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海援隊 (フォークグループ)

海援隊(かいえんたい)は、武田鉄矢・中牟田俊男・千葉和臣の3人組(プロデビュー時)のフォークグループ。坂本龍馬の大ファンである武田鉄矢が海援隊から名付けた。アマチュア時代は、上田雅利が在籍(チューリップに引き抜かれて脱退)。この頃はエレクトリックの5人編成で、ライブ喫茶照和(武田も同店の店員であった)に出演しブルーズロック/ハードロックを演奏していた。「一人ぼっちの軍隊」の詞はこの頃から存在していた。武田鉄矢はジャックスの早川義夫の影響を強く受けていた。その後千葉が加入し3人組に改組し、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの"Teach Your Children"等を演奏していた。URC日本フォーク地図の福岡(山本良樹率いる「ヴィレッジ・ボイス」)の音源にも1曲参加した。福岡市中央区天神の須崎公園でも演奏していた。泉谷しげるに誘われて上京し、1972年にアルバム『海援隊がゆく』でエレックレコードからデビューする。収録曲「風は春風」では泉谷しげるが乱入している。「ほととぎす」は井上陽水が曲を提供した。2枚目のアルバム『望郷篇』(1973年)発売後に収録曲「母に捧げるバラード」の評判がよく、1973年末にシングルカットしてヒットした。3枚目のアルバム『風雲篇』(1974年)を最後にテイチクレコードに移籍する。1974年大晦日には『NHK紅白歌合戦』に「母に捧げるバラード」で出場した。その後しばらく低迷し、海援隊にとっては冬の時代を迎える。コンサートは客がおらずガラガラ、設立した事務所も社員に払う給料がなく、キャバレーで酔っ払い相手に歌ったりする。武田は「母に捧げるバラード」で得た印税による蓄えも尽き、妻の収入に頼るという辛い日々を過ごす。1975年の大晦日は武田は妻と居酒屋で皿洗いをしていた。ちなみに当時、中牟田俊男の自宅の近所に暮らしていた貧乏仲間が小倉智昭だった。この時期、テイチクのブラックレーベルからアルバム『漂泊浪漫』『心をこめて回天篇』、ライヴアルバム『廻り舞台篇』をリリースしている。ブラックレーベル時代のアルバムは1970年代フォークの佳作として知られ、音楽的な質も高いが、公式ページのプロフィールでは在籍したことについて言及されていない。1977年にシングル「あんたが大将」がヒットし、海援隊は突如として再び注目され始める。この頃、大日本除虫菊のゴキブリ向け殺虫剤「コックローチS」のCMに、3人揃ってゴキブリの着ぐるみで出演している。1978年にポリドールに移籍する。アルバム『堕落編』には「ダラクロン」「故郷未だ忘れ難く」「思えば遠くへ来たもんだ」などが収録されている。その後、武田主演のTBSドラマ『3年B組金八先生』のヒットで主題歌の「贈る言葉」(1979年)がミリオンセラーとなり、この曲は1980年代以降の卒業式には欠かせない定番ともなっている。1980年のアルバム『誰もいないからそこを歩く』には「人として」や、エレック時代の先輩・生田敬太郎のカヴァー曲も収録されている。アルバム『ようやく解りかけてきた』『だからひとりになる』を1982年にリリースしている。ほかに『一場春夢』(1980年)、『始末記』(1982年)、『ラストライブ』(1983年)、また解散後に『回想録』(1986年)などのライヴアルバムも出した。映画『俺とあいつの物語』のテーマ曲「恋不思議」(1981年)や『えきすとら』のテーマ曲「えきすとら」(1982年)もシングルとしてリリースしていた。『AERA』の「現代の肖像」などによると、もともと坂本竜馬の死んだ年齢(33歳)まで続けて解散する予定だった。1982年12月19日に日本武道館公演をもって解散したものの、1993年4月10日の「ドリームライブ in 福岡ドーム」で1日だけの再結成を経て、翌1994年にグループ活動を再開した。現在も『3年B組金八先生』をはじめとする武田が主演を務めるドラマの主題歌を中心にシングルやアルバムをリリースし、1990年代には映画ドラえもんへの曲提供やTV出演やライヴ活動などを行っている。武田自身は「贈る言葉」以前の海援隊はコミックバンドだったと自著で回想している。現在では東日本大震災の被災地をたびたび訪れているが、武田は「震災前は二本松市から北でコンサートを開いたことが無かった」と話している。(●=レコード品番,■=CD品番)(●=レコード品番,■=CD品番)

出典:wikipedia

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