大英堂製パン店(だいえいどうせいパンてん/たいえいどうせいパンてん)は、東京都西部・城南地域を中心として展開した製パン店である。都内に広く展開した丸十製パンや木村屋、栄喜堂などと比較すると小規模な製パン店グループではあるが、最大9店舗が同時に営業していたことがある。大英堂は福井県丹生郡出身の和菓子職人・上野巍により、1922年(大正11年)三軒茶屋に開業した。もともとは和菓子店で、パン職人を雇うことにより製パン店となった。この背景には、1918年(大正7年)の米騒動により米に変わる主食の必要性が高まったこと、1920年(大正9年)の陸軍での計画的パン給食開始など、社会的ニーズの高まりがあった。全国で「連隊御用パン屋が出現」する中、砲兵聯隊など多くの陸軍施設が集中した世田谷に於いて、陸軍へのパン納入業者として、また関東大震災後の周辺の人口増加などにより発展。学校給食や三菱電機世田谷工場など大口の納入先を持ち、パンの卸も行う世田谷区最大級の製パン店となる。昭和初期には渋谷駅前、四谷(新宿区大京町)に支店を出し、戦時中には大崎・明電舎工場内にも進出していた。戦後は経堂、不動前に出店。不動前の店主となる富山県出身の関利吉は、上野巍の和菓子職人修業時代の弟弟子で、彼の血縁・地縁によるのれん分けが多かったため、大英堂の店主には富山県出身者が多かった。不動前からは下北沢(1959年(昭和34年))、馬込(1966年(昭和41年))、明大前(1968年(昭和43年))、矢口渡(1971年(昭和46年))に、経堂からは野沢、市が尾(いずれも1980年代前半)などに相次いでのれん分けする。いずれの店もほんのり甘みのある、素朴なパンが特徴で、総菜パンを得意とする。多くの店舗が家族経営の小規模な店舗であるため、大規模な工場で大量・安価に製造できる大手製パン会社の成長やコンビニエンスストアの進出が経営を圧迫。経営者の高齢化などもあり、大英堂は1990年代に急速に店舗を減らした。2008年(平成20年)現在、明大前、馬込、下北沢・mixture (bakery & cafe[大英堂]、後述) の3店舗が営業していたが、馬込店は2012年3月10日、閉店した。1922年(大正11年)和菓子職人・上野巍により開店。パン職人を雇うことにより製パン店となる。一般的に、日持ちのしない商品特性から商圏が狭い製パン店だが、玉電沿線を中心に広く顧客を集めていた。また、陸軍へのパンの納入業者であり、三菱電機世田谷工場(1962年(昭和37年)に相模原へ移転)、松沢病院、学校給食など大口の顧客を持つ世田谷区最大級の製パン店となった。
パンと並行して、和菓子や洋菓子も製造販売され、絶大な人気を誇った将棋の十三世名人・関根金次郎(1868-1946)を記念した「将棋の駒の形をしたモナカ」、世田谷の名所を焼き入れた「世田谷名所せんべい」なども発売されていたという。戦後、1949年(昭和24年)に三軒茶屋・大英堂は株式会社となる。世田谷通りに面した店舗は2階が喫茶室となっており、出窓の付いた吹き抜けの階段から上がる形式となっていた。
1961年(昭和36年)に店舗用地を三井信託銀行世田谷支店に譲る形で移転する。東急世田谷線の線路沿いに4階建ての大英堂会館、踏切を挟んだ斜向かいにパン工場を建て、工場の一角に製パン店は移転した。1970年代中頃にパン工場を閉鎖、店舗を大英堂会館の1階に、パン焼き窯を地下1階に移設する。
1989年、2代目・上野健太郎の入院に伴い三軒茶屋・大英堂製パン店は閉店する。三井信託銀行も大英堂会館もその後のキャロットタワーを中心とする三軒茶屋地区の再開発のために現存しない。大英堂会館の2階で1963年(昭和38年)から営業していたカフェ・コンコルドは、再開発の際に仮設店舗に移転し、2005年(平成17年)まで太子堂で営業していた。終戦後、東急目蒲線不動前駅駅前の商店街に関利吉により開店。
1950年(昭和25年)頃、不動前で働く関一族のうち関利吉らが経堂に出店。不動前は関喜三の経営となる。1957年(昭和32年)頃に、経堂~不動前間で店舗を交換、双方の一家が引っ越しをしたため、再度、不動前は関利吉の経営となる。
関利吉は三宿の世田谷製パンの役員も兼ねており、毎朝バイクで三宿にパンを作りに出かけていたため、不動前ではパンを作ることはなかったという。
店舗では関甚吾(明大前)、関忠雄(下北沢)兄弟や、馬込の店主となる林信行、矢口渡の林茂年らが働いていた。後に、関利吉の娘婿となる関久信が店主となり、1990年代中頃まで営業した。
不動前駅や商店街を利用する顧客も多かったが、周囲に多くあった町工場からの注文が売上に大きな比重を占めていた。「アンパン3つとクリームパンと牛乳3本」などと電話で注文を受け、配送するもの。こうした工場の中には、店舗の裏手、山手通り沿いにあったオートバイメーカー「メグロ」(目黒製作所・後に川崎重工業に吸収され「カワサキ」ブランドのバイクとなる)も含まれていた。
現在営業中の大英堂各店はいずれもこの店からののれん分けである。1950年(昭和25年)頃に世田谷区経堂66、現在の農大通り商店街に関利吉により開店。親戚同士の店舗交換により1957年(昭和32年)頃から関喜三が経営した。1996年(平成8年)3月2日閉店。
1959年(昭和34年)9月、不動前で働いていた関忠雄が結婚を機に下北沢・一番街商店街に独立した店舗。出店に際し、創業者である三軒茶屋・大英堂の上野巍のもとへ夫妻で挨拶に出向いたところ、「『だいえいどう』ではない、『たいえいどう』なのだ」と諭されたという。
開店当初は食パンを作る設備がなく、供給を受けるため雅子夫人が自転車で三軒茶屋まで往復して店舗へ運んだという。下北沢で食パンを生産するようになってからも、パン粉を作るために三軒茶屋への往復は続いた。
下北沢・大英堂製パン所のパンは早くから店舗近くの成徳学園の生徒たちの人気を集めたが、1967年(昭和42年)に成徳学園副校長より昼食時の構内でのパン販売を正式に依頼され、昼にパンを運び込んでの構内販売を始める。昼休みのパン購入の生徒の波は「戦争のようだった」という。
1973年(昭和48年)に店舗を3階建ての大英堂ビルに改築。1階を店舗とする。
2000年代初期に成徳学園構内でのパン販売を終了。業務も縮小する。下北沢大英堂の販売スペースの後ろが大きく空いていたのは、それまでの名残である。
研究好きの関忠雄の生み出す焼きカレーパンなど特徴あるメニューで、清水ミチコなど多くのファンを集めた。2005年(平成17年)7月に店主・関忠雄が急死、閉店する。
閉店前の4年間、サラリーマンを続けながら大英堂を手伝い、修業していた中井慈は、自らの店を持って独立すべく準備していた。
しかし、夏祭りでの大英堂製パン所復活営業が好評を得たことなどから、大英堂製パン所の跡を改装し、新しい業態で再生することを決意。
2005年(平成17年)12月にイートイン可能にしたベーカリーカフェ「mixture(bakery & cafe[大英堂])」として営業を開始した。
昭和初期から1939年(昭和14年)頃まで山手線渋谷駅前にあった、三軒茶屋大英堂の分店。渋谷駅の改札は長らく現在のハチ公口のみで、その正面に、東京市電の停留場を挟んで飲食店を中心とする店舗が並んでいた。
店舗の並ぶ場所は、明治時代から大正期にかけて玉川電気軌道(後の東急玉川線)と東京市電との間の受け渡しに使われる砂利の集積場として使われ、関東大震災以降、宅地が東京の西側へ広がっていったこと、1927年(昭和2年)の東横電鉄(現在の東急東横線)開業など、渋谷駅周辺の商業地としての発展から、昭和初期には店舗用地として利用されるようになったと考えられる。
大英堂渋谷分店は、天津甘栗、明治製菓売店、東京パン、焼鳥店などと並び、店舗群の南端、玉川電軌渋谷停留所の駅ビルを兼ねた二幸(食堂)寄りで営業していた。現在のハチ公前広場、東急5000形車両と東急東横店西館の間付近が店舗跡地と思われる。
都市計画による渋谷駅前広場の拡張、および東京高速鉄道(現・東京メトロ銀座線)・玉川電軌渋谷駅を兼ねた玉電ビル(現・東急東横店西館)建設により、渋谷駅前に並ぶこれらの店舗街は消滅。大英堂渋谷分店はその際に駅前から撤退する。
太平洋戦争中に、大崎・明電舎工場内にあった店舗。工場への空襲を受け閉店。戦後、店舗跡地は倉庫として使われていたという。
長らく不動前・大英堂でパンを作り、四谷・大英堂、世田谷製パン等でも修業した関甚吾が、明大前駅南西、二階堂女子高校前に1968年(昭和43年)に独立し出店した店舗。
当時、商店街の斜向かいには同業の喜正堂、明大前駅前には丸十製パンの店舗があったが、いずれも製造販売ではなく既にグループの工場で作られたパンの販売店になっていた。
顧客が付くまでしばらく時間を要したものの、明大前・大英堂は順調に成長を続け、関甚吾の息子・関利博もパンの製造に加わった。
やや小ぶりでほんのり甘みのある総菜パン、菓子パンが特徴。昭和のパン作りを現代に伝える存在ともなっている。
1995年(平成7年)の関甚吾の死後は、関利博が一人でパンを作っている。
1955年(昭和30年)から不動前・大英堂で働いていた林信行が、1966年(昭和41年)に独立し出店した店舗。大田区北馬込の三本松通りやや西側に開店した。
店舗近くの第二京浜の地下に都営1号(現・浅草)線・馬込駅が開業したのはその2年後である。馬込・大英堂は地域住民や馬込駅利用者、近くのこまどり幼稚園へ送迎の保護者などを主たる顧客とした。
三本松通りを挟んで向かいにあった精肉店からは、総菜パン用のコロッケ・ハンバーグ等の供給を受け、店主同士も飲み仲間であった。
1984年(昭和59年)に斜向かいに移転。様々な総菜パン、三色パンなどトラディショナルなパンを作り続け、チーズサンド(焼きチーズケーキ的な菓子パン。丸十系列に多く残る『トライアングル』に近い)という人気メニューもあった。平たく甘みのあるバターロールは大英堂の中でも特徴的な作りだった。
店主夫妻の高齢化もあり、2012年3月10日をもって閉店する。
1959年(昭和34年)から不動前・大英堂で働いていた林茂年が、1971年(昭和46年)に独立し出店した店舗。東急目蒲線矢口渡駅から北に延びる荏原高校通り商店街に開店した。
地域住民を顧客としたが、とくに日体荏原高校の学生からの需要が多く、「エー堂」と呼ばれ親しまれた。
部活動の先輩から使い走りに来る学生のために、急いでパンを作ることも多かったという。
チョコクリ、きなこねじり、テリヤキ、エビステなど他の大英堂にはない独自のメニューも多かった。
店主夫人の体調不良等を理由に、2006年3月11日に惜しまれながら閉店。営業最終日の夜には、最後のパンを求める行列ができていたという。
大英堂は本来「たいえいどう」であるが、「だいえいどう」と呼ばれることも多い。各店の食パン袋には「Taieido Bakery 大英堂の食パン」の文字があるものの、明大前大英堂の店内には「DAIEIDO」と書かれた看板が吊り下げられている。下北沢大英堂では商店街の仲間から店主が本名と関係のない「ダイちゃん」と呼ばれ、矢口渡大英堂は日体荏原高等学校の学生から通称「エー堂」と呼ばれていた。戦前の広告、商工地図では経営者の名を冠した「上野大英堂」と表記されていた。大英堂の創業者・上野巍と関利吉が「渋谷の大盛堂(たいせいどう)書店(舩坂弘参照)のあたりにあった和菓子屋」で修業したこととの関連も考えられる。和菓子店から発展したため、パンと並行して和菓子の製造・販売も続けられていた。また、ケーキなど洋菓子の製造販売していた店も多く、パンのみの販売となった後も看板にその名残を残していた。
出典:wikipedia
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