李 牧(り ぼく、? - 紀元前229年)は、中国春秋戦国時代の趙国の武将。大将軍でもあり、武安君の称号を持つ。『史記』「廉頗藺相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけている。元々は趙の北方、代の雁門に駐屯する国境軍の長官で、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して備える任についていた。警戒を密にし烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していた。匈奴の執拗な攻撃に対しては徹底的な防衛・篭城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命していたからである。しかし、そのやり方が匈奴だけでなく、趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる。趙王さえも李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので任を解かれた。李牧の後任者は勇敢にも匈奴の侵攻に対して討って出たが、かえって被害が増大し、国境は侵された。そのため趙王は過ちに気付き、李牧に任を請うたが、李牧は門を閉じて外に出ず、病と称して固辞した。それでも将軍に起用されたので、李牧は「王がどうしても私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを許された。そして李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった。ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。これに味をしめた匈奴の単于が大軍を率いてきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった。その後、さらに代の北にいた東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなった。紀元前243年、悼襄王の命で燕を討ち、武遂や方城などに侵攻している。蘭相如や趙奢といった名将を亡くしていた趙は、紀元前260年に長平の戦いで秦に大敗し、衰亡の一途をたどっていた。また、折りしも紀元前245年に老将廉頗が楽乗と争い出奔したことから、秦の侵攻が激しくなり、紀元前234年には趙将・扈輒の率いる軍勢が武遂で敗れ、10万人が犠牲になった。そのため、北辺の功を認められた李牧は同年、幽繆王の命により大将軍に任じられ、中央に召還された。紀元前233年、秦は趙の赤麗および宜安を攻めたが、李牧はこれを破り退けた。その際、宜安を攻めた秦将・桓齮を討っている(あるいは敗走させた)。この功績により李牧は武安君に封じられた。紀元前232年、秦は趙の番吾を攻めたが、李牧は秦軍を再び撃破した。さらに李牧は秦から韓、魏の国境まで領土を奪還した。当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみである。紀元前229年、秦の王翦、楊端和、羌瘣が大軍を以て趙を攻め、王翦が井陘(現・河北省)を降した。そのため、趙は李牧と司馬尚(司馬卭の父)に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策した。郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した。そして、趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、郭開の言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された。李牧の死は趙の滅亡を意味していた。趙軍は趙葱と斉将・顏聚に率いられたが、彼らは間もなく王翦に大敗し、大勢の趙兵が殺害された。邯鄲は秦軍によって陥落、幽繆王も捕らえられ、趙はついに滅亡した(紀元前228年)。『趙策四』によると、趙が滅んだのは李牧が殺害されて3ヵ月後(あるいは5か月後)の話だったという。『新唐書』宰相世系表二上によると、李牧は李曇の孫、李璣の息子、李雲の弟、李斎の兄である。また、彼には李汨・李弘・李鮮の三子が、孫に李諒・李左車・李仲車がいる。
出典:wikipedia
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