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タニー (潜水艦)

タニー (USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はマグロ属を中心にカツオやスマなどを含むサバ科大型魚に因む。タニーは1941年11月10日にカリフォルニア州ヴァレーホのメア・アイランド海軍造船所で起工する。1942年6月30日にフレデリック・G・クリスプ夫人によって進水し、艦長エルトン・ワッターズ・グレンフェル少佐(アナポリス1926年組)の指揮下9月1日に就役する。カリフォルニアからの整調訓練後12月12日に真珠湾に到着した。タニーは同地でさらなる訓練及び2週間の信頼性試験に従事した。この間に、艦長がジョン・A・スコット少佐(アナポリス1928年組)に代わった。タニーの最初の哨戒は1943年1月12日で、東シナ海に向かった。哨戒海域へ航行中、ほぼ一週間におよぶ荒天でタニーの航行は困難を極めた。南西諸島に接近すると、多数の艦影を発見するようになる。1月25日にはサンパンやトロール船を頻繁に発見し、これらからの発見を回避するためタニーはしばしば潜航した。1月26日の早暁、タニーは400トン級トロール船を改造した特設監視艇を発見。半日も追跡した後夕刻に浮上し、浮上砲戦でこれを撃沈しようとしたが、間もなく日が暮れて目標を確認することが困難となり、攻撃は32発撃ったところで打ち切られた。3日後、タニーは台湾海峡とその周辺に移動する。1月31日にはの地点で、高雄港に入りつつあった輸送船西寧丸(大連汽船、4,913トン)に向けて魚雷を2本を発射したが回避された。その後は香港沖に移動して哨戒を続けた。2月2日、タニーは香港沖でレーダーにより探知したタンカーに対して四度にわたって魚雷を3本ずつ3回と1本の計10本発射したが、すべて命中しなかった。翌2月3日には、これもレーダーで探知した「大きな目標」に対して魚雷を3本発射し、うち2本が命中するのを確認した。2月3日の攻撃では、の地点で陸軍船第一新東丸(澤山汽船、1,927トン)に損傷を与えたとした。2月4日には汕頭沖に移動し、病院船を発見した。汕頭沖は海底の形状が潜航して行動するには不向きであり、また海上ではジャンクばかりが目に付いた。この日、タニーはの地点で輸送船辰和丸(辰馬合資、6,335トン)を撃破した。2月8日20時ごろ、タニーはの地点で輸送船楠山丸(山下汽船、5,307トン)を発見し、魚雷を2本ずつ2回と3本の計7本発射して楠山丸に2本を命中させ、楠山丸は「損害軽微」と報じられたものの沈没した。翌2月9日にもの地点で海軍徴傭船鎌倉丸(日本郵船、17,498トン)に対して魚雷を2本発射し爆発を記録したが、実際にはすんでのところで回避されていた。2月11日に哨戒海域を後にしたタニーは、2月15日にの地点で100トン級トロール船を発見し、浮上砲戦で撃沈した。2月20日にミッドウェー島に到着。2月24日、タニーは43日間の行動を終えて真珠湾に帰投、潜水母艦 ("USS Sperry, AS-12") による整備を受けた。3月18日、タニーは2回目の哨戒でカロリン諸島へ向かった。カロリン諸島に向かう途中の3月27日から、タニーはウェーク島に近接。翌28日、タニーはのウェーク島の環礁に通じる水道近海で、入港しつつあった特設運送船諏訪丸(日本郵船、10,672トン)を発見し、魚雷を2本発射して諏訪丸に命中させ、諏訪丸は沈没を防ぐためにウェーク島の南海岸に座礁した。日本側からの反撃もあったが、タニーは難なく攻撃から逃れることができた。その後、トラック諸島沖に到着したタニーは、4月2日にのプンナップ島近海で「桃型駆逐艦」の護衛を受けた輸送船を発見し、魚雷を3本発射。魚雷は特設運送船第二東洋丸(澤山汽船、4,162トン)に命中してこれを撃沈した。4月7日にも、のトラック西方30海里の地点で探知した「ぶゑのすあいれす丸級貨客船」と「響型駆逐艦」に対して魚雷を2本発射し、駆逐艦夕霧の護衛を受けていた特設運送船(給糧)厚生丸(日本海洋漁業、8,282トン)に1本を命中させる。タニーは激しい雨により2隻の姿を見失ったが、魚雷が命中した厚生丸は軽巡洋艦長良に曳航されたものの、4月9日に沈没した。厚生丸が沈没した4月9日、タニーはのウェストハユ島沖で浮上中に空母大鷹、冲鷹、重巡洋艦鳥海を中心とする艦隊と遭遇した。太平洋艦隊潜水部隊作戦兼情報参謀リチャード・G・ヴォージ中佐(アナポリス1925年組)からの情報では、空母は「飛鷹型航空母艦2隻」となっていた。タニーは艦隊の前方に進出し浮上状態で攻撃を仕掛けようとしたが、駆逐艦が接近してきたので潜航する。タニーは2隻の空母の間に位置する形となって、まず艦尾の発射管から大鷹に向け800メートルの至近距離から魚雷を4本発射した。ほどなく爆発音が聞こえたため命中と判断したが、この音は実際は大鷹の手前わずか50メートルで早爆した音だった。大鷹は破片でわずかなダメージを負っただけだった。次いでタニーは艦首発射管から冲鷹に向けて600メートルの至近距離から魚雷を6本発射した。やがて3つの爆発音が聞こえ、やはり命中と判断されたが、これもまた命中音ではなく早爆した音だった。撃沈こそできなかったが、艦隊の真ん中に割って入って、両方の魚雷発射管で敵艦を攻撃した技術だけは、「プロの能力と軍人らしい攻撃性」の証明として評価された。4月11日にはの地点で伊号第一六潜水艦(伊16)を発見し、前部発射管に残っていた3本の魚雷で攻撃したが、いずれも命中しなかった。その夜、今度は駆逐艦清波から反撃を受け、タニーは小破したが行動に支障は出なかった。帰投中にはサイパン海峡を通過して4月17日にサイパン島ガラパン港を偵察し、2隻の輸送船の存在を認めたが暗礁の存在により攻撃できなかった。4月23日、タニーは36日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。この哨戒での戦功に対し、殊勲部隊章が授けられた。5月25日、タニーは3回目の哨戒でカロリン諸島およびマリアナ諸島方面へ向かった。5月27日にジョンストン島に寄港し給油した後、マリアナ諸島海域に進出。5月31日、この哨戒で初めてのレーダーによる接触があったが、そのスピードから相手は哨戒機と判断され、潜航して退避した。しばらくすると対潜爆弾が投じられ、魚雷発射管室の近くで爆発し、艦の機器類に様々な損傷を与えたものの、応急修理の上哨戒を続けた。6月3日と4日の2日間エニウェトク環礁沖で哨戒したあと、トラック諸島方面に移動した。6月7日、タニーはのトラック諸島南方海域で「天霧型駆逐艦」を発見し、魚雷を4本発射するがすべて外れる。逆に、タニーは複葉機と駆逐艦によって不意に制圧され、レーダーの調子が5月31日の損傷以来今ひとつであったことを改めて思い知らされた。6月14日にもの地点で、大型輸送船と2隻の小型輸送船のものと思しき目標を探知し、魚雷を4本発射して3つの爆発を確認するが、護衛艦の巧みな制圧で不本意にも潜航してじっとしている他はなかった。6月21日から22日にかけては、トートグ ("USS Tautog, SS-199") が攻撃して撃破したというタンカーの捜索を行ったが、結局見つからなかった。6月24日朝、タニーは「珍客」を見る。この日、ソロモン方面の戦闘で大破して日本に曳航される途中の駆逐艦秋月がを出港し、タニーは潜望鏡越しにその姿を見たが、上空には掩護の航空機が舞っており、攻撃する隙もうかがえなかった。6月28日、タニーはのロタ島ハルノム岬沖で特設砲艦昭徳丸(嶋谷汽船、1,964トン)を発見して魚雷を3本発射し、2本を命中させて撃沈した。撃沈後、武装トロール船の制圧を受け、一度は深深度でじっとしていたが、様子をうかがうために潜望鏡深度に浮上したが、その時点で上空には哨戒機がおり、タニーはこのあと4時間もの間浮上できなかった。7月4日までグアム沖で哨戒を行ったあと、帰路7月11日にジョンストン島に立ち寄って給油を行った。7月14日、タニーは50日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。8月5日、タニーは4回目の哨戒でパラオ方面へ向かった。8月9日にミッドウェー島に寄港し給油の後、哨戒海域に針路を向けた。8月18日にパガン島とアラマガン島を確認。8月22日に担当海域に到着し、哨戒を開始した。8月24日早朝、タニーはパラオ西水道を通過する輸送船団を発見。以後、絶好の攻撃態勢になるまで船団を追跡し続け、8月25日未明、タニーは潜航して船団に接近、の地点にいたったところで魚雷を5本発射し、すぐに深深度潜航で退避して爆雷攻撃に備え、やがて魚雷の命中音は聞こえたものの戦果は確認できなかった。夜明けごろに潜望鏡深度に戻り、の地点での二度目の攻撃で7,500トン級輸送船と船団先頭の輸送船に対して魚雷を3本ずつ計6本発射し、5,000トン級輸送船の撃破を報じる。二度の攻撃で護衛艦側にタニーの存在が知れたが、護衛艦は6発の爆雷を投下していくと、そのまま去っていた。タニーは浅深度で観測したが船団の姿は見えず、タニーは15時間ぶりに浮上して哨戒を続けた。8月26日午前、タニーはの地点で別の輸送船団を発見し、魚雷を計5本発射して9,000トン級輸送船に魚雷を命中させたと判定。しかし、まもなく猛烈な爆雷攻撃に見舞われ、艦内に火災が発生した。火災自体は大したことがなかったが、煙が充満してきて被害調査を困難にした。タニーは80メートル、さらに116メートルの深度まで逃げ、その間に応急措置班が冷静に行動し修理したためタニーは救われることとなった。夜に浮上したタニーは改めて被害状況を調べたところ、艦首部分を初めとして魚雷の気密室などに大ダメージがあり、甲板上には爆雷の破片が散らばっていた。以後2日間にわたって修理に全力を傾けたが、どうしても現場での修理では手に負えないダメージがあり、タニーは任務を打ち切って8月29日に海域を去った。9月8日、タニーは34日間の行動を終えて真珠湾に帰投。真珠湾での調査後に西海岸のハンターズ・ポイント海軍造船所に回航され、1944年2月2日までオーバーホールに入った。オーバーホールを終えたタニーは、1944年2月9日に真珠湾に到着した。2月27日、タニーは5回目の哨戒でパラオ諸島に向かった。3月2日にミッドウェー島に寄港して給油し、哨戒海域に針路を向けた。3月15日ごろに到着し哨戒を開始。3月20日、タニーはパラオ西水道付近を哨戒中に水上偵察機に発見され、対潜爆弾を投下される。タニーはやむを得ず哨区を北へ移動した。3月22日、タニーはの地点でレーダーにより大輸送船団を探知。タニーが攻撃位置に移動している最中に護衛艦がタニーを発見し向かってきたが、タニーはスコールの中に逃げ込みつつ船団との接触を続け、その間に2隻の大型輸送船を攻撃目標を選んで魚雷を3本ずつ計6本発射。命中音は聞こえたが、その時小型タンカーが潜望鏡の視界いっぱいに接近しており、事故の回避に手一杯となった。やがて、特設駆潜艇が爆雷攻撃を開始し、また艦尾方向に駆逐艦と思われる高速艦艇がいたので、を4本発射した後、海底に潜むことにした。以後4時間もの間、タニーは87発の爆雷を投じられたが、被害は受けなかった。丸一日たってから浮上し周辺を捜索したが、残骸と油膜らしきものしか見当たらなかった。この攻撃による戦果は「9,000トン級輸送船2隻と峯風型駆逐艦1隻に魚雷を命中させた」と判定された。翌23日、タニーはアンガウル島周辺に移動し、21時19分に、の地点で浮上中の伊号第四十二潜水艦(伊42)をレーダーで探知。タニーは1時間かけて伊42を追跡しながら徐々に自艦に有利な体勢に持ち込み、23時24分に1,700メートルの距離から伊42へ向けて魚雷を4本発射した。ほどなく、うち2本が命中し猛烈な閃光が確認され、閃光は司令塔の中にまで差し込み、乗員の中には「反撃を食らった」と錯覚した者もいた。46メートルの深度に潜航して様子をうかがうと、伊42が圧壊する音が聴取された。タニーは再びパラオ西水道に戻って哨戒を続けた。3月29日、タニーはの地点で巨大な目標を含む艦隊と遭遇した。この巨大な目標は予期される第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)のパラオ空襲から逃れようとパラオから出港してきた戦艦武蔵であり、軽巡洋艦大淀や駆逐艦を従え、21ノットの速力で北に向かっていた。タニーは最初武蔵を「浮きドック」と判断し、次に「金剛型戦艦」と判断していた。タニーは武蔵の後方に接近し、艦首発射管から魚雷を6本発射した。6本のうち3本が武蔵に向かい、武蔵は2本を回避したが残り1本が武蔵の艦首部に命中。武蔵は左右12メートル、上下は喫水線から艦底に至る10メートルの破口を生じ、多量の浸水を生じた。タニーは護衛の駆逐艦浦風と磯風から反撃され、爆雷38発を投下されたがかわした。3月30日未明、タニーはパイロット救助のための所定位置に到着し、第58任務部隊の空襲を待った。7時過ぎに空襲が開始され、港が煙に包まれているのが確認できた。正午過ぎにタニーは移動しかけたその時、空母ヨークタウン ("USS Yorktown, CV-10") の搭載機2機がタニーに向かってきた。搭載機はタニーを日本潜水艦と誤認していたのか、1機はタニーに機銃掃射を行い、もう1機が爆弾を投じて至近弾となり、タニーの艦体は衝撃で飛び上がった。遅れて爆発が起こり、まだ使っていない魚雷が故障した。損傷を受けたタニーは、夜には修理を終わり、翌3月31日にも救助任務に従事した。タニーは4月2日に哨区を後にしてミルン湾に向かい、4月7日に到着して応急修理の後出港。4月11日、タニーは44日間の行動を終えてブリスベンに帰投。この哨戒での戦功に対し、2度目の殊勲部隊章が授けられた。4月29日、タニーは6回目の哨戒でとともにフィリピン海に向かった。途中ミルン湾で補給し、を経てサイパン島とグアムの中間海域に到着。しばらくの間は多くの敵機を目撃した。5月17日、タニーはサンドランス ("USS Sand Lance, SS-381") からの情報に基づいて、第3503船団から分離したパラオへ向かう輸送船団を待ち伏せし、日没後に発見する。の2隻の別々の目標に対して魚雷を3本ずつ発射し、陸軍輸送船日和丸(日産汽船、4,955トン)の船尾に魚雷が命中するのを確認してから深深度に潜航していった。しばらくすると爆雷攻撃が始まり、81発の爆雷を投下されたがタニーに損傷はなく、東南の方向に進んだタニーは5月18日0時過ぎに浮上して日和丸が炎上しながら沈没するのを目撃した。タニーは同海域で哨戒を続け、5月29日にはシルバーサイズ ("USS Silversides, SS-236") がいるあたりで輸送船団が攻撃される様子を目撃し、5月30日にシルバーサイズから攻撃報告を受けた。6月8日、タニーはピンタド ("USS Pintado, SS-387") およびパイロットフィッシュ ("USS Pilotfish, SS-386") とウルフパック "Blair Blasters" (ブレアの発破者たち)を構成しルソン海峡方面に移動した。6月14日にバリンタン海峡を通過し、翌15日にはルソン島に接近して以後しばらくはバリンタン海峡周辺で敵を探した。6月16日、タニーはの地点で100トン級サンパンを発見して浮上砲戦で撃沈した。その後はフィリピン海で6月22日まで哨戒を行い、6月29日にミッドウェー島に到着。7月2日、タニーは66日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がジョージ・E・ピアース少佐(アナポリス1932年組)に代わった。8月4日、タニーは7回目の哨戒でクイーンフィッシュ ("USS Queenfish, SS-393") およびバーブ ("USS Barb, SS-220") とウルフパック "Ed's Eradicators" (エドのインク消し) を構成し南シナ海に向かった。例によってミッドウェー島で補給した後、8月25日に哨戒海域に到着。8月31日未明、タニーはの地点でミ15船団を発見し、僚艦クイーンフィッシュがタンカーを「美しく」攻撃する様子を見る。クイーンフィッシュ、バーブの攻撃が終わってタニーも攻撃準備に入ったが、護衛艦と上空の哨戒機の制圧を受けて魚雷を発射する機会を逸した。翌9月1日、タニーはルソン海峡を西に向かって航行していたが、午前中から航空機を発見したため潜航を繰り返す。昼過ぎに浮上すると、バーブと思われる潜水艦を遠方に発見し、交信を試みたが何ら音沙汰はなかった。夕刻、の地点でレーダーが航空機の接近を探知したため潜航を開始したが、間もなく2発の爆弾が船体後方でさく裂し、特に2発目の爆弾によって艦首は上方に8度突き出す形となった。b続いて投下されたもう2発の爆弾は回避したが、船体は約38メートル、約91メートルと沈下していった。爆撃を受けたから3時間後にレーダー深度まで戻り、20分後に浮上してバーブを呼び出した。タニーは後部を中心に軽視できない損傷をこうむっていたことが判明し、「エドのインク消し」から除外されることとなった。9月17日、タニーは44日間の行動を終えて真珠湾に帰投。ハンターズ・ポイント海軍造船所に回航されて修理とオーバーホールに入った。タニーは1945年1月に真珠湾に戻った。なお、タニーを攻撃した航空機については、艦船研究家の木俣滋郎はヒ73船団に加わっていた空母雲鷹の搭載機であるとし、「タニーは爆撃で浮力の釣り合いがおかしくなって特設運送艦讃岐丸(日本郵船、7,158トン)の5メートル以内に、艦体の前部3分の1ほどを30度の角度をつけて浮上してしまったが、讃岐丸乗員が一瞬「降伏か」と思う間もなく再び水没した」としている。しかし、この記述は以下のことから正しくない。ヒ73船団が潜水艦に遭遇して対潜戦闘を行ったのは事実であり、タニーが被害を受けた9月1日にも午後に戦闘はあったが、その地点はであり、爆撃ではない。また、その前後にあたる8月31日午後にの地点で、また9月2日にの地点でそれぞれ対潜戦闘が行われている。ただし、この3つの戦闘はタニーが攻撃受けた地点とは大きく異なる地点で行われたものであり、タニーは雲鷹の搭載機ではない航空機によって損傷を受けた。「至近にタニーが一瞬浮上した」とされた讃岐丸の9月1日の記録にも、該当するものはない。2月3日、タニーは8回目の哨戒で日本近海に向かった。途中、サイパン島で潜水母艦 ("USS Fulton, AS-11") によるエンジンの修理を受け、また新型ソナーのテストにも太平洋艦隊潜水部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将(アナポリス1912年組)立会いの下で参加した。3月5日に出撃し、九州南方の哨区に針路を向けた。3月13日と3月14日の両日、タニーは南西諸島海域でソナーを使った特殊偵察のため水深46メートルの水中を航行中、230以上もの機雷が敷設されていることを探知した。任務終了後、乗組員はホッと一息ついた。3月18日にはの奄美大島近海で輸送船団を発見するも、哨戒機の制圧で攻撃できなかった。また3月27日と28日には、沖縄戦の準備のために西日本各地を空襲した第58任務部隊の空母ベニントン ("USS Bennington, CV-20") 搭載機とイントレピッド ("USS Intrepid, CV-11") 搭載機の乗員を救出することに成功した。4月1日に哨区を離れたタニーは、4月4日にの地点で200トンの帆船を撃沈した。4月14日、タニーは52日間の行動を終えて真珠湾に帰投。整備の後、タニーはグアムに向かった。5月28日、タニーは9回目の哨戒でバーニー作戦に参加して日本海に向かった。このバーニー作戦は、この時点の日本に残されたほぼ唯一の重要航路に打撃を与えるものであり、対馬海峡の機雷原突破と日本海を悠然と航行する日本船は、目標の減少に嘆いていた潜水艦部隊にとっては絶好のスリルであり獲物であった。この作戦には9隻の潜水艦が投入され "Hellcats" (ヘルキャッツ) と命名された。各潜水艦は三群に分けられ、シードッグ ("USS Sea Dog, SS-401") のアール・T・ハイデマン少佐(アナポリス1932年組)が総司令となった。タニーはボーンフィッシュ ("USS Bonefish, SS-223") およびスケート ("USS Skate, SS-305") と共にウルフパック "Pierce's Polecats" (ピアースズ・ポールキャッツ) を組み、第一陣 "Hydeman's Hep Cats" (ハイデマンズ・ヘップキャッツ)が5月27日に出撃してから24時間後に出航し、対馬海峡に進出した。6月2日に南西諸島を通過し、6月5日に対馬西水道の機雷原をも易々と乗り越えた。リレー式に対馬海峡を突破したシードッグ以下の潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時の攻撃開始を待った。「ピアースズ・ポールキャッツ」は能登半島以西の沿岸部に進出した。作戦初日の9日夜、タニーはの若狭湾近海で2,000トン級輸送船に向けて魚雷を3本発射したが、1本が命中したものの不発に終わった。タニーは沿岸部の港をしらみつぶしに偵察し、6月12日の真夜中には恵曇港まで7.3キロの地点に接近して魚雷を発射しようとしたが、発射しても防波堤に命中するだけだと判断され偵察のみにとどめた。また、十六島湾湾口から5キロの地点に接近したが、日本側のサーチライトがタニーのいるあたりを照らしたため、タニーはあっさりとその場を離脱した。6月16日、タニーはの丹後半島沖合いでボーンフィッシュと会合。ボーンフィッシュから戦果報告を受けた。また、日本人の生存者が乗っている多数のいかだを発見した。2日後にの地点で再びボーンフィッシュと会合し、ボーンフィッシュに富山湾潜入の許可を与え、ボーンフィッシュはタニーと別れた。これが、アメリカ側がボーンフィッシュを見た最後であった。この前後に対潜攻撃を受けたがうまく避けた。6月19日にはの地点で4,000トン級輸送船を発見して魚雷を4本発射したが、浅瀬でうまく攻撃できず結局取り逃がした。結局、バーニー作戦参加潜水艦中、雑魚すら得られなかったのはタニーだけであった。6月23日、利尻島沖で集結した潜水艦の中にボーンフィッシュがいないことに気づき、タニーは先任艦の務めとして幾度と無くボーンフィッシュとの交信を試みたが徒労に終わった。ボーンフィッシュは6月19日に富山湾で撃沈されていた。7月6日、タニーは49日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。終戦を真珠湾で迎えたタニーは西海岸へ向かい、1945年12月13日に退役した。タニーは第19艦隊メア・アイランド・グループで保管される。朝鮮戦争が勃発すると、海軍はその戦力を増強する必要が生じ、予備役にあったタニーは1952年2月28日に再就役する。しかしながらタニーは実戦に参加することなく1952年4月に再び退役する。1953年3月6日に三度就役し、巡航ミサイル運用のための改修が行われる。タニーは SSG-282 (巡航ミサイル潜水艦)に艦種変更され、12年間にわたってレギュラス・ミサイルを運用した。最初の4年間、タニーはレギュラス・ミサイル開発のためポイント・ムグーを拠点として活動した。定期の訓練による短期間を除いて、タニーはミサイル発射システムの開発と評価期間の大半に参加した。1957年にはその拠点をハワイに移し、抑止哨戒およびミサイル発射実験を行った。1965年5月にレギュラス・ミサイルシステムは段階的に撤去され、タニーは SS-282 に再び艦種変更される。その後も年末までハワイ水域に留まり、訓練及びその他の様々な任務に従事した。1966年には APSS-282 (輸送潜水艦)に艦種変更され、1967年2月にベトナムの沖合で不正規戦任務に従事する。タニーは上陸攻撃作戦に備えた偵察を行い、航行・海洋情報を収集した。情報収集のための特殊任務に当たる小チームを運搬するのに適した構造であったタニーは、オペレーション・デッキハウス VI に参加した。任務終了後の1968年1月1日にタニーは LPSS-282 (揚陸輸送潜水艦)に艦種変更される。タニーは1969年6月28日に退役し、1969年6月30日に除籍された。タニーは1970年6月19日に標的艦としてヴォラドール ("USS Volador, SS-490") の雷撃によって沈められた。タニーは第二次世界大戦の戦功で9個の従軍星章と2個の殊勲部隊章を受章し、ベトナム戦争の戦功で5個の従軍星章を受章した。

出典:wikipedia

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