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キプロス王国

キプロス王国は、中世のキプロス島を支配したラテン系の王国で、十字軍国家の一種である。第3回十字軍の際に十字軍に征服され、その後はエルサレムから追われた十字軍国家・エルサレム王国の末裔が統治した。イングランドのリチャード1世は十字軍としてエルサレム王国救援に向かう途中、地中海の東ローマ帝国領キプロス島に寄港したところ(当時は皇族のイサキオス・コムネノスがキプロスに拠って反乱をおこし、帝国から自立していた)、敵対関係を生じたため、この島を図らずも占領した。リチャード1世にしてみれば別に用もない島だったので、エルサレム王ギー・ド・リュジニャン(在位1186年 - 1192年)にキプロス島を売り飛ばした。ギーはもともとフランスの騎士で、十字軍としてエルサレムに赴いた。その後、十字軍国家であるエルサレム王国の王女シビーユ(在位1186年 - 1190年)と良い仲になり、図らずもシビーユがエルサレム女王に即位したため、その共同統治者となった者である。ところが、1187年にイスラムの英雄サラーフッディーンにハッティンの戦いで敗れ、エルサレムまで奪回されティールの港に追い詰められた。リチャード1世らの来援(第3回十字軍)は、エルサレム王国救援のために派遣されていた。ティール港はヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサの商船が集まるレバント貿易(東方貿易)の重要港で、ティールを抑えているギーにはエルサレムを失ったとはいえ、莫大な関税収入があった(なお、この前後に女王シビーユは亡くなっていた)。ギーはサラーフッディーンに追い落とされればキプロスに逃げていくつもりだったのだろう。この島は後に十字軍国家にとって重要な後方供給基地となる。1194年にギーが没すると、エルサレム王国はシビーユの異母妹に当たるイサベル1世(在位1192年 - 1205年)に継承された。一方キプロス島は、ギーの兄であるエメリー・ド・リュジニャンに継承された。エメリーは1197年にエルサレム女王イサベル1世と結婚し、女王の配偶者として、エルサレム王も兼ねた。1205年エメリーが没すると、キプロスはエルサレム王国から分離し、以後300年にわたってリュジニャン王朝が支配する。1291年に十字軍勢力の最後の拠点としてシリアに残されていたアッコン(アッカ)がマムルーク朝によって陥落すると、キプロスは最もシリアに近いキリスト教徒側の拠点という位置から、レバント貿易に従事する人々の間で重要性が高まった。この結果、キプロスを巡ってヴェネツィアとジェノヴァの間で対立が深まり、1373年にはジェノヴァの艦隊が島の南西に位置するファマグスタを占領するという事件も生じた。キプロスは東地中海における西欧最後の拠点として、アッコン陥落後もたびたび企図された十字軍遠征やイスラム勢力攻撃の基地となった。聖地騎士団、イタリア諸都市、西欧各国と組んだキプロス王国は、14世紀にはたびたび小アジアやエジプトを襲っている(1344年のスミルナ占領、1365年のアレクサンドリア十字軍など)。一方キプロス王家は、後継者争いやマムルーク朝などのイスラム国家との抗争のために疲弊し、イタリア諸都市に深く依存するようになっていた。中でもヴェネツィア貴族のコルナーロ家との関係は厚く、その支援に対して度々特権を付与することが行われた。また1464年に王位に就いたジャック2世はその即位前に異母妹と王位を巡って争ったが、この時もヴェネツィアからの支援を受けてこれに勝利し、コルナーロ家の娘カタリーナを妻に迎えている。しかしジャック2世は後継者の男子を得て程なく病死し、ジャック3世となったその男子も夭折するとカタリーナが女王となり、その16年後の1489年に彼女はキプロスを自らの祖国であるヴェネツィアに譲り、ここにキプロス王国はその幕を閉じた。 :キプロス王

出典:wikipedia

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