スキャンプ (USS Scamp, SS-277) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はハタの一種スキャンプ・グルーパーに因む。スキャンプは1942年3月6日にメイン州キタリーのポーツマス海軍造船所で起工した。7月20日にキャサリン・ユージニア・マッキーによって命名、進水し、9月18日に艦長ワルター・G・エバート少佐(アナポリス1930年組)の指揮下就役する。コネチカット州ニューロンドン沖での整調後、スキャンプは1943年1月19日に出航しパナマ運河を経由、2月13日に真珠湾に到着し、訓練に従事した。3月1日、スキャンプは最初の哨戒で日本近海に向かった。途中、ミッドウェー島を視察する予定の太平洋艦隊潜水艦部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド少将(アナポリス1912年組)を便乗させた。3月5日にミッドウェー島に到着しロックウッド少将を下艦させ、燃料を補給後担当海域に向かった。3月13日、スキャンプはの地点でQシップを発見して魚雷を3本発射したが、マーク14型魚雷の磁気信管の作動不良により失敗に終わった。攻撃が失敗に終わると、スキャンプの魚雷担当班は残る魚雷の磁気信管を無効にし、触発信管のみ作動するようにした。3月16日にもの地点で2隻の輸送船と「千鳥型あるいは鴻型の水雷艇」を発見し、魚雷を3本ずつ計6本発射したものの、これも命中しなかった。夕刻まで爆雷の制圧を受けたあと、夜に浮上した。3月20日夕刻、スキャンプはの白糠灯台沖で輸送船を発見して魚雷を3本発射し1本の命中を推定、間もなく別の輸送船と駆逐艦を認めてさらに魚雷を3本発射したが、こちらは命中しなかった。一連の攻撃で、第2320A船団の特設運送船辰宮丸(辰馬汽船、6,343トン)と輸送船盛南丸(不詳)にそれぞれ1本の魚雷を命中させたが、いずれも不発だった。それでも盛南丸は浸水したため海岸に座礁した。翌3月21日未明には、の地点で幌筵島から徳山に向かっていたタンカー満珠丸(日本油槽船、6,515トン)に対して魚雷を2本発射し、さらに魚雷を5本、2本と発射して3つの爆発を確認する。魚雷が命中した満珠丸は航行不能となり護衛の駆逐艦沼風などに曳航されて室蘭に入港した。スキャンプはこの攻撃で魚雷を使いきり、帰途についた。3月26日、スキャンプは26日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。4月19日、スキャンプは2回目の哨戒でマーシャル諸島およびギルバート諸島方面に向かった。ジョンストン島で燃料を補給したあと、オーシャン島とナウル島を偵察。偵察後は進路をビスマルク諸島方面に転じた。道中では何度か艦船との接触があったが、そのうちの3隻、5月15日に発見したばいかる丸(大阪商船、5,266トン)と5月19日から20日に発見したあらびあ丸(大阪商船、9,480トン)、吉野丸(日本郵船、8,998トン)はいずれも病院船だったので攻撃は差し控えられた。5月28日午後、スキャンプはのムッソウ島の東方海域で特設水上機母艦神川丸(川崎汽船、6,853トン)を発見して魚雷を5本発射し、3本を命中させる。爆雷攻撃をかわすために一旦深深度でじっとした後、潜望鏡深度に戻して観測すると神川丸は依然浮いていたので、日付が変わった5月29日未明に魚雷をもう2本発射して1本を命中させ、ついに神川丸を撃沈した。神川丸撃沈での一連の魚雷発射は、この哨戒での唯一の戦闘だった。6月4日、スキャンプは46日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。6月22日、スキャンプは3回目の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。7月14日にショートランド諸島近海を通過した後に北上し、カビエン近海に達する。7月27日未明、スキャンプはの地点で輸送船団をレーダーで探知。潜航ののち、船団に接近する途中護衛艦に発見され爆雷を2発投下されたもののなおも接近し続け、特務艦風早に対し魚雷を6本発射。魚雷は1本が風早に命中したと判断されたが、スキャンプはそれを確認する間もなく反撃から逃れるために深深度潜航で退避していった。1時間後に潜望鏡深度に戻って観測したときには、船団の姿は消えていた。風早は損傷を受けただけで沈没はしなかった。スキャンプは浮上し、ニューアイルランド島とニューハノーバー島の間にある近海に向かった。17時54分、スキャンプは1隻の潜水艦を発見したが、相手もスキャンプを発見したようであり、魚雷を発射してきた。スキャンプは67メートルの深さに潜ってやり過ごし、10分後に潜望鏡深度に戻って魚雷を4本発射した。魚雷は潜水艦に命中し、5つの物凄い爆発を起こして沈没していった。かつては、この潜水艦は伊号第二十四潜水艦(伊24)であると言われ、アメリカ側の記録で長くそう信じられてきた。しかし、日本側の記録を参照した結果、スキャンプが撃沈したのは伊号第百六十八潜水艦(伊168)だったことが分かった。伊168は、1942年6月5日から7日のミッドウェー海戦で空母ヨークタウン ("USS Yorktown, CV-5") を撃沈した潜水艦であった。8月8日、スキャンプは47日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。9月2日、スキャンプは4回目の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。9月7日にツラギ島に寄港し、燃料補給ののちその日のうちに出港する。9月18日午前、スキャンプはのマヌス島北西400キロ地点で、ラバウルからパラオに向かっていたオ602A船団を発見した。魚雷を計10本発射し、陸軍輸送船関西丸(原田汽船、8,618トン)に命中させてを航行不能に陥らせた。関西丸には陸軍部隊1,024名が乗船していたが、犠牲者24名以外は僚船の陸軍特殊船摩耶山丸(三井船舶、9,433トン)に移乗し、関西丸は無人となって漂流した。護衛の第38号駆潜艇が爆雷攻撃を行い、深度96メートルの海底にいたスキャンプは爆雷攻撃により浸水と火災が発生し、一時は復旧のめどすら立たなかった。しかし、なんとか修理を行い浮上すると、関西丸がまだ浮いていたので、魚雷を1本発射して命中させ、の地点でようやく撃沈した。スキャンプは、関西丸の名前を漂流していた浮き輪によって知った。9月21日には、物々しい輸送船団を発見した。レーダーで巧みに接敵し、日没時に魚雷を3本発射、2つの爆発音が聞こえ、「6,500トン級輸送船撃沈」と判断される。二度目の攻撃はスコールにより一度は機会を逸したものの、翌22日午前に魚雷を4本発射したが、すべて外れた。追跡と攻撃は9月23日にも続き、三度目の攻撃で魚雷を4本発射し、さらに攻撃を加えようとしたが、上空にいた航空機の妨害を受けて攻撃を諦めざるを得なかった。一連の攻撃により成果は分からなかった。スキャンプは9月24日に帰投命令を受領。10月1日、スキャンプは30日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。10月22日、スキャンプは5回目の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。10月28日から30日までは、トレジャリー諸島での特殊部隊の活動を支援する。任務完了後にカビエンとトラック諸島との交通路に移動した。11月4日午後、スキャンプはの地点で「8,000トン級輸送船」を含む輸送船団を発見。魚雷を6本発射し、少なくとも1本が命中したようであったが、航空機の制圧を受けて確認はできなかった。日本側の記録ではスキャンプの攻撃とほぼ同じ時刻にの地点で、丁四号輸送第三輸送隊中の特設運送船日枝丸(日本郵船、11,621トン)が雷撃され、船体至近で魚雷が爆発し軽い損傷を負ったことが記録されている。11月10日、スキャンプはの地点で輸送船団を発見し、0918に魚雷を4本発射。魚雷は特設運送船東京丸(摂津商船、6,484トン)に向かい、東京丸は3本まで回避したものの1本が右舷機関室に命中し、航行不能に陥った。3時間後、スキャンプは東京丸に向けて魚雷をもう3本発射したが、これは命中しなかった。東京丸は僚船の特設運送船、御嶽山丸(鏑木汽船、4,441総トン)が曳航するも、2030に東京丸の浸水による重量増加により曳索が切断された。21時ごろに観測すると、東京丸は駆逐艦涼月に曳航されようとしていた。東京丸はこのあと、駆逐艦初月に曳航されたものの、11月12日1455に沈没した。その11月12日朝、スキャンプはのカビエン北北西250海里の地点で、11月11日のラバウル空襲で損傷を受けトラックに戻る途中の軽巡洋艦阿賀野と駆逐艦浦風を発見し、魚雷を6本発射。阿賀野は後進をかけたが、1本が右舷艦橋下に命中。手負いの阿賀野を撃沈すべく、司令部ではアルバコア ("USS Albacore, SS-218") などを差し向けたが、いずれも撃沈には至らず、阿賀野は軽巡洋艦能代および長良の曳航でトラックに戻った。11月18日には、水上偵察機から2発の爆弾を投下され損傷を受けた。11月26日、スキャンプは35日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。12月16日、スキャンプは6回目の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。12月23日にツラギ島に立ち寄り、3日間停泊する。1944年1月6日夜、スキャンプはの地点で小型船6隻と駆逐艦3隻からなる輸送船団を発見し、小型タンカーを目標に魚雷を4本発射したが命中せず、2隻の駆逐艦と思しき艦船からの探索音を聴取。スキャンプは爆雷攻撃を受けたが護衛艦をうまくまき、23時23分に浮上してその場を去って西方に移動したが、7.3キロ離れたところにいた護衛艦はこれに全く気付かなかった。1月8日にはガードフィッシュ ("USS Guardfish, SS-217") と会合。1月14日午後、スキャンプはのパラオ東方で、バリクパパンからトラックに向かっていた3隻のタンカーと2隻の駆逐艦からなるタンカー船団を発見する。魚雷を6本発射し、特設運送船(給油)日本丸(山下汽船、9,971トン)に命中して2分で沈没していった。攻撃直後から護衛の駆逐艦島風と早波の制圧を受けたが、被害なく切り抜けた。この後、スキャンプは1月20日から21日にかけてツラギ島で補給を行い、1月31日から2月2日までの間、近海でニューアイルランド島を攻撃するB-24の支援に従事した。2月6日、スキャンプは52日間の行動を終えてミルン湾に帰投。潜水母艦 ("USS Fulton, AS-11") による修理を受けた。また、艦長がジョン・クリスティ・ホリングスワース中佐(アナポリス1931年組)に代わった。3月3日、スキャンプは7回目の哨戒でニューギニア島、ビスマルク諸島を経てパラオ方面に向かった。しかし、が故障したため、その修理のため3月29日にに入って3日かけて修理を行い、修理後再出撃した。4月4日にの地点で200トンクラスのトロール船を発見して浮上砲戦で炎上させたが、備砲が故障したため撃沈には至らなかった。このころ、司令部から「ダバオから日本艦隊が出撃してくる」という情報がもたらされた。察知された日本艦隊とは、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の攻撃を避けるべく、トラックからパラオ、さらに燃料を求めてリンガ泊地に向かっていた、栗田健男中将率いる第二艦隊の一部であった。スキャンプは日本艦隊を捕まえるべくに向かった。3日後の4月7日、スキャンプはダバオ湾北口でついに日本艦隊を発見した。前日6日にはダーター ("USS Darter, SS-227") とデイス ("USS Dace, SS-247") が日本艦隊を発見し、奇しくもこれより半年の後に再び栗田中将とあいまみえる2隻のうちデイスが雷撃を行ったが、艦隊は22ノットの高速で航行中だったため命中しなかった。スキャンプは潜航して艦隊に忍び寄ったが、駆逐9。衝撃で動力が絶たれ、火災も発生し毒性の煙が充満してきた。スキャンプは釣り合いをうまく保つために水中で何度も上下し、深度46メートルになったところでようやく釣り合いを回復した。スキャンプは油と気泡を放出して17度の角度で21時3分に浮上し、損傷のため哨戒を打ち切って帰投することとなった。スキャンプの護衛にデイスが差し向けられ、4月10日に会合した。スキャンプはデイスの護衛の下、4月16日にマヌス島ゼーアドラー湾に到着し、緊急修理を受けた。4月22日、スキャンプは51日間の行動を終えてミルン湾に帰投。その後、オーバーホールを行った。オーバーホール後の9月22日、スキャンプは駆逐艦 ("USS Chew, DD-106") と衝突する事故を起こした。10月16日、修理を終えたスキャンプは8回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。10月20日にミッドウェー島で燃料を補給し、その後担当海域に到着。11月9日に硫黄島周辺を航行中に哨戒区域の変更命令を受け取り、スキャンプはこれに対して自艦の位置が「にあり、魚雷24本と290,000リットルの燃料がある」と返信した。11月14日、司令部からの位置にあったスキャンプに対して、房総半島沖で本土空襲の下準備で何度も日本を偵察していたB-29の乗組員救助支援任務に当たるよう命令が下されたが、応答はなかった。その後もスキャンプからの通信は無く、司令部から何度も隣り合う区域の潜水艦などに対しスキャンプの安否を問う通信が送信されたが、芳しい返事はなかった。11月29日に空母信濃を撃沈するアーチャーフィッシュ ("USS Archer-fish, SS-311") はスキャンプの担当海域の西隣が担当海域だったが、「スキャンプとは会合および交信せず」と、やはり芳しくない返事を送らざるを得なかった。11月26日まで捜索は続けられたが、ついに打ち切られた。ホリングスワース艦長以下全乗員が死亡と判定され、スキャンプは1945年4月28日に除籍された。スキャンプは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。スキャンプが司令部に返信を送った2日後の11月11日、父島を出航し館山に向かっていた第4108船団を護衛中の第4号海防艦は、上空警戒機からの報告で潜水艦に対する警戒を強めていたところ、八丈島北方沖で自艦の右前30度の方向に潜水艦を探知した。この潜水艦がスキャンプであった。第4号海防艦は輸送船を退避させたのちスキャンプに向首していった。目標まで1,000メートルになったとき、突然スキャンプから2本の魚雷が発射された。第4号海防艦は魚雷を回避し、爆雷攻撃を実施。爆雷投下点に目印の発煙筒と旗を投下し、3度にわたって合計70発の爆雷を投下。攻撃後、10数メートルはあろう大きな気泡が何個もわき出し、また重油も大量に湧出してきた。探信の結果、なんら反応がなかった。これがスキャンプの最期であった。第4号海防艦は館山入港後の11月15日に、海上護衛総司令部司令長官野村直邦中将から「敵潜水艦4隻撃沈」の戦功により、海防艦単艦として初めての感状を授与された。殊勲の第4号海防艦は1945年7月28日、鳥羽で第38任務部隊機の攻撃を受けて沈没した。
出典:wikipedia
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