アキレ・ラウロ号事件(アキレ・ラウロごうじけん)は、1985年に発生した旅客船乗っ取り事件である。この事件を含め、当時の一連のテロ事件はレーガン政権にカッザーフィー(カダフィ大佐)懲罰としてのリビア爆撃を決断させる要因となった。本来は船舶の乗っ取りも「ハイジャック」であるが、日本語圏における用法を考慮し以下「シージャック」と記述する。1985年10月7日、エジプトのアレクサンドリアから同国ポートサイドへと向かう航海の途中、武装したパレスチナ解放戦線の男4人がイタリアの旅客船アキレ・ラウロ号を掌握した。シージャック犯は乗客と乗員を人質に取りながら、船をシリアのタルトゥースへ向かわせ、当時イスラエルの収容所にいたパレスチナ解放戦線のメンバー50人の釈放を要求した。タルトゥース入港を拒否されると、シージャック犯らは車椅子に乗っていたユダヤ系アメリカ人男性乗客、レオン・クリングホーファーを銃撃し海へ突き落として殺害した。船はポートサイドへと回頭し、2日間の交渉の後、シージャック犯は自由通行許可証と引き替えに投降して船を放棄し、エジプト航空のボーイング737に搭乗してチュニジアへ向かった(このボーイング737は、後にエジプト航空648便ハイジャック事件で破壊されることになる)。10月10日、当該機はアメリカ海軍第6艦隊所属の空母サラトガから発艦した戦闘機F-14によって迎撃され、シチリア島のNATO軍シゴネラ海軍航空基地への着陸を指示された。アメリカとイタリア当局の不和の中で、シージャック犯はイタリア側により逮捕された。機上の他の乗客たち(おそらくシージャック犯のリーダーであるアブー・アッバースを含む)は引き続き目的地までのフライトを許された。当該機にコースから外れることを強要したことについて、エジプトはアメリカによる謝罪を要求したが、アメリカは異議を申し立てている。有罪判決を受けたシージャック犯のその後は様々である。PLO(パレスチナ解放機構)はレオン・クリングホーファーの死に関与したとして提訴されたが、訴訟はPLOがクリングホーファーの娘たちに非公式に賠償金を渡すと取り下げられた。その金は名誉毀損防止同盟レオン・アンド・マリリン・クリングホーファー追悼基金の設立に用いられ、法的、政治的および経済的な手段でテロリズムと対決するのに用いられている。事件の後もアキレ・ラウロ号は旅客船として航海を続けたが、1994年11月30日、ソマリア近海で火災が発生するとアキレ・ラウロ号は放棄され、12月2日に沈没した。1938年に発注され、1939年にオランダのフリシンゲンで起工されたが、第二次世界大戦と2回の空襲に阻まれ、当時の船名「ウィレム・ルイス(Willem Ruys)」として進水したのは1946年7月のことだった。1947年11月21日に竣工し、1947年12月2日に処女航海を行った。本船は全長192メートル、全幅25メートル、深さ8.9メートル、総トン数21,110トンで、900名を収容できた。8基のSulzerディーゼルエンジンを搭載し、2基のスクリューを備えていた。1964年にアキレ・ラインに売却されると、当時の前ナポリ市長の名をとってアキレ・ラウロ号と改名された。広範囲にわたる改修と近代化が行われ、就役したのは1966年である。その後1985年のシージャック事件に遭いつつ運航を続けたが、1994年11月30日に発生した火災で壊滅的な被害を受け、3日後の12月2日に沈没した。奇しくもアキレ・ラウロ号が沈没した12月2日は同船が処女航海を行った日でもあった。
出典:wikipedia
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