの太平洋海戦史」の中で本海戦について『日本海軍がこの戦闘で何をもって慰めとするかの答えはむつかしい。彼らの雷撃の技量は1943年の標準に及ばず、砲撃の効果もきわめて小さかった。シーマンシップさえ低下したことは那智と最上の衝突が示している。戦闘全体を通じて最も知的な行為は、志摩長官が避退命令を出したことだった。』と評している。栗田艦隊、志摩艦隊、小沢機動部隊、基地航空隊の連繋は機能せず、その中で扶桑型戦艦2隻を投入しての局地夜戦は、第三次ソロモン海戦の失敗を繰り返して終わった。10月26日夕刻、パナイ島北東で第十六戦隊の軽巡「鬼怒」、駆逐艦「浦波」が空襲を受け沈没した。第十六戦隊司令官左近允尚正中将からの救援要請を受けた連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将は、第五艦隊・第一水雷戦隊に鬼怒曳航艦の派遣を求めた。同日日没後、「不知火」は「鬼怒」の救助に向かうが発見できず(鬼怒は26日17時20分沈没)、帰途についた。その途上の10月27日朝、米空母艦載機の攻撃によりフィリピン諸島シブヤン海地点で沈没。第18駆逐隊司令井上良雄大佐・荒(不知火艦長)以下全員が戦死した。井上大佐は海軍少将に、荒中佐は海軍大佐に、それぞれ進級した。不知火沈没地点の側には、夕雲型駆逐艦17番艦「早霜」(第2駆逐隊所属)がアンティーケ州セミララ島の浅瀬に擱座しており(10月26日)、早霜乗組員は不知火轟沈の光景を目撃することになった。夕雲型11番艦「藤波」(第32駆逐隊所属)に続いて2度目の目撃である。11月1日、那智水上偵察機がアンティーケ州セミララ島に擱座した「早霜」を発見、着水して「不知火」がセミララ島西方1000mの地点で沈んだことを聞き出した。11月5日、「那智」はマニラ湾で空襲を受け、沈没した。11月15日、第18駆逐隊は再び解隊。残存した「霞」は第七駆逐隊に転出した。12月10日、駆逐艦「不知火」は不知火型、帝国駆逐艦籍より除籍された。

出典:wikipedia

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